美作(岡山県の上の方かな)方面への日帰り遠征です。
岡山県津山市荒神山
美作・荒神山城(こうじんやまじょう)
荒神山城は元亀元年(1570)宇喜多直家(通称・恐るべし梟雄)の重臣である花房職秀(後に職之と改名)(宇喜多騒動の要因となった人物?)によって、備中・美作に侵攻した毛利氏に対する拠点として築城されました。その後、職秀は天神山城攻め、三星城攻め、備中高松城攻めなどで軍功を挙げましたが、文禄3年(1594)に宇喜多秀家(通称・イケメン中納言)と対立して追放となり、秀吉の取りなしによって常陸の佐竹義宣(河内源氏の流れをくむ常陸源氏の嫡流)に預けられました。その時期に荒神山城も廃城になったといわれています。
荒神山城は標高298m(比高150m)の荒神山山頂に築かれています。 現在は市指定史跡として登山道や道標などが整備されており、遺構の確認はしやすい・・・という情報なんですが、そんなに確認しやすくなかった。
県道449(押淵皿線)脇にある荒神山集会所向いに案内板があり、ここが登城口です。鉄馬車は広めの路肩に停め、本陣と定める。
標識から真っすぐ進むと、道が左右に分かれていて、どっち 地面にこのちっちゃい看板 右でいいのね
新緑の中を足取り軽く突き進む。
おおっ、いきなり石垣 まだ城域ではないので城とは関係ないと思ってたんですが、なんせ縄張図を用意してなかったもので、後にネットで見つけた縄張図には、この場は館跡と表示されていた。これしか写してないのがもったいない。
山道エリアになりバンバン進みます。
左には沢があります。
沢が石垣の段々になってるんですけど ええ苔っぷりなんですが、これは土留の石垣なんですか 段々に屋敷があったとか
沢に架けられた橋を渡って行く。
橋から見る沢のせせらぎ。
そろそろ看板も新調したほうがよろしいかと。
華教寺坂 この近くに同寺があったようです。その名の通りこの辺りから急坂になります。
はぁ はぁ
おおっ こんなとこに石垣が現れるとは聞いてない。虎口状な空間になってますね。
大手門跡やないですか?しらんけど
坂虎口になってたか?わからんけど
石垣の反対側斜面に竪堀。
坂虎口らしき通路は竪堀通路に。
尾根道になり土橋状な道。いちおう両脇がえぐれて堀切状になってます。坂道から尾根に出、おそらく西尾根に延びる郭に到達してるものかと。
わしはこんなとこ歩きとうないんじゃ~
おそらく郭を土塁と堀切で仕切ってる感じ。
尾根上の西郭を進みます。
竪堀を撮ったつもり。
上が本丸方面。右下に井戸跡があるようなので行ってみます。
石組みされた井戸跡がありました。水は涸れてるようです。
井戸跡から戻り本丸方面へ行くと、枡形虎口の看板。この場所は枡形虎口(左手)の手前の腰曲輪。
南斗ここで突然目がギラギラ~ 以前に関ヶ原の南宮山攻めでなった閃輝暗点(せんきあんてん)や~生涯二度目
視界にギラギラした白い物体が見えるやつ 南宮山のときは暑すぎて熱中症と思ってビビったけど、今回も、片頭痛が起こり、クラクラして意識が遠のき、ボテッと倒れ込んで、気が付いたら辺りは真っ黒くろすけの闇の中~ なことはないんですけど。ただ、しばらく視界のギラギラが続くんですわ。10分弱くらいつづく
枡形虎口 石がゴロゴロしてるのは虎口を形成してた石組みが崩壊したもかと。
もうこの辺は目がギラギラしながら写してるる。やすみゃええのに、ようやるわ。
虎口を入って内桝形になってます。虎口両脇にはウヒョー!と石も残ってます。
石垣で補強されてたであろう、いい感じの虎口左側の土塁。
虎口右側もいい感じの土塁。
上から見た内枡形。破壊されて原形は留めてないですが。
いよいよ本格的に城域です。
そして その2へ続いてしまいます。
ゴミは持ち帰れ。