蔵出し記事の第2弾

 

2019年9月からの蔵出しです。

 

兵庫県明石市明石公園

播磨・明石城 別名:喜春城、鶴城

 

明石城は元和3年(1617)将軍・徳川秀忠が姫路城と共に西国外様大名の抑えとして、明石藩・船上城主であった小笠原忠真(徳川譜代、信州松本藩2代目藩主)に築かせた。

 

苦心して明石城を築城した小笠原忠真は、寛永9年(1632)豊前・小倉藩に転封となると、松平庸直(戸田氏)― 松平光重―大久保忠職― 松平忠国、その子・松平信之― 本多政利― 松平直明―明治維新。

目まぐるしく城主が変わり、明治7年(1874)) 廃城令により廃城となりました。

 

明石城を訪れるのは4度目くらい。駅近と繁華街近くということで公園でのんびりする足軽も多し。商店街に明石焼き屋もたくさんあるし。が、仕事で明石には何百回(ちょっと盛った)と来てるが、明石焼きは食したことなし。

 

資金不足、幕府に遠慮、面倒くさい、その他諸事情により天守を建てなかった城は多々あります。明石城もそううちの1つです。

因みに、「天守閣」とは明治時代前後にそう呼ばれるようになり、それまでは「天守」(天主)「殿主」(殿守)と呼んでいた。わしも天守と呼ぶ

 

築城時には「一国一城令」で廃城となった三木城、船上城、高砂城、神吉城の石を再利用され、坤櫓(左)は伏見城、巽櫓(右)は船上城の遺材が使用されたと伝えられている。

因みに、巽櫓・坤櫓の棟と破風の方向は異なっています。

 

高石垣に建つ巽櫓(重文)

 

 

明石城では最大規模であったこの坤櫓(重文)が天守代用として扱われました。この日は坤櫓が一般公開されてるというのでやって来ました。坤櫓と巽櫓を隔週で交代ばんこに土日限定で公開してるようです。コロナ過以降はどうしてるかは知らんけど。

 

石垣に圧倒されながら虎口を上がり一旦二の丸を経由して本丸へ。

 

 

坂虎口の上から。正面に明石海峡大橋が見える。

 

 

本丸

 

 

係員を蹴散らして坤櫓内へ乱入。実際はやさしく対応

 

 

1階天井

 

 

1階床

 

 

2階へ

 

 

2階

 

 

小学生のころ遠足でプラネタリウムを見た明石天文科学館の搭が見える。その向こうに明石海峡大橋。

 

 

櫓から退出。

 

 

天守は建てなかったが天守台はある。雁木の下段に転用石が見える。

 

宝篋印塔の基礎部か? 明石城唯一の転用石といわれてます。

 

 

五層くらいの天守は十分建つであろう天守台の上。

 

 

往時は櫓門であった本丸北門跡から西の丸(稲荷曲輪)へ下ります。

 

 

おそらく乾櫓の石垣。

 

 

この辺りは樹々が多く日当たりも悪そうで、樹々から垣間見える石垣が古城感を醸し出す。ちょっと残念でもある。

 

本丸石垣。明石城石垣は打ち込み接ぎで横目を通しての布積みが多いですが、この部分落してるかなはてなマーク 石垣好きにとって落し積みには萌えない人が多い。知らんけど。

 

本丸西の西の丸への虎口。天守台の高石垣横を通り坤櫓の下へ。

 

 

おーっ! うっひょ~ビックリマークの天守台石垣。

 

 

隅石はひと際頑丈なバッチ加工された算木積み。石にノミで削った跡が残るのは、より精緻に加工し先を尖らすためだとか。石垣て石を見るだけでどの時代に積まれたかが分かり、ほんまおもろいな。

 

虎口から見る威圧感満載の天守台石垣。

 

 

坤櫓を見上げる。

 

 

そそり立つ巽櫓。笑い泣きすばらしい~

 

 

巽櫓に見下される。

 

 

巽櫓を普通に見る。

 

 

本丸(左手)と二の丸(右手)を遮断する堀切。正面の土橋で結んでいる。

 

 

二の丸のふんぞり返る石垣。

 

 

どこか忘れた石垣。

 

 

東の丸南東隅の櫓台。二重櫓が建っていたもよう。

 

 

二の丸帯曲輪から見る巽櫓と坤櫓。

 

 

築城時、宮本武蔵が客分として小笠原家に滞在しており、町割りや作庭の指導を行ったと記録されている。

 

櫓や石垣は阪神淡路大震災で被害を被ったが、全面修復され今日に至ります。

 

 

 

以上、明石城でした。

 

 

 

 

 

 


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