年末の阿波攻め第二弾です。
徳島県美馬市脇町田上
阿波・岩倉城(いわくらじょう)
岩倉城は三好康長(笑岩)(三好長慶の叔父)の子である三好康俊が城主をつとめた城です。脇城主・武田信顕と連携してこの地方一帯を支配していましたが、本能寺の変後に長宗我部元親が侵攻すると康俊は城を捨て逃亡(戦死かも)。さらに羽柴秀吉の四国攻めでは羽柴秀次らによって攻められ再び落城しました。その後、蜂須賀家政が阿波に入国すると、脇城が「阿波九城」として整備されたため廃城となりました。
県道12号をつるぎ町方面から脇町・うだつの街並方向へ走っていると新町谷川橋の所に岩倉城の案内表示があり堤防上を北上。ちょいちょい建ってる案内表示に従って進むと↑この徳島自動車道ガードを潜ることになる。
ガード潜れば正面にこの看板。ここに鉄馬車1台の駐車スペースがあり本陣と定める。
※ 「徒歩」→当ブログでは「かち」とお読みください。
徳島道横を進軍します。茂ってるとこが城跡です。
予め申し上げておきます。
後世の改変のため、城の遺構は殆ど御座いません。
城跡へ向う道は重機が通るために拡張されたもよう。
右に通路が見え、おそらく北郭と思われるが墓地のようです。あまり騒がしくしてはいけないと思い侵攻してません。
先へ進むと唯一の遺構である堀切が見えます。右が墓地である北郭、左が主郭。
堀切には侵入。
主郭の横を回り込む。
おそらく主郭の虎口があったであろうが、御覧の如し。
阿波・岩倉城 あっけなく撮ったど~
何もないのに説明板はある。
説明板はあるのに主郭部は御覧の如し。
三好山城守と三好徳太郎の名が見える。三好康長(笑岩)とその子康俊の墓石のようですが、なんか寂しげである。
主郭奥の墓石はほったらかしのようである。
ほったらかし墓石の後方は先程の堀切。
瓦片と石ころはいつの物か
説明板向い(南側)には削平地があるが以前は現場資材用(?)の建物があったもよう。
北側の眺望。
どこからも史跡指定はされてないようですが、道案内もあり親切な城跡やと思うや否や、残念な城跡でした。史跡指定までとは言わないが史跡の扱いくらいされてほしいものである。
もう遅いな
21/12/30