前記事の大森城を攻める前に大森陣屋跡へ寄ってたのである。

 

 

滋賀県東近江市大森町

近江・大森陣屋(おおもりじんや)

 

大森陣屋は最上義光(もがみよしあき)(通称・出羽の猛将)の孫である最上義俊(家信)によって築かれた陣屋です。元和8年(1622)、義俊が13歳で家督を継いだことに家臣が反発して起きた「最上騒動」によって山形57万石を没収とくんされて改易となり、あらたに近江大森1万石に入封して陣屋を構えました。その後、寛永8年(1631)に義俊が死去すると義智が家督を相続しましたが、幼小であったために所領を5千石に減封される。

 

清和源氏足利氏の支流で三管領の一つ斯波氏の分家にあり、室町幕府の羽州探題を世襲できる家柄で、出羽国の戦国大名と成長し、最上氏第11代当主である最上義光は関ケ原後に山形藩57万石を領する大大名となるも、たった5千石の旗本格の交代寄合というなんちゃって大名にだだ下がりになっちゃったわけですよ。明治維新までお家は存続したんですけどね。 無気力あぁなげかわしや~

 

大森町交差点の陣屋の石碑が建てられてるとこ。むっちゃ逆行でです。石碑を写すには午後からがお勧めです。

 

大森陣屋石碑

 

陣屋跡には何も残っておらず、石碑しかありません。

 

 

順光の裏側を撮る。

 

 

大森陣屋由緒。読み難くかってもお読みください。

文禄の役の際、最上義光が秣場(まぐさば)として大森郷を給せられた由縁でこの地に封ぜられたようである。

最上義光といえば娘・駒姫が秀次事件に連座しての処刑は涙涙涙なくしては語れぬ理不尽すぎる悲劇がある。

 

秣場とは牛馬などの飼料にあてる草を摂取する場所。

 

陣屋跡碑がある道路を挟んで向かい側が陣屋跡地と云われており、現在は小学校となり、朝に夕に学童の歓声絶えない勉学の場となる。

 

往古先人の歴史を偲び、陣屋跡の一隅にこの碑が建立される。

 

 

飛び出し多し、近江の国 

 

 

どこでも飛び出しはキケンである。

 

 

 

 

 

22/12/28