摂津・山田城

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同じ摂津国の難読地名やさしい編「吹田市」に、遺構は残らず、場所も定かではない山田城跡てありますが、同じ摂津でも毎度お馴染みの大阪府のいちばん上、いわゆる北摂(ほくせつ)の城跡です。ちなみに 吹田市も北摂になります。そしてわしは自称・北摂守である真顔

 

大阪府豊能郡能勢山田

摂津・山田城(やまだじょう) 別名 能勢山田城、亀ノ屋城

 

山田城は、治安2年(1022)多田満政の五男である山田忠国(清和源氏経基流、源忠国)と、兄忠重が在城してたと記録があり、その時期に築城されたと推測される。山田氏代々の居城で、丹波街道を抑える役目を担っていたと思わる。天正年間(1573〜1592)山田清左衛門景明が城主のときに落城したと伝わる。

 

城は山田川に沿って東へ伸びた標高360m、比高130mの山魂に築かれており、堀切で区画された北西の曲輪と南東の曲輪の主要二郭で構成されるシンプルな縄張りであるが遺構の残存度は高い部類に入るかと。

 

近くに領民の庭を駐車場にした三草山・棚田駐車場(観光用?500えん)があり、そこに本陣を敷き、そこから徒歩にて約10分登城口まで進撃します。

 

行軍しながら見えるのは、この前に攻めた恐怖の直登地獄の今西城跡(左寄り)と、直下地獄の森上城跡(廃校の上辺り)

 

その向かいに、これから挑む山田城跡がある山。いちばん高いとこね。

 

途中にある新宮神社。この左が公民館で、実は最初にこっちの方が城に近いしタダやしここに本陣を敷こうといったん鉄馬車を停めたんですが、なんでか知らんけど棚田駐車場へ移動したという律義者です。← 意味不明?

ちょっとお寄りして戦勝祈願しときました。

 

豊能郡特有(?)の不親切極まりない城跡です。案内板、明確な登城口、道があらしません。今回も、ネットで情報招集した適度な場所から山へ取り付いていかなあかんのです。

 

取り付く場所を探してたら石仏さんがいた。

 

ニャンコとブーと思ったら、角があるのでイノシシ?が、南無してた。

 

石仏の近くの突入できそうな場所から、適度に狙いを定めて突入。

 

うぎゃ~あせる

 

うぎゃ~あせるを突破すると、畑地跡らしき段々。

 

うぎゃ~あせる 畑地跡から地獄の直登体制に突入 。

 

いちおうピンクテープ頼りで。えーんぐるじい~

 

やがて緩やかな斜面になりそこそこ歩きやすくなる。急斜面地獄は意外と短かったので助かりました。

 

突入口から30分弱、城塁であろう切岸が見えてきた。

 

「余湖くんのホームページ」から縄張図を借用しました。

矢印方向から直登し、城の南東先端部の切岸下に達したもよう。

 

切岸を上がると主要部下段の長細いテラス状に段になった腰郭。そこに横堀?

 

横堀でええと思う。

 

腰郭からの切岸を上がって虎口状な開口部から郭Ⅰへ。

 

郭Ⅰ。南東の今居る郭Ⅰ、北西の郭Ⅱの二つの曲輪で構成されてるが、表記がないのでどちらが主郭なのかわかんないです。この南東郭はご覧の様にちょっと斜径してんですよね。ほんでもって北西郭が比較的高所にあるので主郭かとも想像できるんです。あとで分かりますがこちらの南東郭の防御面がド派手な感じからして、余湖くんの縄張図に同意いたし、この南東郭を郭Ⅰとさせていただきます。

 

土塁囲みです。これは郭へ突入して右向いての東隅部。

 

左向いての南西部土塁。この土塁だけ見ても気合入った盛り方してるのが伺い知れる。それに立木伐られて整備された痕が。 郭内は下草ないし。道はないけど。

 

南西部虎口。おほっ!張り出しで横矢掛けてますね。

 

その虎口を正面から。

 

その虎口をアップで。桝形状から左折れで最初の横堀があった腰郭へ道が通じてるようです。

 

東面土塁。

 

上に同じく。カッケー!

 

上に同じくの横矢部。

 

東側虎口。

 

東斜面へ出て、腰郭へと通じてるかも。

 

虎口を出て見返すと石。

 

上に同じ。

 

土塁は若干ジミになり北面の先へと。

 

Ⅰ郭を先へ。立木は仕方ないが、下草が茂ってないのが進軍しやすくて救われる。

 

Ⅰ郭東側の低くなってるとこ。斜径してるのがちょっと残念。

 

南西部のオレオレ土塁が素晴しいが、アングル的に立木多し。

 

北まで連なるⅠ郭東面土塁。

 

郭Ⅰ最奥部(北西) これ当初城塁と思ったんですが、激大土塁と分かってビックリ仰天ヒデキ感激! すんませんあせる

 

激土塁手前に、先人が付けた白テープ以外に初めてあった表示板。

 

ぶっ倒れてる木の中間の窪みが井戸跡かと。コケ石があるんでねぇ、石組みされてる井戸と予測。なので、木をどけて落葉払ったろか思たけど、木が微動だにしなかったあせる すんません 微動はしたDASH! 

井戸跡の左は登り土塁状で激土塁と繋がってる。

 

井戸の左手(西)に虎口。両側の倒木が虎口を強調してるが、倒木の方向に開いてるのではなく、画面左からの左折れで城外へ通じてる。

 

虎口を出れば、最初の腰郭へと続く。向こうに見える張り出し部は横矢。

 

井戸跡辺りから見る激土塁。

 

激土塁右に(東)に虎口。

 

虎口からの先は、直進すれば郭Ⅱであることから、この虎口は郭Ⅰと郭Ⅱを繋ぐ連結通路であるかと推測。この右に竪堀、左に堀切がある。

 

虎口から出て左向くと掘り切り。略して堀切。この城で2こ目の表示板は、別の場所で寝転がってたので、写真に納まるよう木に乗っけてあげました。

 

大土塁の堀切側。

 

土塁。伊賀・丸山城の二重横堀の土塁を抜き、今年最強の土塁ビックリマーク

 

土塁を乗り渡っての反対側。木が横たわってるとこが井戸跡。

 

逆から見る大土塁。

 

土塁上から見る郭Ⅰ。

 

眺望はこれが限界あせる

 

再び堀切。

 

堀切からの竪堀。

 

逆から。

 

 

郭Ⅱ

 

堀切から郭Ⅱへ上がると土塁。郭Ⅱは堀切側に高低差がない小郭があり、グイグイ土塁により仕切られてる(略して仕切り土塁)。

 

グイグイから北西面へ続く土塁。

 

仕切り土塁の中程にある開口部は石がチラホラしてることからして、石組みにより形成されてた虎口と推測する。

 

虎口から右側の仕切り土塁。

 

仕切り虎口から見返す小郭。奥が堀切。

 

郭Ⅱ

 

大土塁横の郭Ⅰ虎口から通じている郭Ⅱ虎口。こちらは虎口から出て枡形状空間を設けてますね。

 

郭Ⅱ南西の虎口。土塁は食違い状にしいるかと。

 

虎口から南西斜面へ出てシゲシゲになって南へ向かって堀切へ続いてると推測。

 

ここの虎口にも石が見える。

 

郭Ⅱ中央部は土壇になってそうですけど、こんな状態あせる

 

奥へ連なる北西部の低い土塁。

 

郭内北東部の窪み。何かは不明。

 

窪みから北の土塁。

 

郭Ⅱ先端部の土塁。

 

上に同じを別アングルで。

 

上に同じを逆方向アングルで。

 

土塁に乗る。

 

土塁に乗って郭Ⅱを見る。

 

最先端(北西)を孤独に守る堀切。

 

堀切から賑やかに落ちる竪堀。

 

堀切から先は自然地形の尾根が続く。

 

 

これにて山田城完全攻略

 

退却します。

 

 

孤独の下山。

 

畑地跡まで下りてきた。畑地跡かどうかは知りませんよ。居館跡であったとかも想像できるが、想像の域である。

 

巨石があって回り込むと・・・

 

はぁはてなマーク  残念石? そないに岩盤質の山でもなかったし、この山の石か、なんで割ったのか、何に使用しよとしたのか、考えても答えは出ないので考えない真顔

 

下山した 左に見える茅葺屋根の家は民家を改修した「そば屋」である。食うてないけど。裏で主人らしき人が大声で歌いながら作業してた。

 

帰陣途中にあった大日堂行にも通ったけど

 

何処から運んで来たか知らんけど、婆さんがここまで背負ってきて息絶えた動けなくなって、ここに安置したそうである。

 

唱え方が分からんので、手を合わせたのみ。

 

打込みの布積みの算木積みですよ。寛永5年の石垣やろか? 

 

 

image image

軌跡データ。

 

この地方(能勢郡)特有の不親切な城跡でしたが、案内板(2枚)と整備もされたようです。道ないけど。城は小規模ながらも折れた土塁、食い違った虎口と意外にも技巧的な構造もお見受けいたしました。なんと言うても城塁と思った大モッコリ土塁は迫力満点で、遺構残存度もなかなか良き按排でした。

 

 

 

あばよ

 

 

 

 

 

 

いい夢見ろよ!

 

 

 

 

 

 

25/02/14