戦術ブロガーから22歳でJクラブのプロ分析官

桑原徹 TETSU 戦術ブロガー サッカー監督 サッカー 分析官 プロ 




 

私は、1997年12月生まれ。

 

21歳の時から、当時 J1 リーグで戦っていたジュビロ磐田のトップチームで通訳の仕事をさせていただき、

その同年に、次年度からトップチームでの分析官を努めさせていただけることが決まった。

そして、22歳でプロの分析官(アナリスト)としてJクラブのトップチームで仕事をさせていただけた

 

分析官/アナリストとは、味方のチームや相手チームの戦術分析して、チームが試合に勝てるようにするのが主な役割だ。

 

私は、サッカー選手として人に言えるようなキャリアは何もない。

サッカーというスポーツに関して言えばいたって普通の人間か、それ以下の存在だった。

 

というのも私は幼い頃からサッカーをしてはいたが、中学2年生の時にサッカーをプレーをするのを辞めたからだ。

中学2年生という早い年齢でサッカーを辞めた人間が、その後サッカーを職として生きていることはとても珍しい例だと思う。

 

私はサッカーを早くに辞めたものの、16歳からサッカー指導者を初め、18歳で単身スペインにサッカーを学びに行った。

サッカーの試合分析ブログを趣味で投稿していた通称「戦術ブロガー」だったが

その6ヶ月後の22歳で本物のプロのサッカー分析官となれたのだ。

 

日本のプロサッカーリーグであるJ1、J2での仕事を経て、

南米のパラグアイ1部リーグで、分析官として1シーズン半の間仕事もした。

 

自分自身、ここまで順調に自分のキャリアを進められたことは、少し気落ち悪く不思議であると感じると共に、とても幸せなことだと感じている。

そんな異色な経歴である私のこれまでの経緯と経験、日本でのサッカー分析官という職について綴っていこうと思う。

 

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21歳でJクラブトップチームで働くまで

先程記載した通り、私は中学2年生でサッカーを辞めた。

今、世界でサッカーを職として生きている人の多く、

特にサッカー指導者として生きている人は、早くても高校生や大学生年代の18歳や22歳まではプレイヤーとしてサッカーをプレーしていただろう。

 

日本では、サッカー選手としてのキャリアが終わった後に、サッカー指導者になるという考え方がより強い。

その為、私のように中学2年生でサッカーを辞めたにも関わらず、その道で将来生きている例はあまりない。

だが、実際に私が22歳でプロのサッカー分析官になれたのは、中学2年生でサッカーを辞めたことが大きく関与しており、

間違いなくそれがプロの分析官になる為の最初の1歩目だった事だと、今では確信している。

 

私がサッカーを辞めたのは、当時加入していたサッカークラブの影響でサッカーをプレーするのが嫌になったからなのだが、

サッカーを辞めた分、海外のサッカーの試合を毎日のように見るようになった。

ちなみに私がよく見ていたのは、スペインのラ・リーガだ。

どのチームも組織的な戦術のレベルがとても高く見応えがあったので、試合を見ながらサッカーの戦術面を考察することがとても楽しく感じるようになったのだ。

もちろんゴールシーンや、個人でのスーパープレーにも素晴らしさを感じたが、それ以上に試合全体の流れや11人でのシステマティックな戦い方の方がよっぽど魅力的だった。

 

中学を卒業するあたりから高校生の頃には、試合の戦術を理解し考察するだけでは物足りなくなり、見る試合毎でノートをとって、個人的に試合分析をしていた。

この作業が、後の戦術ブロガーに繋がっていたのだが。

 

毎週ほぼ全てのチームの試合を見ていたので、試合の流れを予想したり、次の試合では実際にどのような戦術だと試合に勝てそうかなどと考えることも楽しかった。

その作業をしていく中で、私の考えていたサッカーというスポーツのイメージが、日に日に変わっていった事は今でもよく覚えている。

 

 

私がサッカーを辞めてから一人で試合分析をしていたのはあくまで趣味の一貫であって、高校生の頃からプロの分析官になることを目指していたわけでは全くなかった。

そして、将来その作業のプロとして仕事ができるなんて微塵も想像はできなかった。

そもそも、サッカー分析官/アナリストという仕事があることすら知らなかった。

 

では、その時には何になりたかったかというと、「チームの戦術を考えられる監督などの役割を、チームで担う事」だった。

サッカー監督、あるいはコーチなど。

私は、昔からその時々の目標や夢を忘れない為に、ノートや携帯のメモ機能に書き残していたので、当時にこの夢を思い描いていた事は今でも覚えている。

 

サッカー監督やコーチとしての経験を少しでも積む為に、高校生だった16歳の頃からサッカー指導者の道を進み始め、海外クラブのアカデミーでジュニア年代のコーチを始めた。

そして、「サッカー監督としてトップチームを率いて、試合に勝つ」という夢を持った高校3年生の17-18歳の時に、単身スペインへサッカーを学びに行った。

 

私がスペインへ行こうと思った理由は主に2つあった。

1つが、日本でのサッカー指導者のライセンスは、サッカー選手としてのキャリアのない一般人が上級のライセンスまで取得するのはほぼ不可能だったから。

日本のライセンスは取得する以前に受講することすら難しいのに対し、スペインのサッカー指導者のライセンスは誰でも受講することができテストに受かれば取得できる。

 

2つの目の理由の方が大きいが、それは単純にラ・リーガが大好きだったからだ。

ラ・リーガに魅了され夢を持った身なので、その地でサッカーを学び、その地で挑戦をしたかった。

 

スペインでは2シーズン過ごし、サッカー指導者をしていたと共にサッカー監督のライセンスをの1つを取得し、当時の自分にできる限り多くの手法でサッカーの知識を学んだ。

分析官としての能力もその中の1つだ。

 

それは、私が18歳から20歳だった時のこと。

スペインのサッカーコーチングスクール、監督養成学校での最初の衝撃

2018.05.13

ちなみに私は最初にJクラブで仕事ができたのは通訳としてだが、スペインに行った頃までスペイン語はほぼ話せなかった。

スペインに行ってから本格的にスペイン語を覚えたのだが、相当苦労した。

私のスペイン語の能力が向上したのは、

その目的が「スペイン語を覚える事」ではなく、「ライセンスを取得し、サッカーを学ぶ事」であったので、スペイン語を覚えることはただの過程にしか過ぎなかったからだ。

 

本来の目的が過程のその先にあったので、過程であったスペイン語は死に物狂いでするしかなかった。

そして、スペインでライセンスが取れるレベルまでには達する事ができた。

 

海外へ留学したことのある人はお分かりだと思うが、海外留学をするには相当なお金がかかる。

留学生はバイトができないという事もあるが、私はスペインに行く目的がサッカーを学びライセンスを取得することだと決まっていたので、バイトをする余裕もなかったという事もある。

私はスペインでの生活費を高校生の頃からできるだけ貯めてはいたが資金面で限界があり、その結果スペインには2年間しかいれなかった。

 

理想では、できるだけ長くスペインにいたかったのだが、1度日本に帰り、再度スペインへ行くお金を貯めるしかなかった。

 

もちろん長期間スペインに滞在できるだけのお金を貯めてからスペインに行く選択肢もあった。

また、日本で大学を卒業してから、海外へ行く選択肢もあった。

私のように高校を卒業してすぐに海外に行く例は少ないだろう。

だが、私が高校を卒業してすぐに海外に行ったのは、日本で大学に行く4年間がとても無駄に感じたからだ。

大学に行く大きなメリットは自由に使える時間があることと、大学卒という学歴を得られることだろう。

 

しかし大学で4年間も使うとなると、それだけでスペインに行く頃には23歳以上になる。

サッカー選手としてのキャリアのない一般人の自分が、サッカー監督を目指し挑戦する為には、可能な限り若い年齢から経験を積まないと他の人には勝てないと感じていた。

 

大学へ高い学費を払い他の分野を学び、サッカー監督として4年分もスタートが出遅れると考えると、その大学へのお金をスペインへの留学費へ投資し、

できるだけ若い年齢でスペインで成長した方が夢を果たせる可能性が高いと考えたので、私は高校を卒業してすぐに海外へ行ったのだ。

 

私の夢と目標について。好きなサッカーを職として目指す21歳

2019.02.28

 

日本に帰国してからは、再度スペインへ行くためにお金を貯めながらサッカーコーチとしての仕事をして、少しでも多くの経験を積んでいたと共に、

私がスペインで学んだサッカーの知識や考えをアウトプットし、自分自身の為にも整理していくために、個人でブログを始めた。

そして、趣味の一貫でサッカーの試合分析を行い、それを記事として自分のブログでも投稿していった。

 

今では、note や他の様々なブログ でもサッカーの試合分析をしている人をよく見るが、当時は 私も同じようなことをしていた、いわゆる「戦術ブロガー」だった。

 

その作業は私が高校生の頃から1人でやっていたのと同じようなものだったので、

戦術ブロガーとして記事を続けて更新していくことは全く苦ではなく、時間はかかるものだったがむしろ楽しく感じていた。

スペインのラ・リーガの試合やJリーグの試合など、見る試合毎で興味の湧いた試合を深く分析していた。

実際に、当時21歳だった頃に私が行っていたサッカー試合分析のブログ記事だ。

2019年横浜F.マリノスの試合分析【アタッキングサッカー】Jリーグ

2019.02.26

 

そんな自分に転機が訪れたのは、日本に帰国してから1年と少し経った8月の事だった。

当時J1(日本サッカーのトップリーグ)で戦っていたジュビロ磐田の監督が交代となり、スペイン人新監督「フェルナンド・フベロ」氏の招聘が決まったことにより、新たにスペイン語のできる通訳を探しているとのことだった。

どのようなルートでその話が自分の元に巡って来たのかをここでは具体的に記載する事はできないが、

簡単に言うと、

私がスペインへ行って得ることのできた人との繋がり」と、「高校生の頃からサッカーの情報を得る目的でやっていたTwitterでの繋がり」からだった。

 

この2つの繋がりによりその話を頂けた。

「サッカー監督としてトップチームを率いて、試合に勝つ」という夢を持っていた当時の自分からすると、通訳という道は今までほとんど考えていなかった。

 

しかし、トップチームのスタッフの一員として仕事ができるチャンスはそう来るものではない。

クラブのアカデミーや下部組織でのスタッフは、トップチームでのスタッフになるよりは広い門だ。

それは、サッカーだけでなく、他のスポーツでも同じだろう。

 

トップチームか否かで、その間には大きな壁がある。

 

特に、サッカー選手としての何のキャリアもない一般人の私が、その壁を越えられるチャンスは滅多に来ない。

一生で一度来るだけで奇跡とも言えるだろう。

トップチームに関われるという壁を越えられるチャンスが巡ってきて、それは実際に日本のトップチームでプロの世界を知れ、後にサッカー監督を目指すにしても生きる経験と考えると、私はその話を断る訳にはいかなかった。

その結果、Jクラブのトップチームで仕事を始められた。

私が21歳の時のことだった。

サッカー 監督 コーチ 南米 パラグアイ ブラジル アルゼンチン 分析官 アナリスト 1部 プロ 契約 契約書 通訳

22歳でプロの分析官になるまで

日本のプロサッカーリーグのJリーグのシーズンは、2月から12月までだ。

私が通訳としてチームに加入したのは8月の下旬からなので、その年の通訳としての仕事は4ヶ月間と少しだけだった。

 

その4ヶ月間(厳密にいうともっと短い)という時間の中で、私は次年度から分析官になることが決まったのだ。

 

8月にチームに加入し、私が主に行ったのはスペイン人監督「フェルナンド・フベロ」とスペイン人第二監督「ダニエル・ルビオル」の通訳。

後に、パラグアイ人フィジカルコーチの通訳も行った。

外国人テクニカルスタッフ達の通訳だ。

 

とは言っても、試合や練習やミーティングなどでの監督の通訳は私は担当せず、それらは経験の豊富な別のベテランの通訳者が担っていた。

 

だが、他に通訳としての仕事をする場面は意外にも多くある。

サッカーに限って言うとテレビや雑誌などでのインタビューや、他のコーチングスタッフらと行うミーティングでの通訳など、

また、サッカークラブのみならず野球やテニス、外国人の芸能人などの通訳でも、通訳としての業務はどの分野でもそこまで変わらないと思うが、

VISA(入国、住居)などの手続き、車の運転、病院や買い物、携帯ショップへの付き添いなどの私生活での通訳。

 

通訳者は通訳をする外国人と共に過ごす時間が、本来の業務時間外である日常生活の時にも多くある

その時間が増えるほど、その外国人との信頼関係も構築していけるのが普通だろう。

 

私の場合は、その相手が監督「フェルナンド・フベロ」だった。

 

毎日のクラブハウスへの行き帰りの車での移動中や私生活でのサポートなどで、練習外から共に過ごす時間が増えると、それだけ会話する時間が増え、お互いの事を知っていくのが普通だ。

また、フェルナンド・フベロ監督はスペイン人で、私はスペインで少なからずサッカーを学んでいたという共通点もあり、スペインサッカーの話など共通の話題は多かった。

 

私が通訳になった経緯の他にも、私の夢や好きなことを話す機会もあった。

私は将来サッカー監督を目指してはいるが、分析の分野に関してはずっと勉強し個人的に行っているということなども。

そのようなサッカーの話や私生活の話をしていく中で、徐々に信頼関係ができていたのだ。

 

と、思う。

 

なので、監督にも私がサッカーの分析分野の仕事を目指している事も知ってくれていた。

 

そして、日が進んでいくにつれて、今までになかったような会話を監督と第二監督から多くされるようになっていた。

それは、移動中での車の中や、コーチングスタッフでのミーティングの時、練習前後でのグラウンドの中などでだったのだが、

 

「自陣でのポゼッションを行う際の、ボランチのポジショニングでの適正な優先順位はなんだと思う?」

「カウンター攻撃を行う際に意識すべき点は?」

「ゾーン1での攻撃時に私達チームのゲームモデルから選手に求めることは?」

「オフェンスのこのような集団戦術のプレーのことをスペイン語で何という?」

 

などと、サッカーに関する質問を多く受けるようになっていた。

質問の内容を詳しくは覚えていないが、2人は多くの質問をあくまで通訳であった私に対してしていた

そして、その都度それに私は答えていた。

 

時には私の間違えを指摘されることもあったが、私が答えた後に隣にいた第二監督から、私が言った答えの内容に対して褒めてくれる事も多かった。

当時は、遊び感覚で私に問題を出したり、単に第三者の意見を聞いてみたいだけなのかと思ってその質問に答えていたが、

 

後に、それら日常の会話全てが私に対するテストであり、私にプロの分析官として望ましい能力があるのかを判断するためのものだったのだと理解した。

 

そして、冬であったシーズン末、来シーズンの仕事の役割をクラブのフロント陣から告げられたのだが、それが「分析官」だった。

もちろん、そのことはその通告を受けるまで誰からも一切知らされていなかったのだが、私を分析官に任命したのは監督だとその時に聞いた。

 

私がトップチームで仕事を始めた同年だったので、その時は21歳の時のことだった。

 

ちなみに、海外でのサッカー監督というのは、4-6人かそれ以上でのグループで動いている。

監督とコーチ数名が1つのチームとして働き、監督が他のクラブに移籍する際には、そのコーチ含め全員で移籍する。

そして、監督が解任される時には、コーチ含め全員が解任されるのが当たり前だ。

監督が信頼して仕事に慣れているメンバーで続けていく方が、効率が良くクラブとしても早期的な結果に結びやすいからだ。

チームの全責任を負う監督を最大限サポートし、クラブを勝たせるための手法だ。

だが、日本の場合ではこれはできていない。

特に、新たに外国人監督がクラブに招聘した場合などでは、監督のみや、監督と第二監督の2人のみで移籍してくる場合が多い。

その多くが人員面でのクラブ側の事情によるものだ。

 

私が共に仕事をしていたフェルナンド・フベロ監督も同じだった。

監督と第二監督、後に来たフィジカルコーチの3人しか日本には来れず、他のアシスタントコーチやGKコーチ、そして分析官は監督付きでは来れなかったのだ。

私が分析官としてそのチームに入れたことは、この条件下であったことも大きかった。

 

そうして、翌年から分析官として仕事をさせて頂けた。

それは私が22歳の時だった。

 

私はこのジュビロ磐田での出会いがきっかけで、私は分析官としてフェルナンド・フベロのグループの一員になった。

そして翌年から、フェルナンド・フベロがパラグアイ1部リーグのClub Guaraniでの監督就任が決まり、他のスペイン人コーチらと共に南米まで渡り、計6名で1シーズン半戦った。

もちろん日本人は私だけで、他の南米1部リーグのスタッフたちを見てもアジア人すらいなかった。

パラグアイ 南米 サッカー カップ 優勝 アナリスト 分析官 プロ 1部 



一般人がトップチームで働く為に

サッカーの戦術が好きで監督を目指す

サッカーを学びにスペインに行く

アウトプットとしてブログを始める

趣味で試合分析記事を投稿

その6ヶ月後、プロの分析官へ

私は、偶然巡ってきたチャンスを、偶然掴めた。

もちろんそれには、今までやってきた努力と準備の結果ではあるが、人生は思い描くようには絶対に進まない。

思い通りに進まない事が多く起こった結果、偶然辿り着けた。

 

私は、プロの分析官になることを目指し中学2年でサッカーを辞めたわけでも、プロの分析官になるためにサッカー指導者を始めたわけでも、スペインへサッカーを学びに行ったわけでも全くない。

そもそもスペインに行ったのはサッカー監督を目指していたからで、

分析官としての能力を得られたのは、その付属的なものだった。

通訳も全く考えていないルートだった。

 

サッカー監督を目指しスペイン語を習得でき、通訳としての仕事がきっかけでトップチームに入る事ができ、分析官になれるチャンスが来ただけだった。

全てがタイミング良く噛み合わさったとしか説明ができない。

 

90%以上が偶然の出来事だった。

 

その時々に目指していたことの為に、その都度できることをしていたら、偶然分析官に辿り着けただけ。

 

「一般人がトップチームで働く為にはどうすればいい?」

この質問を受ける事が多々ある。

 

日本でサッカー選手としてプレーしている人はもちろん、サッカー関係の仕事をしている人の多くがJリーグのトップチームで働くことが1つの目標のはずだ。

 

私なりに考えると、その答えは「運とタイミング」

この2つだと思う。

 

特に日本では、トップチームで働くにはサッカー選手としてのキャリアやコネは大きなアドバンテージになる。

私のようなサッカー選手としてキャリアのない一般人が、サッカークラブのトップチームで働けるかどうかは、運とタイミング次第。

 

まずは、その運が寄ってくる可能性を上げる事。

コーチや分析官というのであれば、現在多くのスタッフをJクラブに輩出している筑波大学に行って学ぶでも良いだろうし、サッカーカレッジなどの日本のサッカー専門学校に行くことでも良いだろう。

少なからず日本でアピールできる実績になり、Jクラブへ繋がるためのサッカー関係の人脈も増やせるだろう。

 

それか海外に行きライセンスを取得し経験を積むこと。

他人と違う事をして、自分の価値を上げること。

また、私のように外国語を習得することでも良いだろう。

Jリーグで需要の高いポルトガル語か英語を話せるだで、まずは通訳として働ける可能性も上がる。

私がスペインに行った後から、フェルナンドトーレスやビジャやイニエスタなどとスペインのスター選手がJリーグでプレーする事も増え、ファンマ・リージョも監督としてヴィッセル神戸に就任していた事もあり、

スペイン語の需要が高かった時期もあった。

私は、その結果トップチームで働く事ができた。

 

そして、その運が近づいた時に、逃がさない為の努力と準備をしているかどうか。

私の場合は、分析能力の向上とノートやパソコンにそれらをまとめていたこと、スペイン語の能力、スペインでのサッカー関係での人との繋がり、日本でのサッカー関係での繋がり、ブログとTwitterなどでのアウトプットなどだった。

 

そして最後は、タイミングが合うのかどうか。

日本サッカーのシーズンオフになる12月に話が来るか、それとも移籍や解任に伴い不規則なタイミングで動ける機会が巡ってくるのか。

 

私の場合は、スペインに行っていた時期が1年でも前後にずれていたら不可能だった。

 

『サッカー選手としての経験のないサッカー監督や指導者はどうなのか?』↓

サッカー監督に選手経験は必要か否か。指導者のキャリアとは

2021.02.21

 

 

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