救い主
くりかえし何度でも彼は人に生れる、
敬虔な耳に、また聾(つんぼ)の耳に語りかけ、
われらに近づいて来、またもやわれらから失われる。
くりかえし何時(いつ)でも彼は独り聳え立ち、
すべての兄弟の悩みと悲願を背負わねばならぬ、
いつも新たに十字架に懸けられるのだ。
くりかえし何度でも神は自身を告げようとする、
天上のことごとは罪の谷に向って、
永遠(とわ)なる精霊は肉に注ぎこもうとする。
くりかえし何時でも、今この日々にも、
救い主はわれらに向かっている、祝福をもたらしに、
われらの不安、涙、問いと嘆きに
静かなまなざしを注ぐために、
われらはそのまなざしに応(いら)えることを得ぬ、
子供の眼だけが堪えうるそのまなざしに。
こんばんは。
今夜の音源は、いささかマニアックです。ショパンの『エチュード(練習曲)』ばっかり聴いてみようという企画。。。 しかも、「革命のエチュード」「別れの曲」みたいなクソ有名なのは、わざと抜かしてですw といっても、1曲1曲は、とても短いですから、どうかお付き合いください。
さて、『エチュード集』の最初に置いてあるのが↓この曲。「滝」「階段」といった愛称がついてますが、要するに音階の練習です。右手は、最初から最後まで、鍵盤の端から端まで往ったり来たり。左手が、伴奏のような和音でメロディーを聞かせます。
ショパン『エチュード ハ長調“滝”』作品10-1
イェヴゲーニー・キッシン/ピアノ
「フレデリック・ショパン作曲の『練習曲』は、ピアノのための練習曲の中で最も有名なものの一つ。全27曲ある。
練習曲ではあるが、音楽的にも完成された作品であり、演奏会でも取り上げられることが多い。愛称がついている作品も多いが、愛称はどれもショパン自身によるものではない。」
つぎは、『練習曲集』の最後の曲(曲集によっては、他の作曲家の教則本に載せられた「モシェレスのメトード」が、この後に追加されていますが)を聴いてしまいます。
愛称は「大洋」ですが、海の嵐という感じ。先頭の「1番」は、右手がスケール(音階)でしたが、この曲は、両手ともにスケールを弾きながら、大波のように寄せては返します。「1番」と好対照。
大海原のまん中で、こんな嵐に揺られたら、命が縮まるほど恐ろしいでしょうね。
ショパン『エチュード ハ短調“大洋”』作品25-12
マウリツィオ・ポリーニ/ピアノ
つぎは、愛称「人馬」とか「ナイト(騎士)」とか。
私は、なんとなく猫か兎のような動物が、ぴょんぴょん跳ねているのを、思いうかべてしまうんです。『エチュード』には、こういうユーモラスな感じの曲が、‥有名でない曲ばっかりですけど、‥意外に多いんですよ。
ところが…、動画を見てみると、ピアニストはみな、この曲を、しかめっつらしたり、いかにも「しちめんどくさくて、つまんない曲だな」って表情で弾いてるんですよね。。。 ←
↓トリフォノフ氏も、最初は厭そ~うな顔してるんですが、(え? 厭がってるんじゃなくて、精神を指に集中させてるんだって? クチが悪くて、ごめんなさい m(_ _)m)‥‥弾いてるうちに表情が解けてきて、最後は、ほんとに楽しそうに弾いてるので、この音源にしました。
ショパン『エチュード ヘ長調“人馬”』作品25-3
ダニール・トリフォーノフ/ピアノ
つぎは、愛称「激流」。「この曲はキッシンでなくちゃ!」と思わせる快心の演奏。指が高速すぎて見えないっ !!:
ショパン『エチュード 嬰ハ短調“激流”』作品10-4
イェヴゲーニー・キッシン/ピアノ
さいごは、ちょっと有名な「木枯らしのエチュード」。これも、キッシンのオハコですね。音だけでなく、弾いてる指が見えると、いっそう迫力を感じます。
ショパン『エチュード イ短調“木枯らし”』作品25-11
イェヴゲーニー・キッシン/ピアノ
吟遊詩人
春たち夏たちは緑になって
起き上がり歌をうたう、
この世を彩(いろど)り、疲れて
傾き、また地に横たわる。
日々の花の輪から夢見るように
明るい刻々(ときどき)が素敵な言い伝えのように
軽くわたしに会釈しては過ぎてゆく、
ほほえむ、かがやく、消えてしまう。
日々の変わり目に慄(おのの)いて、
黄金と愛は目くばせしようとも、
私の腕は悲しく沈みこみ
飾り豊かな手回琴(ヴィエール)を手離すのだ。
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