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執権北条時宗と対峙する一遍・時衆  『一遍上人絵伝』小袋坂の木戸の場
1282年3月1日、一遍と弟子・信者の一行は鎌倉入りを試みるが、おりあしく
北鎌倉で北条時宗に出会ってしまう。恐れるようすもなく平然と対峙する一遍に
北条時宗は激怒し、暴力的に追い払う。時衆一行は近くの稲荷で野宿する。


 

 

 

 

 

 

 

 

【47】“聖なる境界” での物々交換――「いちば」の発生。

 


 縄文時代、弥生時代の人びとは、富士山や八ヶ岳、アルプスの高峰をふもとから望み、それら、まだ人間が踏み込んでゆくことのできない領域に、畏怖の念を抱いて生きていたことでしょう。同じことは、岸から遠く離れた海洋や、琵琶湖のような巨湖についても言えます。

 

『未知の世界〔…〕「無所有」の世界、人間の全く関わることの出来ない世界〔…〕そうした世界には人の力を超えた〔…〕畏怖すべき聖なるものが存在している、と当時の人々は考えた』

網野善彦『日本中世に何が起きたか』,2017,角川文庫, p.22. 

 


 そこで、注目にあたいするのは、そうした「無所有の自然、聖なる世界」と、人びとが住んでいる「俗界」とのあいだにある「境界領域」です。海と陸との境界である「浜」「浦」「崎(さき)」。河と人里との結節点である「河原」や「中洲」。山地と人の世界が交差する「山の根」「坂」「峠」。そうした「境界」には、「無所有の自然の力、神仏の力が及んでいると考えられていた」のです。

 

 歴史時代になると、人びとはそれら「境界領域」に、特有の施設を設けて、「人間の社会活動の中に位置づけ」ました。「道や橋、市(いち)や宿(しゅく)、関(せき)、渡(わたし)、津(つ)、泊(とまり)、さらに墓所」。京都の化野(あだしの)にしろ清水坂(きよみずざか)にしろ、墓所の集まる地は「山の根」に築かれています。平地に墓所を設ける場合には、人工的に山を造って「境界領域」を創造しました。仁徳天皇陵など平地の古墳群は、そうした施設であったと言えます。人為で、人界と「天」との「境界」を創ってしまうというやり方が、旧石器・縄文以来の列島の人びととは異質な考え方が流入してきたことを物語っています。

 

 

『そういう場所は、人間の社会活動の中にとりこまれても、それ以前からの聖界と俗界の境という性格を依然として持ち続けており、中世以前には神仏の世界と俗人の世界の接点と考えられた〔…〕さらに自覚的にとらえられた時、こうした場が「無縁」、「公界」の場としてとらえられるようになります。

 

 こうした場は、屋敷や田畠などのように垣根によって仕切られた空間とは、はっきり区別しなければならない』と考えられたので、当時の『社会の中での扱われ方は明らかにちがっています。』

網野善彦『日本中世に何が起きたか』,2017,角川文庫, p.23. 

 


 家、屋敷、田畠のような「仕切られた空間」で、殺傷や犯罪、また人の誕生、死のような変動が起きると、「穢(けが)れ」が発生し伝染すると考えられました。しかし、「道や橋、市のような開放された場所」――「境界」「無縁」「公界(くがい)」の場――では、そうしたことが起きても「ケガレ」にならないし、伝染することもないのです。中世まで、死体を川に流す風習が広く行われていました。京都の鴨川や桂川の河原には、中世には捨てられた死体がゴロゴロしていましたが、人びとはそれを見ても、穢(きたな)いとも「不浄」だとも思わなかったのです。「境界領域」には、人界から持ち込まれた「穢れ」たものを浄化する、禊(みそ)ぐ働きがありました。

 

 平野が開発され、人口が増えて、原始以来の「無主」「無縁」の領域が狭まってくると、「聖」「俗」の境界である「境界領域」に付着し、そこを支配する「聖なる力」をエネルギーにして生きる人びとが現れてきます。文字史料に最も古く現れるのは「巫女(みこ)」と「遊行女婦(うかれめ)」です。彼らは集団をなして、「津」「宿」などの「境界領域」を遍歴したと考えられます。古代人、中世人の意識では、繁殖にかかわる女性の「性」は、「聖なるもの」と深い結びつきをもっていたのです。

 

 山林で修行する僧――「修験者(すげんざ,しゅげんじゃ)」や、「山臥(やまぶし)」「野伏(のぶし)」がそこに加わります。「山立(やまだち)〔猟師〕、山賊、海賊も、やはり「境界の人」と言ってよいのです。


 このように、「境界の場」と「境界の人」が意識されてくると、境界的な場にかかわる「境界的な行為・活動」というものもクローズアップされ、それらは特有の「聖性」の論理に支配されていると見られるようになります。

 

 

『たとえば交易、商業はそれ自体、境界的な性格を持つ行為と考えられます。おのずと、それを担う商人は境界的な人〔…〕古い時代、公益、商業は聖なる世界、神仏の世界との関わりなしには行ない得なかったのではないか〔…〕

 

 交易を業とする人、市や道で活動する商工民、遍歴する商人、職人はやはり境界的な人びととして、神仏に関わりを持たざるをえなくなってくる

網野善彦『日本中世に何が起きたか』,2017,角川文庫, p.25-26. 

 

 

    

 


 社会科の教科書には、原始時代に人と人が出会って物々交換をしたのが商業の始まりだと書かれていますが、物々交換は、そう簡単に、どこででも誰とでも自然にできるようなことではないのです。レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』には、ナンビクワラ族というブラジルの先住民が、どのようにして他の部族への恐れを克服して物々交換に至っているのかが、描かれています。

 

 原始社会のような「贈与・互酬」の社会では、Aさんが獲った熊の肉をBさんにおすそ分けする。BさんがAさんに、お礼にドングリや栗の実をたくさんあげる。そのまたお礼に、AさんがBさんに、キツネの毛皮をあげる。‥‥ということが繰り返されていくと、AさんとBさんとの間柄は、交換のたびに密接なものになっていきます。そのあとで、AさんがCさんの息子と諍いになって殺してしまったりすると、復讐に来たCさんに対して、BさんはAさんの味方をして戦わざるをえません。そのような交換では、仲間が増えるかもしれないが、敵も増えます。敵対関係と敵対関係がぶつかりあえば、一方からは裏切り者と見なされて、さらに危険なことになります。

 

 これでは、誰とでも自由に交換して欲しい物を手に入れる、――などということをした日には、命がいくつあっても足りないでしょう。

 

 

『古代人にとって自分自身とその持ち物とがきわめて強く結びついている。だから物を交換することによって自分自身の一部を相手に渡し、相手自身の一部を自分にもらうことになるので、〔…〕切り離し難いきづなが、両者のあいだでできてしまうわけです。

 

 それでは交易は成り立ちえないことになります。

網野善彦『日本中世に何が起きたか』,2017,角川文庫, p.25-26. 

 

 

 「市(いち)」という「無縁の場」が、交易の場所として必要とされるのは、このような「人と物とのきづな」を断ち切って、誰とでも自由に物を交換できるようにしてくれる場だからです。「市」に持ち込まれた物は、持ち主との「きづな」を切断されて、いったんは「神のもの」になる。交換の相手は、それを神様から下げてもらうのです。「市庭(いちば)〔中世までは、イチバは「市庭」と書かれるのがふつう〕は、そのような手続きを行なう場だったのです。

 

 だから、「市庭」は、河原、中洲、浜、坂など、境界的な場所に立ちます。「市庭」には、神様がそれを伝って降りて来る巨きな樹があったり、あるいは、虹が立つとそこで「市(いち)」を開催したりします。

 

 

『市の立つ場所はまさしく〔…〕神仏の世界と俗界の境で、神の支配下にあり、〔…〕そこに入ったものは、人間でも物でも俗界の縁から切れて、聖界に属することになる。いわば一旦は神のものになるという特異な性格を持った場なのだと、勝俣さんは指摘していらっしゃいます。

 

 私流にいえばこれは「無縁の場」ということになりますが、市庭はそういう場だから、はじめてあとぐされなく物を物として相互に交換することができる、逆にいえば商品の交換は、そういう場所でなければできなかった

網野善彦『日本中世に何が起きたか』,2017,角川文庫, p.26. 

 

 

  

 

 

 

【48】「神人・供御人」制――鎌倉時代半ばまで。

 

 

 こうして、日本古代には、「市庭」などの「境界領域」にかかわる人びととして、①遍歴修業僧などの宗教者、呪術者、②商人や金融業者、③遍歴する手工業者や芸能民、遊女、などが現れてきます。

 

 日本の場合、7世紀から8世紀初めに、中国から、非常に整った官僚制のシステム――「律令制」が導入されます。その結果、「僧尼令」によって民間への布教や遍歴修業は禁止され、職能民(手工業者、芸能民、呪術者)は、それぞれの官司のもとで統率される形をとります。

 

 しかし、8世紀半ばになると、「律令制」の弛緩とともに、これら「境界の人びと」――遍歴の宗教者、呪術者、商人、職人、芸能民‥‥の活動が、社会の表面に現れてきます。彼らの遍歴活動が、「律令」官僚制の規定に違反していることは明らかですし、私度僧〔官寺の許可(得度)を受けないで、勝手に僧になる者〕も多かったのですが、当時の文献(『日本霊異記』など)を見ると、一般の社会では、この種の人びとをたいへんに尊重し、また敬意をもって扱っていたことが分かります。

 

 

『ここに境界的な人びとをめぐる、当時の日本社会の動きと、律令国家の原則を維持しつづけようとする動きとのせめぎ合いを、うかがうことができる』

網野善彦『日本中世に何が起きたか』,2017,角川文庫, p.32. 

 

 

 たとえば、遍歴の宗教者としては、行基空也行円役行者(えんのぎょうじゃ)などが有名ですが、聖武天皇などは、東大寺の大仏を造営するにあたって、その費用を「律令制」による正規の課税でまかなうことをいやがり、行基の勧進(かんじん)〔募金あつめ〕活動を積極的に支援したほどでした。

 

 『日本霊異記』には、「平城京・大安寺のお金を借りて、敦賀津に行って商売する人」「仏の銭(ぜに)を得て出挙によって巨富を得た女性」などが描かれています。

 

 「出挙(すいこ)」は、種籾を貸し出して収穫期に利息つきで返済を受ける・一種の金融ですが、「律令」以前の弥生・古墳時代から広く行われていました。日本の神社の神殿は、弥生式の高床倉庫とそっくりの形をしていないでしょうか? 神殿とは、籾を貯蔵する倉庫であり、貯蔵された籾は、神の持ち物なのです。貯蔵された神聖な籾を、春に種もみとして借り受け、育てて殖やした収穫のなかから、秋には、お礼の利息をつけて神殿に返したのが、「出挙」の起源だと言われています。

 

 種もみは、栽培すれば何百倍かになるわけですから、種もみの2倍を返しても高いとは感じられません。「出挙」の利率は、おそらく 100%, 200% は当たり前だったと思われ、現代の私たちには非常な高利に思われますが、当時の人たちはそうは思わなかったでしょう。中世になると、種もみと関係のない金融業――「借銭」「借米」も増えますが、高利が多かったのは、「出挙」が金融の起源になっているせいではないでしょうか。

 

 ともかく、8世紀以後になると、そうした「神仏の力」「境界・無縁の力」を背景にした金融〔まだ貨幣の流通は少ないので、主に米や布で。〕がさかんになり、それを仕事にする人も、聖なる豊穣――「性」の力――をもつ女性が多かったと思われるのです。

 

 

博奕打(ばくちうち)と巫女(みこ)   『東北院職人歌合絵巻』、14世紀初め。

博奕打は蓬髪・全裸で双六盤を持ち。巫女は眉を描き、肩肌を露わしている。

 

 

『11世紀に入ると、寺院の修造や、仏像、経筒、梵鐘などの造作を、鋳物師、仏師、石工などの手工業者とともに推進する勧進聖(かんじんひじり)の動きが非常に広く見出されるようになってきます。

 

 この動きと並行して、神物・仏物を出挙する〔寺社の持っている銭・米などを貸して利息を取る――ギトン註〕借上(かしあげ)といわれる金融業者――この中には女性が最初から深く関わりを持っている〔…〕――さらに商工業者、芸能民の動きも、11世紀以降には非常に活発になってきます。〔…〕

 

 しかも、非常に興味深いのは、こうした借上、商工民、芸能民、さらに海民、山民の一部が、この段階になると、しばしば神仏そのもの、あるいは天皇に直属する形で姿を現わしてくることです。つまり、この人びとは聖別された集団として神仏に奉仕する神人(じにん)寄人(よりうど)、天皇に贄を献げる贄人(にえびと)などの称号で呼ばれるようになっているのです。〔…〕このような人びとは神や仏に直属することによって、一般の人びと、平民とは異なる立場に自らを置くようになっています。〔…〕

 

 11世紀になると、このような神人が非常に広く見出されるようになってきます。こういう人びとは、神社に所属した神の直属民であり、その中には海民をはじめさまざまな職能民、金融業者などがいた〔…〕

 

 こういう職能民を天皇家をはじめ大寺院や神社は、11世紀から12世紀にかけて、その支配下に組織しようと競合しておりました。延暦寺の山僧、熊野三山の山臥(やまぶし)もこうした人びとに加えてよい〔…〕

 

 こうした人たちは最も統御しにくい集団なのですが、これをともあれ制度の中に組織しようと試みるわけです。その中で〔…〕天皇の直属民については供御人(くごにん)という称号が用いられるようになります

 

 こうして 12世紀の中葉の保元の新制を画期として神人・供御人制という制度が軌道にのっていく。〔…〕13世紀の前半までには、この制度は、その形を整えていきます。

 

 一方、勧進上人のように、既成の教団から離れた、遁世して仏に直属する僧となった人びとについても、その組織化がすすんでいきます。

 

 その一つが鎌倉新仏教〔浄土宗,浄土真宗,時宗,‥‥〕の教団の形成だと思いますが、大寺院の中にも勧進方、あるいは大勧進職のような組織が設けられ、そこに勧進上人を編入し組織化していく。

 

 このようにしてさまざまな職能民、境に生きる人びとが神仏、天皇の直属民という地位、身分を国家的に保証されることになったわけです。』

網野善彦『日本中世に何が起きたか』,2017,角川文庫, pp.32-36. 

 

 

『神人や供御人は、一般の平民・百姓とは、身分的にはっきりと区別をされています。神人の在家〔本拠地の家〕には、平民に賦課される課役〔…〕は免除されます。また、免田畠〔年貢のかからない田畠〕を給与として与えられている場合もあります。さらに関・渡(わたし)・津・泊(とまり)などでの交通税を免除され、全国〔…〕自由通行の特権を保証されています。

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』,2005,ちくま学芸文庫, pp.66-67. 


 

 さまざまな特権を保証された地位を示し、自らを一般平民とは区別するため、神人・供御人、聖(ひじり)、山伏などは、それぞれ特別な服装をしていました。神人・供御人は「黄衣」、山伏は「柿色の衣」、僧は一般に「黒衣」を着ていましたが、とくに時衆は、縄文時代そのままの荒い網衣(あみぎぬ)をまとっています。

 

 全国の自由通行権を認められていたことは、「神人・供御人」の実体が、商人、手工業者、芸人、‥‥といった遍歴の「職能民」だったことをよく示しています。

 

 

『神人・供御人・寄人になった人たちは基本的に職能民であったといってよい〔…〕その職種は多様です。神に仕える巫女などの呪術的宗教民、さまざまな商工業者、あるいは狭い意味での芸能民〔…〕職能集団が形成されているとみることができます〔…〕

 

 神人・供御人は、神仏、天皇のような聖なる存在に自らの芸能〔狭義の芸能のほか、各種手工業、技術、商業、金融、漁業、呪術、宗教、葬送、等々――ギトン註〕をつうじて奉仕する〔…〕ことによって、みずからの聖別された立場を保証された人びとだったことになります。』

網野善彦『日本中世に何が起きたか』,2017,角川文庫, p.39. 

 

 そうした、それぞれの職能集団を率いた “かしら” の者が、朝廷や寺社の名簿に登録されて「神人・供御人」の称号を与えられました。朝廷は、各名簿(「交名(きょうみょう)」)の定員を定めて、「神人・供御人」の数を制限していました。(op.cit., p.37.)

 

 

   

 

 

 

【49】「荘園公領制」と「神人・供御人制」

 


 一方、王朝国家を支える一般的な土地制度・租税制度としては、定住農民に対する支配体制として、11世紀後半~13世紀前半までに「荘園公領制」が成立しています。

 

 よく知られているように、古代の律令制のもとでの農民支配のたてまえは「公地公民制」で、朝廷から各地に派遣された「国司」が、「班田収授」を受けた農民から、「庸調」「雑徭」という租税を徴収して中央に送るシステムです〔「租」は中央には送られずに各国衙(こくが)に備蓄し、「出挙」による利殖の原資になります〕。ところが、「三世一身法」と「墾田永代私財法」によって「荘園」が拡大したために、「国司」による徴税システムは破綻する……

 

 と、教科書には書いてあるのですが、‥‥ここでぜひ注意してほしい点は、藤原時代から院政期、鎌倉時代になっても、「国司」システムによる徴税が、まったくできなくなってしまうわけではないことです。院政期以降の状態は、「国司」システムつまり「公領」と、国司の権力が及ばない「荘園」との割合は、ざっくり言って、ほぼ半々です。日本の大部分が「荘園」になってしまうと思っていた人は、ここで頭の中を刷新していただく必要があります。

 

 もうひとつ重要な点は、かたや「公領」と言い、かたや「荘園」と言っても、それらの実態は、たいして違わないということです。「荘園」「公領」――この2系統の支配機構は、院政期以後の状態では、かなり似通っています。

 

 日本の「荘園」は、ヨーロッパ、あるいはロシアのような私的大土地所有とは少し違うのです。日本の「荘園」を、領主の館を中心にまとまった農場のようにイメージすると、大きく間違えます(すでに、関白九条家の荘園である「和泉国日根野荘」のようすを詳しく見てきた皆さんは、そんな誤ったイメージはお持ちでないと思います)。「荘園」といっても、王朝行政の末端と変わらない行政単位の性格をもっていました。「公領」には、「なになに郡なになに郷(ごう)」という行政単位があり、「荘園」領域には、「なになに荘(しょう)」という行政単位がある。そう思ったほうがよいのです。

 

 (視覚的イメージで納得したい方は、こちらの2枚目の絵を、もう一度見てください。村のいちばん高い場所に村の「惣鎮守」の神社があり、そこで村人の寄合が行われます。犯罪人を裁判する「クガタチ」(神判)が行われるのも、そこです。この画面には入っていないのですが、菜の花よりもっと左のほう、村のいちばん低い場所に小さなお寺があって、「荘園領主」である九条政基が居留していたのは、そこなのです。この村と、もう一つの村がいっしょになって「日根野荘」という行政単位になっており、さらにいくつかの村をまとめて、九条家が「荘園」として領有していました。)

 

 

『実際には荘園も公領も、基本的には租税―年貢・公事(くじ)の請負の単位なので、郡・郷・保・名などの公領は、国衙(こくが)を通じて知行国主に租税を納め、荘園は天皇家、摂関家、あるいは大寺社などに、それぞれ直接租税を納める単位なのです。

 

 そして郡・郷・保・名・荘には、郡司・郷司・保司・名主・荘司などに任命されている有力者がいて、この人たちが一定面積の田畠についての租税の納入を請負い〔つまり、個々の農民にどう割り当てるかは、彼らの裁量による――ギトン註〕、それを知行国主、あるいは荘園の支配者に納入している、これが荘園公領制とよばれる制度です。』

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』,2005,ちくま学芸文庫, pp.321-322. 

 

 

 ところで、前節で登場した「神人供御人」制は、「荘園公領」制とほぼ同じころ成立して、この2つが、少なくとも近畿と西日本では、国家を支える統治の柱になったと言えます。どちらも、12世紀から出始めて、13世紀はじめには完成した形になっています。

 

 この2つの機構は、どんな関係にあるのでしょうか? 2つが同時に歴史の表面に現れてきたのは、けっして偶然ではないと思いますが、〔①a〕どちらかが原因、どちらかが結果…というような関係があるのでしょうか? それとも、〔①b〕どちらかの存在が、もう一方の成立を陰で支えているような関係であったのでしょうか?

 

 あるいは、これらはたがいに全く無関係で、〔②〕それぞれの根拠に支えられて並び立っているのでしょうか?

 

 結論をさきに言いますと、〔①〕〔②〕は両方とも真なのです。制度が成り立っている精神(エートス?)的・文化的根拠から言うと、それぞれが異なる起源と根拠を持っています。――〔②〕

 

 しかし、もっと現代風にリアリズムで観察してみると、この2つは互いに支え合っているのです。当時の社会変動の中で、「荘園公領制」への変化は、「神人・供御人」となるような人たちの活動に支えられて進行し、それらの人たち(商人,職人,金融業者,海商民)を「神人・供御人」として権威づけることによって初めて、「荘園公領制」は固い存立基盤を持つことができました。逆に、「神人・供御人」を中心とする人びとの活動は、「荘園公領制」の展開に促されて勃興したのだと言ってよい。――〔①b〕

 

 

 

【50】 天皇のふたつの「顔」――

中国風の「皇帝」と、未開民族の「神」

 

 

 〔②〕のほうから先に説明しましょう。話は 8世紀初め、「律令」が制定され、中国の専制的な統治制度が日本に導入された頃にさかのぼります。

 

 

『そのようにして律令制度の上に確立した天皇のあり方を考えてみますと、そのひとつの顔は、律令制度の上に立ち、太政官という貴族の合議体の頂点に立つ天皇で、これは中国風の皇帝ともいえる側面であります。

 

 ところが、天皇にはもうひとつの顔がある。制度的にいうと、(にえ)の制度をとりあげるのがわかりやすいと思いますが、贄は、本来、海民や山民などが、神に捧げる初尾(はつお)、最初の獲物なのです。それを、神に准ぜられる立場に立つ首長に捧げる』、要するに「律令」文明導入以前の未開社会で、酋長にニエを捧げていた習慣が、「律令」導入以後は、天皇に捧げる「贄」として存続するのです。『こうした贄が天皇に捧げられ、実際それを食膳で天皇が食べるということが制度化されています。〔…〕

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』,2005,ちくま学芸文庫, pp.193-194. 


 

   

 

 

 「未開社会の酋長」などというと、からだじゅうイレズミをした裸の種族がイケニエを捧げるイメージですが、そうイメージしてもかまわないと思います。こうした「(にえ)」の習慣は、南米のインカ帝国にも、アフリカの未開の諸王国にも、かつて見られたものです。ちなみに、日本の皇室で現在も行われている「新嘗(にいなめ)」「大嘗祭」などは、ここに起源があります。

 

 

これは律令に規定されていない、〔…〕律令の枠からはずれた制度として存在したことが、最近よくわかってきました。〔…〕

 

 贄を捧げられる天皇は、神に准ぜられる存在ですから、インカ帝国の王やアフリカの王国の王のような性格、〔…〕「神聖王」ともいうべき性格が、この制度に〔…〕示されている〔…〕ですから贄を捧げる人びと――贄人(にえびと)は、〔…〕神になぞらえられた天皇に贄の共食を通じて直属することになりますので、大きな特権を持つことになります。』

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』,2005,ちくま学芸文庫, pp.193-194. 

 

 

 ここで注意したいのは、未開社会の「神聖王」というべき天皇の「顔」は、かならずしも、専制的な強圧的な支配者ではないということです。“イケニエを捧げる” というイメージは、じつはあまり正確でない。もともとの未開種族のイメージでは、酋長を囲んで部族員みなが「ニエ」を会食して、精神的きづなを固める――というものだったと思われるのです。「贄」が天皇に捧げられるようになって、全国津々浦々の・たくさんの「贄人」から「ニエ」が送られてくる――というようになってからは、じっさいに天皇と「贄人」が会食することはなくなりますが、それでも、未開社会のような、天皇と「贄人」の平等的な関係は残っている。だから、「贄人」には特権が与えられるのだと思います。「贄人」の特権は、一般の平民から見れば、天皇と対等と云ってもよい人たちなのだから、尊重されて当然、という感覚なのだと思います。

 

 

『このように、天皇は未開の王と文明的な皇帝という二つの顔を持っていたことになります』

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』,2005,ちくま学芸文庫, p.194. 

 

 

 こうした “神の直属民” としての「贄人」に由来する「神人・供御人」制は、定住農業民を支配する「荘園公領制」と相並んで、非定住民・非農業民である、海民や商人や遍歴の人びとを支配下に編入しつつ、13世紀前半までに整備されることになります。

 

 したがって、ここから推し量れるように、「神人・供御人」制――神人・供御人に対する支配は、律令制の官僚支配や、幕府御家人に対する主従関係のような専制的支配とはなり得なかったのです。というのは、それは、未開社会の宗教観念を色濃く引きずり、非農業民、「無縁の民」を聖別する観念に基いていたからです。支配というよりは、特権を認めつつ統制する制度であった。しかも、律令制度のような強い統制は、加えることができなかったと言えます。

 

 

『職能民の職能伝説には、〔…〕起源を天皇に求めるものが多いのです。鋳物師はその職能を近衛天皇に求めており、木地屋の惟喬親王、あるいは被差別部落の醍醐天皇、さらに遊女が光孝天皇というように、〔…〕これは、贄人、神賤から神人、供御人として天皇や神に直属してきた職能民の動向に実際の起源を持ち、それが伝説化しているのです』

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』,2005,ちくま学芸文庫, pp.218-219. 

 

 

長者の家を訪れて加持祈禱する童子行者(左端) 粉河寺縁起絵巻(12世紀後半頃)

 

 

 

【51】リアリズム――海民と商人と金貸しが開いた日本中世

 


 さて、〔①b〕について説明しましょう。

 

 8世紀から、「律令制」下の「公地公民制」が綻(ほころ)んでいき、11世紀後半以後の社会変動は、「荘園公領制」という新しいしくみ――中世の統治機構を成立させてゆくのですが、そのようなしくみは、「神人・供御人」となるような人たち――商人,職人,金融業者,海商民,‥――の活動に支えられてはじめて成り立つものだったのです。

 

 この変化――「公地公民制」から「荘園公領制」へ――には、劇的なきっかけとなる事件がありました。10世紀前半に起きた「承平天慶の乱」です。東国の「平将門の乱」と西国の「藤原純友の乱」を鎮圧した後、律令制の地方支配機構はガタガタになってしまっていました。反乱は鎮圧できても、それによって引き起こされた徴税収集機構の破綻は最終的なもので、朝廷は、もはや元のしくみを回復することはできなかったのです。

 

 本来の「律令制」では、各地方の「庸・調」は、班田農民が、費用自弁で都まで運ぶことになっていました。東国で徴発されて北九州で勤務した「防人(さきもり)」も、費用自弁でした。もちろん、個々の農民に、そのような余力はないので、「防人」はけっきょく廃止されますし、班田農民の場合は、割り当てられた田を捨てて逃散する者が続出する、といった事態になります。「国司」に任命された役人は、所定の「庸・調」が都に届かないと処罰されますから、けっきょく「国司」が代行して都まで運ぶ、のちには、「国司」が任国の租税の納付の全責任を請け負って納めるという体制になっていきます。

 

 こうなると、リクツとしては、「国司」は、とにかく任国の所定の租税を朝廷に納めればよい。どこから調達して納めようとかまわない。その一方で任国では、所定の量にかかわらず、いくらでも事情が許すかぎり搾り取って自分のものにしてよい。そういう体制になっていきます。じっさい、「庸」の布などは、国衙に工房を設けて生産し、農民からは原料の麻や労働力を納めさせて運営する、というようなことも、場所によっては早くから行われています。

 

 そうは言っても、「国司」に任命されるのは「受領(ずりょう)層」という下級役人ですから、任国から都まで物資を運んだり、朝廷が定める租税物資を都の近くで調達して納めるようなしくみは、自分では持っていません。そこで、彼らは、民間の商人や手工業者、舟運に従事していた海民・湖民の力を借りることになります。

 

 

『国司、受領による租税の請負体制、それぞれの国の長官が〔…〕租税の納付を自分の責任で請負う体制〔…〕

 

 こうした体制の形成が可能であったのは、その前提に、安定した海や川による交通の列島全域での活発化があり、さまざまな物資や人びとが自在に動ける状況が発展していたからだったのです。

 

 国守〔国司4名のうち最高位者――ギトン註〕は、もちろん現地にも行きますが、都の周りの交通の要地、たとえば淀、琵琶湖の大津などに納所(なっしょ)とよばれる蔵を設定しており、その蔵に、国で集めた物資を独自に河海の交通を利用して運んで集積しておきます。〔…〕そこから一定額の物資を政府や寺社などに納めるというやり方をしているのです。

 

 このように、諸地域の物資は独自な海上交通ルートを通り、受領とかかわりのある専門の運送業者、梶取(かんどり)や綱丁(ごうてい)によって運ばれて、都の周辺に集まってくるわけです。〔…〕国守は、蔵、納所の運営も専門の金融業者や商人などの財力を持つ人に任せています。

 

 こうして納所に集まってきた物資は、都の近辺の市庭(いちば)で多様な品物に交換することのできるもの、つまり、貨幣の機能を持ちうる米、絹、布、塩、鉄、馬などで、国守はそれによって朝廷の必要とするいろいろなものを市庭で交易、調達しているのです。

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』,2005,ちくま学芸文庫, pp.306-307. 

 

 

 

 

 

 この 10-11世紀ごろの段階では、民間の運輸業や商業、金融業の実態は、史料が少なくて、よくわからないのですが、院政期の 12世紀になると、彼らの金融業の実情がよくわかるようになります。

 

 1136年の文書によると、比叡山坂本の日吉(ひえ)神社の「大津神人(じにん)」は「借上(かしあげ)」すなわち金融業者である。彼らは受領(国守)に米を貸し、受領はそれを任国の租税として朝廷に納めている実情がある。国守の請負と言っても、その実体は、蔵(納所)を管理している金融業者の活動であり、彼らのネットワークが国家体制を支えていることになります。

 

 「大津神人」の金融は、日吉神社の神に捧げられた初穂米を原資として、それを国守や官人に貸し付けて利息を取っている。その担保として、国司や官司から、朝廷が発行した徴税令書を預かっている。

 

 

『日吉大津神人は北陸諸国から瀬戸内海を経由して北九州に至る非常に広いネットワークを持っている〔…〕担保にとった国司や官司の徴税令書を持って、〔ギトン註――ネットワークに属する〕神人たちがそれぞれの国に行き、現地の蔵から物を出させているわけで、そういうかたちで当時の徴税は行われていました。』

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』,2005,ちくま学芸文庫, p.311. 

 

 

 このようなネットワークは、日吉神社の神人だけでなく、「このころの神人といわれた金融業者、海運業者、商人たちは、みなそういうネットワークを持っているのです」。しかも、おどろくべきことに、国司、官司から預かった徴税令書が、金融業者のあいだを動いて、《手形》や《為替》の機能をはたしているのです。

 

 「神人」の・このような広範な商業・金融活動は、国家の徴税機構の欠を補ない、それを支えることによって繫栄したと言えます。また、彼らの活動は、「神人」という、神仏の権威を背景に持った実力によって支えられていました。関銭の免除、自由通行権なども、彼ら自身の実力的活動の過程で、徐々に獲得されていったのだと考えることができます。

 

 

『廻船のシステム〔…〕その史料上の初見は 12世紀ですが、私は、11世紀には廻船のルート、廻船人の組織が日本列島全域にわたってできあがっていたと考えてよいと思っています。』

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』,2005,ちくま学芸文庫, pp.311-312. 

 

 

 一方、「律令制」下で、中央官庁の各官衙に専属していた工人、芸能民も、中央官庁の財政逼迫から、11世紀頃には独立して職能集団を組織するようになります。たとえば、鋳物師(いもじ)は、律令では典鋳司(いもののつかさ)・内匠(たくみ)寮に属していましたが、11世紀には、天皇直属の「蔵人所(くろうどどころ)」に所属して諸国自由通行の特権を与えられ、独自の職能集団組織をもって全国を遍歴し、鋳物などの鉄器の生産・交易に従事するようになります。


 同様のことは、檜物師(ひものし)鍛冶など、他の手工業者についても見ることができます。

 


 

 

 

 

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