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加賀・一向一揆    「どろろ」OP より。


 

 

 

 

 

 

 

【56】浄土真宗と一向一揆――都市と商人に支えられた宗教

 


 14世紀――「南北朝」時代の “転換期” には、天皇の権威が大きく失墜するなかで、神仏の権威と結びついていた商業・金融業の世俗化がおこり、「悪党・海賊」とよばれた武装商人・流通業者の活動、また「酒屋・土倉」などの流通・金融業者の・いわば “金儲けのための金儲け” つまり資本主義志向が社会の前面に躍り出てきます。

 

 しかし、その一方で、隆盛する商業・金融業は、鎌倉新仏教をはじめとする諸宗教と、この時期から新しい関係を結ぶようにもなるのです。とくに、この “転換”以後の段階で注目すべきは、浄土真宗(一向宗)の動向です。

 

 戦国時代にかけて各地で「一向一揆」が興り、「天下統一」をめざす戦国大名・織豊政権と激しくせめぎ合ったことは、よく知られた歴史上の事件です。しかし、一向宗・一向一揆と、商業・金融・流通に従事した人びととの関係は、いまだ十分に解明されていない分野なのです。

 

 加賀「一向一揆」の時代を舞台とする手塚治虫・原作「どろろ」の画像(↑)でも、「一向一揆」は、あたかも一種の “農民戦争” であるかのように理解されています。加賀國の守護大名・富樫氏が「一向一揆」に滅ぼされた時、加賀一国は「百姓の持ちたる国」になったと称されました。しかし、当時の「百姓」とは、農民ではなかった!‥江戸時代以前において、「百姓」というコトバは、文字どおり「百の種類、さまざまな職業の人びと」を意味していました(中国、韓国では、現在でもそういう意味です)。つまり、「百姓」とは、商工民、海民もふくんだ「平民」一般だったのです。

 

 じっさい、各地の「一向一揆」の背景として指摘されているのは、農民の集団行動などではなく、真宗教団・「寺内町」と結びついた流通・海運ネットワークの活動なのです。

 

 この分野は、具体的な史実の発掘がいまだ不十分なので、網野氏の叙述も概念的・抽象的になりがちなのですが、透徹した視線を向け、紙背を読む態度で、以下アタックしてみたいと思います。

 

 

『中世の前期、12,3世紀までの商業と金融は、こうした人たち〔神人,供御人,寄人,山臥など、神仏の権威を帯びる人びと――ギトン註〕が行なっていたわけで、これは商業、交易そのものが、まだ神仏とのかかわりあいにおいてはじめて行ないうるというマジカルな要素をもっていたことと深いかかわりがあるのです。

 

 〔…〕「非人」といわれた人びとも、神人身分を保証されており、〔ギトン註――リーダー格の非人は〕「犬神人(いぬじにん)」とよばれています。また遊女や白拍子のような女性芸能民も、神仏、天皇の直属民と同様の社会的地位を、少なくとも中世の前期までは保っていたと私は考えています。〔…〕

 

 このような交易や商業、あるいはそれにたずさわる人びとの特質が、〔…〕銭、金属貨幣の活発な流通という新しい事態の中で、14,5世紀から明らかに大きく変わってきます。

 

 金融についてみると、〔…〕神仏の物の貸し付け、上分米〔神社に捧げられた初穂(はつほ)――ギトン註〕の出挙に対して、ただ利息を取るための銭、利銭(りぜに)の貸し付けが 13世紀後半ぐらいからしだいに広く行われはじめます。〔…〕金融の行為がこのように世俗化してくる。〔…〕

 

 それにしてもこのような利銭に対する反発はなお強くて、それが徳政一揆となり、そうした利銭――借銭を破棄して質物を取り返す動きがでてくるのです。このような意味で 15世紀から 16世紀は聖なるものと結びついていた金融が、しだいに世俗的な金融に変わり、それが定着していく、過渡期にあたると考えられます。

 

 商人や職人の場合も、同じように交易はしだいに、世俗的な行為に転換していきます。』

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』,2005,ちくま学芸文庫, pp.68-69. 

 

 

浄土真宗本福寺    大津市本堅田

 

 

『室町時代になりますと、〔…〕禅僧や律僧をはじめ、鎌倉新仏教系の寺院が、祠堂銭を中心とした金融を活発に行ない、それで寺院を経営するようになってきます。土地、所領によって寺を維持するのではなく、このような金融、勧進等などによる寺院の経営が、15,6世紀にはじまってきます。

 

 このころ、「無縁所」といわれる寺院が広くあらわれてきますが、こうした寺院には鎌倉新仏教の系統の寺院が多いのです。〔…〕無縁所」といわれる寺は土地の所領はあまり持っていないのです。〔…〕そうした世俗の縁からはなれているから無縁所といわれるので、〔…〕じつは「無縁所」は金融と勧進で寺を経営しているわけです。祠堂銭の貸し付けによる金融、事実上、商業的な行為となっている勧進のように、土地、所領の経営ではなく、むしろ「資本主義」的な商業や金融によって寺を支えたのが、「無縁所」といわれる寺の特徴だと思うのです。

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』,2005,ちくま学芸文庫, p.77. 

 


 「無縁所」の寺に多い宗派は、禅宗、日蓮宗、浄土宗、時宗です。浄土真宗の場合には、門前に信徒の商人・手工業者を擁した「寺内町」をつくっていました。

 

 

『真宗の場合には、寺内町といって、寺、道場の周辺を区画してこれを「聖地」とし、そこに商工業者を集めるというかたちで町をつくっています。これも「無縁所」と同じ原理による寺の維持で、真宗の寺は「志」という寄付金と、このような町によって支えられていたことになります。

 

 こうして 14世紀の社会の大きな転換のなかで、かつてマジカルな古い神仏の権威に支えられていた商業、交易あるいは金融の性格が変化してきたわけで、鎌倉新仏教は、かつての神仏と異なり、新しい考え方によって商業、金融などに聖なる意味を付与する方向で動き始めていたのではないかと考えることができると思います。

 

 贈与互酬を基本とする社会の中で、神仏との特異なつながりをもった場、あるいは手段によって行われていた商品交換や金融が、一神教的な宗派の祖師とのかかわりで、行われるようになってきたと考えられます。

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』,2005,ちくま学芸文庫, p.78. 

 

 

 網野氏は、前回【54】では、一遍・時衆について論じておられましたが、私には、その内容がたいへん不満に感じられたのです。

 

 網野氏が述べておられたことのうち、一遍と時衆の思想・行動は、商業・交通と「都市的な場」の発達に支えられて成立した宗教であり、布教方法であった、という点は、たいへん首肯できると思いました。時宗の “リアリズム” の面については、網野氏は、すぐれた考察をしておられます。

 

 しかし、一遍・時衆の宗教思想そのものの内容、また、彼らが当時の社会のなかで何をめざしたのか、という点については、網野氏の叙述はとても不十分に感じられたのです。その面では、前回、じつは私の独自考察をかなり書き込んでいます。たとえば、一遍の思想が「原初への回帰」を志向している――というのは、あくまでも私の思いつきであって、網野氏がそう述べているわけではありません。

 

 思うに、網野氏はもしかすると、「宗教は外被にすぎない」という・「マルクス主義」史学の誤った枠組みから抜けきっていないのではないか、とさえ、一遍に関しては思われるのです。

 

 しかし、今回↑引用した、浄土真宗と商業・資本主義との関係については、網野氏はそうした制限を脱しておられると思いました。網野氏の言う「一神教的な宗派」とは、おもに親鸞蓮如の浄土真宗を指していると思われます。真宗に対する・この評価は、――網野氏は阿部謹也氏のドイツ中世史研究も挙げておられますが、それ以上に――マックス・ウェーバーの影響が大きいと思います。ウェーバーにとっては、宗教は「外被」ではなく「経済倫理」ないし「エートス」であり、「歴史の転轍手」なのです。

 

 ヨーロッパの資本主義勃興期にキリスト教がはたした役割を、日本では、鎌倉新仏教がはたそうとしたのではないか、ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で主張したのと同じような連関を、「鎌倉新仏教と商業、金融あるいは手工業とのかかわりあいのなかに探っていくことができるのではないか」。

 

 しかし、浄土真宗がなぜ「一神教的」と言えるのか、また、そのような宗教がなぜ資本主義・商工業者の精神的基盤となりうるのか、残念ながら網野氏はほとんど述べておられないのです。ただ、氏の考え方は、丸山真男を通じてウェーバーから受け継いだものと思いますから、私たちは丸山真男を読めばよいわけです。じつは私は、丸山真男の日本宗教史の東大講義録を、売り切れる前にぜひ手に入れておかねばなるまいと思って、買ってツンドクしてあります←。‥‥というわけで、現時点では残念ながら、これ以上のことは読者の研究に委ねるほかはないのです。

 

 

『しかし日本の社会の場合、16世紀にはいってきたキリスト教をふくむ、こうした新しい宗教は、結局、16世紀から 17世紀にかけての織田信長豊臣秀吉、さらに江戸幕府による血みどろの大弾圧によって、独自な力をもつことができないようになってしまいます。〔…〕

 

 このように宗教が弾圧され、社会的に独自な教団としての力を持ち得なくなったということは、その後の日本の社会における商業、金融、職人の技術のあり方とも深いかかわりを持っていると思います。〔…〕

 

 このように商業、交易、金融という行為そのもの、あるいはそれにたずさわる人びとの社会的な地位の低下と、宗教が弾圧されてしまったということとは、不可分なかかわりをもっていると考えられます』

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』,2005,ちくま学芸文庫, pp.79-80. 

 

 

どろろと百鬼丸   手塚治虫『どろろ』(1967年『少年サンデー』扉絵)

 

 

 

【57】 外に伸びようとする重商主義と真宗・キリシタン、

弾圧する信長、内にこもる秀吉・徳川

 


 16世紀半ば、琵琶湖岸の自治都市「堅田」の中心的な真宗寺院・本福寺の住職明誓〔1491-1560〕が書いた『本福寺跡書』には、当時各地の「一向一揆」と自治都市に関するさまざまな実情が書かれていて、重要な史料なのですが、その中で明誓は、農業は苦しい仕事で、商人・職人のほうが幸せだ、と、商業・水運で繁栄した自治都市住民の率直な見方を述べています。「一向一揆」は、農民のものではないどころか、農業に好意的でさえないのです。

 

 

明誓は「田作(たづくり)にまさる重い手はなし」――田畑をつくる農業ほど苦しい仕事はないと強調しているのです。

 

 そしてその反面で、鍛冶屋、桶師、研屋(とぎや)、番匠はみな分限者(ぶげんしゃ)、お金持ちであり、そういう人びとや、穀物や食品を売る商人は、「悲しき年、飢(かつ)え死なぬもの」――不作でたいへんに難渋する年でも飢え死にしないとも言っています。』

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』,2005,ちくま学芸文庫, p.374. 

 

 

 同様の職業観は、浄土真宗中興の祖で、本願寺住職であった蓮如も述べています:

 

 

蓮如〔…〕農は耕作に身をまかせ「つくりを本と」する人びとで、商業は、「朝夕は商いに心をかけ、あるいは難海の波の上に浮かび、恐ろしき難破にあえることを顧みず」に商売をする、と〔商人、水運業者を――ギトン註〕非常に高く評価しています。〔…〕

 

 この時期の真宗の信者の中には、〔…〕農業を尊重せず、むしろ商工業に高い評価をあたえる見方があった〔…〕15,6世紀に日本の社会のなかにあらわれてきた「重商主義」的な思想のなかで、真宗がとくにその先端をいっていたと見てよいのではないかと思います。〔…〕

 

 亡くなった井上鋭夫さん〔日本中近世史学者で一向一揆研究の権威――ギトン註〕は、真宗の基盤を「ワタリ」という水運業者、漁撈民に求め、その中には廻船問屋として巨富をつんだものもでてくるといっておられます。〔井上氏は、「渡り」=「遍歴する海民、山民、手工業者」を一向一揆の主軸とする主張を未完成のまま世を去った。――『増補 無縁・公界・楽』,p.100〕〔…〕

 

 実際、15世紀以降の真宗の拠点になったところは都市が多いのです。近江の堅田はそのひとつで、ここに蓮如は一時期、根拠を置いたのですが、堅田は当時の琵琶湖最大の都市です。

 

 本願寺のあった山科もやはり都市的な場ですし、石山はもちろんのちの大阪ですから、間違いなく都市といってよいでしょう。伊勢の長島〔本願寺門徒が、蓮如の六男を住職とする願証寺を中心に、地域一帯を支配し武装化した。――ギトン註〕も川と海にかこまれた都市でしたし〔当時、伊勢湾の海岸線は内陸に入り込んでいた――ギトン註〕、安芸の広島〔広島の真宗寺院・仏護寺を中心に、毛利氏のもとで水軍を入信させ武装化した――ギトン註〕も同様です。〔…〕北陸で大きな真宗寺院があるところを調べてみますと、非常に海辺が多いのです。〔…〕

 

 また真宗寺院は、和泉の貝塚や大和の今井などのように、その境内、寺の周辺に商人・職人を集住させて、寺内町をつくっており、寺自体が都市の中心になっているのです。〔…〕

 

 15世紀になると、社会の大きな転換のなかで、神や仏にたいする畏れや、穢れにたいする恐れがうすらぎ、非人、河原者、遊女、博打のような人びとにたいするきびしい賎視が社会に浸透してくる〔…〕そのなかで〔…〕時宗のように、〔…〕善悪もろともすべてをすくおうとした宗教が力を失い、真宗のように善と悪とを鋭く対決させ、そのうえで、むしろ悪を積極的に肯定する思想の方が強力になってきます。〔…〕

 

 時宗がそうだったように、真宗も色濃く都市的な宗教ですし、日蓮宗も同じだと思います。法華一揆一向一揆が対立し非常にはげしく競り合うのは、両方とも同じ地盤に教線をのばそうとしているからなのです。少し遅れて入ってくるキリスト教も同じ方向で布教をしており、〔…〕商人や手工業者などの集住する都市に教線をのばしていこうとする宗教がはげしく競合していたのですが、これらの宗教は、いずれも「重商主義」的な勢力に支えられていたのだと思います。

 

 こういう商人、廻船人たちの動きは「倭寇」のように列島外の地域とも結びついており、東南アジアから南アメリカにいたる広いネットワークができつつあったのですが、

 

 これにたいして、織田信長のように、各地の戦国大名―地域小国家を併合して、「日本国」をもう一度再統一しようという動きが出てくるわけです。この動きが、商業に高い価値を置く「重商主義」的な宗教と真っ向からぶつかったのが、一向一揆と信長の衝突です。キリスト教秀吉・家康の対決の根底にあるのも同じ対立だと考えられます〔…〕

 

 秀吉は〔…〕全国の大名から検地帳を天皇に提出させ、石高制にもとづく年貢―租税を徴収する方式を固めようとします。家康も同様ですが、こういう農業、土地中心に「日本国」を固めていこうとするやり方と、

 

 海を舞台にして商業や流通のネットワークをつくり、日本列島の外にまで広がる貿易のネットワークをつくっていこうとするような動きとが、ここで真っ向から対決することになったのです。』

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』,2005,ちくま学芸文庫, pp.374-378. 

 

 

  

琵琶湖の入江「内湖」  堅田・市街地の中央に水面が広がる。    

並び立つ生け簀は、淡水真珠の養殖。           

 

 

 

【58】 琵琶湖をかこむ中世「自由都市」群

 

 

 古代・中世の琵琶湖は、北九州方面から津軽・十三湊(とさみなと)、蝦夷地に向かって伸びる日本海沿岸航路と京都をつなぎ、さらに淀川を下って瀬戸内海に通じる、交通・流通の大動脈でした。琵琶湖岸には、水運・漁撈と商業にかかわる人びとの集住する根拠地が、点々と築かれてきました。近代以前には湖中の島であった「奥島〔現・近江八幡市北津田〕には、13世紀以来の数次にわたる「一揆」起請文と「村掟」文書が伝わっています。琵琶湖最北端の港「菅浦」(踏査記録⇒YAMAP)は、武装し、防御施設を備えた小都市であり、早期の湖上交通ルートを支配していました。やがて、西南部の「堅田(かたた)」が自治都市として勃興し、「菅浦」を圧倒して、戦国期までに琵琶湖全域の水運・商業・金融を取り仕切るようになります。

 

 これらはみな、山を背にした港町、――農村、漁村というよりも「都市的な場」でした。また、近江商人の源流地といわれた「今堀」のように、陸路の交通にかかわる商人の町もありました。

 

 

 

奥島山 近江八幡市沖島町   中世には、琵琶湖に浮かぶ島だった。   

手前の耕地も、当時は湖底だった。          

 

 

  

    大嶋奥津嶋神社 近江八幡市北津田町   奥島山の麓にある。

   13世紀の「一揆・起請文」「村掟」等、江戸時代までにわたる古文書 222点を伝える。 

 

 

『菅浦や奥島も、廻船や漁業を生業としてきた〔…〕

 

 〔ギトン註――菅浦は、〕東西を門で仕切られ、山を背にして浜辺にぴったりとへばりつくように肩を寄せ合って並ぶ家々、何本かの道が集まるようにみえる集落の中央の小さな広場、周辺にはごくわずかな畠地、果樹しかなく、田地ははるかにはなれた谷間にあるのみである。いまは立派な道路ができているが、つい最近まで、菅浦の人々は〔谷間の田に――ギトン註〕舟で往来し、そこを耕作していた。〔…〕田地は菅浦を支える主な基盤ではない。

 

 菅浦の人々の生活の主要な舞台は、間違いなく古くから、集落の前にひろびろとひらけた湖であった。〔…〕いかに小なりとも、これは都市―港町というべきではなかろうか、〔…〕

 

 おそくとも 8世紀までにこの浦に住みついたのは、漁撈と船を生活の基礎とする湖の民であり、12世紀、この人々は天皇に鯉や枇杷を貢献するかわりに、湖上をはじめ各地での自由な通行権を保証された供御人として、その姿を現わしている。

 

 そして 13世紀後半の菅浦供御人はすでに廻船を主な生業とする集団であり、14世紀には菅浦の住人のすべてが供御人としての特権を持つようになったと思われる。いま菅浦に残る四足門も、同じころに「大門」として史料に現れるが、〔…〕大浦〔隣村――ギトン註〕との争いのさいには防禦施設の役割も果たした。「所の置文」といわれる掟――浦の法が文字にされはじめるのもこのころのことで、内部の紛争、刑事事件の裁決・処理を含む老衆(宿老)を中心とした自治も確立したといってよい。

 

 〔…〕時衆はここにも阿弥陀寺を建てており、これをはじめとして、狭い集落の山沿いの地には沢山の寺庵が立ち並んでいた。

 

 15世紀に入ると、堅田におされがちになった廻船人の活動は次第に停滞に向うが、守護不入・自検断の権利を確保し、菅浦の自治は一層深化した。〔…〕

 

 戦国期、堅田に圧倒された菅浦は、江戸時代には湖北の一村落になっていくが、しかしそれまでの菅浦はまぎれもない中世の自治都市であった〔…〕

 

 商人が集住し、やはり「門」や「木戸」を備えていたとみられる今堀も、油屋・研屋・紺屋・鍛冶・番匠などの住む奥島も、また都市的な性格を持つ集落と見た方がよい』

網野善彦『増補 無縁・公界・楽』,1996,平凡社ライブラリー, pp.337-339. 

 

 

菅 浦    集落全景。「東の四足門」から望む。

 

 

  

菅 浦 「西の四足門」   菅浦は、東西に「四足門」を設けて、    

外部との境界を示し、出入りを監視した。          

 

 

 こうして琵琶湖水運の交通路をめぐって覇権を争い、つぎつぎに交代した中世「自治都市」のなかで、もっとも規模が大きく、また上級権力と最も激しく戦って市民の「自治」「自由」を主張したのは、「堅田」(現・大津市堅田)でした

 

 

『近江一向一揆の重要な拠点として周知の堅田〔…〕堅田の集落はやはり菅浦と同様、浜辺に密集し、』境界の門はないが、『かわりに、湖の水をクリークのように引き込んだ濠に囲まれたいくつかの単位から成り立ち、菅浦よりはるかに規模が大きい。〔…〕村落というよりも、〔…〕環濠都市とでもいった方が自然、と私は考える。〔…〕戦国期の堅田は「湖の領主」といいうるほどの立場を固めているのである。

網野善彦『増補 無縁・公界・楽』,1996,平凡社ライブラリー, p.339-340. 

 

 

堅田にはもともと天皇に(にえ)を貢進する湖の民が住みついていたと思われる。白河院政期、11世紀後半に、網人ともいわれたこの人々は鴨社〔京都の下鴨神社・上加茂神社,神階・正一位――ギトン註〕に日供を備進する供祭人となった。供御人と同様、鴨社供祭人も湖をはじめとする各水域での自由な通行、漁撈の権利を保証されており、彼等は琵琶湖で網を引き、番を結んで鯉・鮒等を鴨社に進めたのである。

 恐らくそれより少し遅れて、現在の小番城
(こばんぎ)あたりに釣人たちの集団が根拠を置くようになった。この人々も天皇と関わりを持っていたと推測され、専ら延縄(はえなわ)による釣猟に従事しつつ、その生活の大半を湖上で過していたものと思われる。〔…〕

 一方、これらの網人・釣人たちには、年貢・公事の全部または一部を免除された給免田畠が保証されており、網人たちのそれを中心として、12世紀ごろには堅田荘が成立していたが、釣人たちの免田畠を中心に、13世紀後半までに今(新)堅田という単位ができると、それ〔網人たちの住地――ギトン註〕は本堅田といわれるようになる。』

網野善彦『増補 無縁・公界・楽』,1996,平凡社ライブラリー, pp.340-341. 

 

 

  

堅田の水路  中世の堅田は、石垣で護岸された濠によって、4つの「切り」(区域)に  

区切られていた。濠は、侵入した敵との市街戦において、防御施設の役割をした。   

 

 

『この荘は、近江を中心に絶大な権威を持つ山門〔比叡山延暦寺――ギトン註〕の支配下にあった。鴨社供祭人(くさいにん)の主だった人々、さきの番の責任を持つ番頭クラス〔鴨社に納める鯉・鮒を割り当てられた単位「番」の長――ギトン註〕の人々は、こうした荘園ーー田畠に即しては名主の地位にあったと考えられる。

 他方、琵琶湖のくびれた最も狭い水道に位置する堅田
〔現在は、琵琶湖大橋がある――ギトン註〕には、古くから(わたし)があったが、このころそれはの機能をあわせ持つようになっていた。通行権を持たぬ船がそこを通ることを、特権を保証された網人・釣人たちはたやすく認めようとしなかったのであり、14世紀以降、彼等がしばしば海賊といわれたのは、この特権を武力で貫徹しようとしたからにほかならない。このころの堅田の人々、とくに番頭クラスの殿原衆(とのばらしゅう)とよばれた人々は、多くの船を持ち、湖上の廻船を業としていたが、もとよりそれは直ちに海賊ーー水軍にも転化しえたのである。

 
〔…〕浦々に対する支配権を持つ堅田の人々を、〔…〕「湖の領主」ということは決して言いすぎではなかろう。』

網野善彦『増補 無縁・公界・楽』,1996,平凡社ライブラリー, pp.341-342. 

 

 

『太郎 堅田の町が、琵琶湖の湖岸にあるすべての「浦」を支配している理由は何かといえば、堅田の浜に、防波堤のような石垣を湖上の舟の通り道に長くつきだし、波打際には土塁をきずき、そこに〔…〕サイカチの木を植え、しっかり敵の侵入を防ぎ、このせまい航路を通る舟に海賊をしかけることにあります。これによって湖の浦々の舟〔…〕はそれぞれ堅田の町の住民と縁をむすび、その人を上乗(うわの)り(水先案内人)として舟にのせ、通行しなくてはいけなくなりました。このようにして、〔…〕人々は、湖の利用に関して堅田にしたがわざるをえなくなり、堅田が湖上支配権をにぎるようになったのです。

 

  堅田の琵琶湖支配権は、彼らが海賊をすることから生まれ、現に海賊をつづけていることによって保たれていると主張するこの堅田伝承〔明誓『本福寺跡書』が主張する――ギトン註〕は、すごく面白い〔…〕

 

 隠居 〔…〕中世は、いたるところで海賊や山賊が横行した時代だが、海賊山賊のはじまりは、神々が支配する海上や山中を通る人々から、海の神・山の神に捧げる初穂(上分)といった入場料・通行料を、〔…〕海の民・山の民が徴収する慣習からおこったとされているんだ。〔…〕堅田にも当時いくつもの湖関があって、町の大きな収入源になっていたが、〔…〕初穂の徴収に応じないものに対して強制的に略奪するのが海賊で、〔…〕航路の一定場所で初穂を合法的に徴収するのが中世の関所といえるんだ。〔…〕

 

 太郎 たしかにこの本〔明誓『本福寺跡書』――ギトン註〕を読むと、堅田の人々が日常的に海賊を働いている様子がうかがえますね。』

勝俣鎮夫『中世社会の基層をさぐる』,2011,山川出版社, pp.209-211. 

 

 

 こうして、堅田の有力市民たち――「殿原衆」――は、町を防御施設で固め、日常的に海賊活動を行ないながら、湖上支配権を実力で獲得し、かつ維持していました。他方、有力市民以外の一般市民は、どうだったか?‥‥彼らもまた、単なる漁民にとどまっていたわけではなく、商工業に進出して実力を蓄えつつありました

 


『これに対し、全人衆(またうどしゅう)とよばれた一般の供祭人ーー網人・釣人たちも、漁撈に携わるだけでなく、むしろ商工業の分野に進出し、広く山陰・北陸・東山道諸国にまで足をのばし、「有徳」ーー富裕になっていく人々も現れてきたのである。

 すでに 14世紀後半、堅田は「番頭一衆」あるいは「所
(ところ)の番頭」といわれた 10人前後の宿老〔つまり「殿原衆」――ギトン註〕による自治を確立していたが、そこには落人たちが逃げ隠れたこともあり、堅田の「所」は、悪党の逃げ籠った菅浦の「所」と同じく、アジールであったとみてよかろう。それはもはや間違いなく、番頭=宿老の自治を軸とする港町ーー都市であったといわなくてはならない。

 15世紀後半、その海賊行為の罪を問われ、堅田は幕府の委任を受けた山門による「大責
(おおぜめ)」の対象となった。殿原衆全人衆、宿老と一般市民は一致して濠を「木戸」として〔つまり防禦設備として――ギトン註〕激しく戦ったが敗れ、町は一旦焦土と化した。しかし堅田の市民は全員で山門と和解するための費用を負担し、堅田に還住する。堀ーー濠で囲まれた宮の切・東の切・西の切などとよばれるととのった区画は、そのとき実施されたと私は考えているが、いずれにせよ計画的な町割を施した堅田に、全市民による自治がこのとき確立したことは間違いない。宣教師がと比べたほどの富裕さを誇る自治都市堅田は、こうして菅浦をはじめとする他の小都市を圧倒し、湖の覇者となっていったのである。

 それを支える大きな力となったのが、本福寺を中心とする、主として全人衆出身の一向宗門徒であった』

網野善彦『増補 無縁・公界・楽』,1996,平凡社ライブラリー, pp.342-343. 



堅田 「宮ノ切」の石垣    「宮の切り」は、中世堅田を構成した4つの

街区(切り)のひとつで、「本福寺」「浮御堂」「伊豆神社」など重要施設を擁する。

 

 

 


『16世紀後半、信長によって堅田一向一揆は制圧された。〔…〕秀吉の時代、堅田はその特権をほとんど奪われ、太閤検地によって、ついに「村」としての位置づけを固定されるにいたった。これに対し、堅田は諸浦の不満を代弁〔…〕しつつ、江戸初期、ともあれ廻船および湖での自由な漁撈の特権だけは確保した。そしてその内部の運営は、依然として、「郷士(ごうし)」といわれるようになった宿老の自治によって行なわれ、その状況を物語る膨大な町の記録はいまも伊豆神社に保存されている』

網野善彦『増補 無縁・公界・楽』,1996,平凡社ライブラリー, pp.343-344. 

 

 

堅田 伊豆神社   「居初社」ともいう。堅田全体の惣鎮守で、     

その宮座は、「殿原衆」「全人衆」によって構成される。      

 

 

 以上、まとめますと、堅田では 15世紀半ばまでに、少数の上層市民「殿原衆」(「堅田侍」「所の番頭」「宿老」)の寡頭共和制による自治が成立していた。彼らは「海賊」行為をも躊躇なく行ない、実力で琵琶湖上の覇権を握っていた。しかしその活動は、「本福寺」住職明誓のような浄土真宗僧にも支持され、「全人衆」とよばれた一般市民・一向宗徒にも、広く支持者を見出していたと考えられます。

 

 ところが、同世紀後半、室町幕府と延暦寺によって堅田は攻撃され、焼き払われました。網野氏によれば、それは堅田の海賊行為に対する処罰であった。が、他方で、浄土真宗・一向一揆の巨魁・蓮如を、堅田がアジールとして匿ったことが、統治権力と大寺社を憤らせたとも言われます。現在、地元の観光当局は、もっぱら後者の宗教的弾圧として、この事件を説明しているほどです。

 

 しかし、「大責(おおぜめ)」を被った原因以上に重要なのは、その廃墟からの復興過程です。堅田は、延暦寺に対して多額の賠償金を支払わねばならず、その資金拠出と市街の再建に寄与した一般市民層「全人衆」の発言権が、飛躍的に大きくなったと考えられます。

 

 こうして、「大責」による焦土化と復興を契機に、堅田の市政は、全市民全人衆の直接民主制によって運営されてゆくこととなるのです。

 


 

 

 

 

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