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堅田・臨済宗祥瑞寺   「本福寺」の隣りにある禅院。

「一休さん」〔一休宗純 1394-1481〕が修業した寺として有名である。


 

 

 

 

 

 

 

 

【58】「一神教」か「天皇」か?――

「自由都市」が持ち出した新たな権威

 


 ところで、「自由都市堅田」については、勝俣鎮夫氏も、最近の著書『中世社会の基層をさぐる』のなかで一章を設けて論じています。前回の網野氏とは、やや異なる角度からの勝俣氏の議論を、ここで見ておきたいと思います。

 

 かつて、「鴨社供菜人(くさいにん)」として、京都の大社の権威のもとで琵琶湖の水上交通を支配した堅田は、戦国時代も 16世紀半ばとなると、大寺社じたいの権威が没落してくるため、新たな権威を立てる必要に迫られました。このころ書かれた『本福寺跡書』で、自由都市堅田における市民勢力の中心であった「本福寺」の住職明誓は、堅田の漁民・海賊に関する伝承とともに、「大友皇子伝説」を記し、強く主張しているのです。

 

 大友皇子は、「近江京」に遷都した天智天皇の子で、「壬申の乱」で大海人皇子に敗れて追いつめられ、山前(やまざき)〔大津市衣川きぬがわ。堅田の南隣〕で自害したと『日本書紀』には記されています。ところが、明誓が主張する伝承では、大友皇子は乱の後も、堅田浦に流罪というかたちで匿(かくま)われて生存し、釣りをして暮らした。その子孫こそが、堅田の漁民・市民となったというのです。つまりこの伝承は、堅田のなかでも本福寺のある「宮の切(きり)〔中世の堅田を構成する4つの街区の一つ〕の正統性を主張するとともに、権力に迫害された人びとを受け入れて守る「アジール」の権限を基礎づけているわけです。

 

 

『太郎 〔…〕大友皇子は、この堅田で本福寺のある東辻をお通りになって浜でいつも魚釣りをされておりました。堅田は、宮切(北浦)、東切(東浦)、西切(西浦)に今堅田をくわえて、いわゆる堅田四方といわれる4つの町からなっておりますが、本福寺のある宮切にある大友明神をまつる居初(いそめ)神社〔「伊豆神社」の別名。殿原衆のひとり居初氏の氏神であるとともに、堅田全体の惣鎮守でもある。――ギトン註〕のあたりに大友皇子がお住まいになっていたからであります。〔…〕なくなられた皇子の恨みがこもっている死霊の藪には、稲荷神社を建て、タタリがないようにしたそうです。堅田の町に国の役人などが入ってくるときには、馬からおりるのが礼儀となっているのは、この町が大友皇子が住んでいた〔…〕聖地であると考えられていたから〔…〕

 

 隠居 〔…〕いろいろある堅田の町のはじまり伝承のうち、作者の明誓が中心にすえたいのは、なんといっても大友皇子伝説だろうね。〔…〕

 

 太郎 〔…〕堅田浦など琵琶湖沿岸の人々は、667年に大津に都を定めた天智天皇の政治に大きな影響を受けた〔…〕大友皇子の敗死を惜しんだことは当然でしょう。沿岸の漁師集団のなかには、自分たちの先祖は、天智天皇のとき、湖の魚を天皇家に納める贄人として編成され、天皇家に奉仕したという伝承をもつものがたくさんあるそうです。〔…〕

 

  次に、大友皇子が堅田に流罪となったという伝承をもとに、罪をおかして流されたり、逃亡してきた者でも自由に住みつくことができる場所だという堅田の特徴を強調しているように思われます。文徳天皇の后で色好みの皇后〔…〕染殿后(そめどののきさき)(藤原明子)も、〔…〕源氏・平氏・藤原氏・橘氏によらず、牢人のふきだまりとなっているとのべられております。〔…〕本福寺を開いた善道も、殺人をおかして逃亡し、ここに住みついた人間でしたね。

 

 隠居 かつて大友皇子が住んでいたという理由で、堅田がアジール(聖域)であり、警察官が許可なく入れない不入の性格をおびた空間であることをほのめかしているね。〔…〕

 

 太郎 大友皇子がこの浜で魚釣りをしていたという伝承〔…〕は、大友皇子を堅田漁民の伝説上の始祖であるとするところから生まれたのではないでしょうか。

 

 隠居 〔…〕堅田と六角氏〔近江國の守護――ギトン註〕の葭(よし)をめぐる裁判〔鎌倉幕府の法廷で、湖上のヨシ、つまり琵琶湖の水面領有権を争った――ギトン註〕のとき、堅田方が、「堅田侍は昔より王孫である」とのべたところ、〔…〕座席が〔…〕右座(上位)に定められたとなっているのだ。〔…〕

 

  王孫であるという主張は、きっとこの大友皇子伝説に由来する〔…〕

 

  明誓もまたこの本のなかで、「百姓は王孫である」とのべているだろう〔「百姓」は平民の意。堅田の一般市民を指す。農民とは無関係。――ギトン註〕。これは、「堅田侍は王孫である」という大友皇子伝説からきた伝承を下敷にして、拡大解釈をして書かれたことはほぼ間違いないね。この堅田侍は加茂神社の神様に侍(さぶら)う「主なしの侍」なんだよ。』

勝俣鎮夫『中世社会の基層をさぐる』,2011,山川出版社, pp.213-216. 

 

 

 「堅田侍(かたたざむらい)」は、堅田の「殿原衆」とほぼイコールで、市政を握った市民上層部が、侍の身分を認められたのですが、「侍」と言っても主上のいない、誰にも従属しない人びとなのです。

 

 そうした「自由都市堅田市民の自立した地位は、「大友皇子伝説」による天皇の権威を拠りどころにしていたと言えます。ただ、ここで注意したいのは、天皇の権威と言ってもそれは、当代の現実の天皇との結びつきではなく、古代以前の天智天皇・大津京にまで遡る伝説的な権威だということです。南北朝の分裂以来、現実の天皇の権力・権威は失墜していたとはいえ、こうした伝承的・精神的な権威は、まだまだ現実の力を持ちえていたことになります。現実の権力構造から一歩隔てられたものであったからこそ、「自由都市」を支える根拠になりえた、とも言えるかもしれません。

 

 これに対して、現実の天皇(正親町、後陽成)の支持を後ろ盾とした織豊政権は、堅田ほか多数の自治・自由都市、宗教都市の抵抗を踏み潰して、「天下統一」をなしとげるのです。

 

 

堅田・本福寺。  そういえば、今上のご専門は、中世経済史だった。どおりで‥ 


 

『太郎 堅田の漁師は、下加茂神社に魚などを納める義務をおった供菜人となることによって、琵琶湖の魚を自由にとり、自由に舟を走らせる特権を認められたのですね。この本来の漁師集団の親方である本供菜人の流れをくむ人々が、堅田侍と呼ばれた堅田共同体の指導者たちでしょう。

 

 隠居 やがて室町時代になると、本供菜人だけでなく、全人衆(またうどしゅう)とよばれた堅田に住む一般都市民も力をつけてきて、みんな自分たちを鴨社供菜人であると主張するようになり、両者が一体化し、強い結束を誇る自治的都市共同体が生まれたのだろう。

 

 太郎 堅田の町の旗が、加茂神社の葵の二葉の紋〔「二葉の葵」は、上・下賀茂神社の神紋、例大祭「葵祭り」のシンボル。――ギトン註〕であったのは、この共同体の性質をよくしめしていますね。

 

 隠居 しかし、戦国時代になって、加茂神社の勢力が他の中央の大社寺と同じように没落してしまうという状況のなかで、〔…〕大友皇子を堅田都市共同体の始祖とし、都市民を王孫とする伝承が強く意識されるようになった

 

 太郎 なるほど。海賊伝承にみられる堅田の琵琶湖当知行(※)の論理も、旧体制のもとでの供御人・供菜人体制が崩壊しつつあるなかで、強く主張されたのですね。』

※「当知行」 中世の社会では、土地や交通路を、長い年月にわたって実際に利用(耕作、通行、収益活動)しているという事実そのものが、公権力の認める所有権に対抗する下位所有権として認められ、これを「当知行」といった。したがって、「海賊」なども、長年行われていれば、正当な「知行」つまり支配と認められた。

勝俣鎮夫『中世社会の基層をさぐる』,2011,山川出版社, pp.217-218. 

 

 

 中世「自由都市」が拠った権威とエートスの源泉を浄土真宗など、鎌倉新仏教に求めた網野氏とは、やや異なって、勝俣氏は、むしろ古い天皇伝説や怨霊信仰、「贄人」の地位に淵源する海賊活動の伝統ないし伝承を重視しています。

 

 勝俣氏が堅田について述べているのと同じことは、私は、菅浦についても言えると思います。菅浦には、時宗「阿弥陀寺」などの新仏教の寺院もたくさんありますが、湖岸に密集した集落からひときわ抜きんでた高さにある「須賀神社」は、766-767年にこの地に落ちのびた淳仁天皇を祀っており、社殿の背後に、淳仁天皇陵とされる(宮内庁は認めていない)小山も存在しています。 

 

 朝廷を2つに割った孝謙上皇・道鏡 vs 淳仁天皇・安倍仲麻呂(恵美押勝)の対立のなかで、「恵美押勝の乱」(764年)が起こり、仲麻呂が鎮圧されると、淳仁は遡及的に天皇位を剥奪されて廃位され(即位しなかったことにされた)、淡路島に配流された。765年に同地で亡くなるが、暗殺と推定されている。『新唐書』など中国の史書では歴代天皇に加えられているが、日本の正史では、明治時代まで、天皇とは認められなかった。

 

 菅浦の人びとが信じた「淳仁天皇の隠棲」はあくまでも伝説なのですが、「須賀神社」社殿に誇示された「菊の御紋」(宮内庁は認めているんだろうか??)や、裸足で石段を登って参拝すべき流儀など見るにつけ、信仰の固さ、厳しさを見ないではいられません。

 

 中世の菅浦が、権威と自立的自治精神の拠りどころとしたのは、時宗などの新仏教よりも、天皇流離伝説、怨霊信仰ではなかったか?‥‥現地でその思いを強くするのは、私だけではないでしょう。

 

 

菅 浦  須賀神社

 

 

 

 

 

菅 浦  須賀神社。  菊の御紋(矢印)

 

 

菅 浦  伝・淳仁天皇陵     須賀神社の裏手。

 

 

 

【59】浄土真宗を受容した基盤――教祖・教団と民衆の信仰のズレ

 

 

 勝俣氏は、「本福寺」のような浄土真宗の信仰が、自治都市住民のような民衆に、どのように受け入れられ(信仰として理解され)ていたのか、についても考察を進めており、これも、網野氏やウェーバーの考えている方向とは微妙に異なります。ウェーバーの「世界宗教と経済倫理」説に異論をつきつけている部分ともいえるので、たいへん考えさせられます。

 

 堅田の「本福寺」は、鎌倉末期の正和年間(1312-1317)に、殺人を犯してアジール堅田に住みついた善道が、本願寺覚如の弟子になって開山したとされます。しかしその後、第2世住職覚念は臨済宗(浄土宗とも云う)に転宗し、その子法住が浄土真宗に復帰したので、法住が開基の扱いを受けています。第6世明誓が書いた『本福寺跡書』も、法住の事績伝承を中心に本福寺成立の由来を書いています。

 

 

『隠居 この本〔明誓『本福寺跡書』――ギトン註〕に載せられている法住伝承は、信仰や教義の勉強ということを伝えるものはまったくなく、蓮如法住が教団の発展のために苦楽をともにするなかでつちかわれた、両者の人間的交流をしめすものが多いね。

 

 太郎 法住は、信仰や教団の掟などより、蓮如との関係を大切にして、かなり自由気ままに生きていたみたいにもみえますね。そんな伝承もたくさんありますよ。〔…〕

 

 法住がもっとも大切に思っていたのは、信仰や教団のきまりより、蓮如という人間だった〔…〕

 

 隠居 ところで、この本にでてくる信仰上の伝承のなかには、親鸞・蓮如の教えと、確立期本願寺教団をささえた法住らの信者たちのそれの受けとり方のギャップが具体的にあらわれているものが多いね。

 

 太郎 一言でいえば、その〔ギトン註――親鸞・蓮如の〕教えの核心は、阿弥陀仏の広大な力を確信し、その救いを求め、「南無阿弥陀仏」とその名号を唱えれば、どんな人間でも極楽往生できるというものでした。蓮如は、この教えをやさしい文章にした御文を沢山配布し、多くの信者の獲得に成功した〔…〕阿弥陀仏は最高の神・絶対神という点にあったと思っています。

 

 隠居 〔…〕浄土真宗は、日本の仏教諸宗のなかでは、もっとも一神教的性格が強いといわれているのだよ。戦国時代に来日したキリスト教の宣教師も、一向宗を〔…〕プロテスタントのルター派に似ているといっている。

 

  ところが他方同じ宣教師が、「キリスト教では妖術者や魔法使いは罰せられるのに、日本では一向宗の坊主と山伏が妖術使いとして活躍している」と書いているのだよ。


  〔…〕当時の坊さんなどは、他の仏様や神様より強い仏力をもつ阿弥陀様を信じ祈ることで、山伏や巫女がその呪術・呪法で病気をなおしたり、お金をもうけたり、運をよくしたり、いろいろ奇跡をおこすこと以上の効果をあげることができると考えて、改宗するものが多かったと思われるのだ。蓮如が絶対神阿弥陀仏の広大な力を強調すればするほど、受容者側は、その力を現世利益にまでおよぼしていくのではないかなあ。法住らもその傾向がみられるね。』

勝俣鎮夫『中世社会の基層をさぐる』,2011,山川出版社, pp.223-225. 

 

 

  

満月寺・浮御堂。     堅田のシンボル的存在。10世紀の創建と      

伝えるが、現在の建物は、1937年の再建。     

 

 

 勝俣氏が、「親鸞・蓮如らの浄土真宗の教えと、当時の末寺僧侶や信者大衆の受けとり方とのギャップ」と言っているのは、ウェーバーの宗教社会学の枠組みでいえば、世界宗教・一神教と、土着原始信仰(呪術・魔術)・多神教との相違・ズレだと言えます。勝俣氏はウェーバーの名を出していませんが、やはり東京大学系ですから、ウェーバーは当然に意識しています。

 

 ウェーバーの・この二項対立の枠組みをわかりやすく言えば、呪術・原始宗教というのは、神様にお供え(贈り物,貢ぎ物)をしてお願いすれば、すぐに目に見える形でご利益(りやく)があると思っている。キリスト教や親鸞のように、信じていれば最後には天国に迎えられる、阿弥陀様が極楽に連れて行ってくれる、というような・まだるっこしいことではダメなのです。もしご利益が無ければ、こいつは頼りにならないということで、他の神様のところへ行ってしまう。だから多神教なのです。ウェーバーに言わせると、呪術の信者は、神を脅迫してご利益を出させようとしている。(キリスト教信者から見れば)神を畏れぬ転倒したふるまい、言語道断の邪教――ということになります。

 

 だからキリスト教では、寄付をすればいいことがあるから寄付をする、天国に行きたいから善いことをする、という考えは(建前としては)たいへんに嫌われます。ルターが免罪符売りに激怒したのは、そんなことが大っぴらに行なわれたら、呪術・魔術と同じになってしまうからです。プロテスタンティズムは、世界宗教・一神教の本来の教えに帰れ、という復古的革新運動なのです。

 

 ちなみに、プロテスタンティズムが「資本主義の精神」に繋がったというウェーバーの主張も、ここから考えれば、たやすく理解することができます。資本主義の企業家というのは、会社経営でも自営業でも、やったことのある人なら解りますが、利益が出たからといって、それを全部消費に回してしまったら、会社は大きくならないのです。資本主義が発展するためには、上がった利益を費消しないで設備投資や従業員の増員に回す《禁欲的倫理》が、どうしても必要なのです。だから、資本主義をテイク・オフ(離陸)させるには、目先の利益にこだわる宗教ではダメだ。世界宗教でないとダメ、世界宗教のなかでもプロテスタントでないとホントの資本主義にはならない。これがウェーバーの主張です。

 

 ところが、日本の場合、浄土真宗の歴史過程を分析してみた結果は、どうも、ウェーバーの言うのとは違うのです。たしかに、親鸞蓮如の教えそのものは、善いこと(寄付など)をした者も、悪いことをした者も、阿弥陀様を心底信じることさえできれば、極楽に行ける、ということで、ルターやキリスト教と、たいへんよく似ています。寄付は、信仰の深さの現れであり、結果であって、天国に行きたいから寄付をするというのでは、本末転倒です。そんな呪術的な考えは捨てろ、というのがルターの教えであり、親鸞・蓮如も、究極のところでは、そう言うのです。

 

 しかし、勝俣氏が明らかにしているのは、親鸞・蓮如はそうであっても、法住ら当時の一般の真宗僧や信者大衆のほうは、そうではなかった。教えを受容した一般大衆(つまり商工金融業者)の信仰の実質は、現世利益こそが目的であって、原始信仰・呪術・多神教そのものといってよいほどだった、というのです。これは、資本主義を生み出す倫理は一神教・世界宗教――というウェーバーの主張に反するように思えます。

 

 これを、どう考えるかですが、2つの考え方がありうると思います。

 

 ひとつは、ウェーバーがあくまでも正しいとし、それを前提として、浄土真宗は、教祖の教義はともかく信者の信仰においては、一神教として不徹底だった、だから日本では、黒船が来て無理やり開国させるまで、資本主義が根付かなかったのだ、と考えることです。延長して言えば、開国した後も、明治国家は資本主義を健全に発展させることができなかったし、日本近代国家は民主主義も自由も制限的にしか認めないのは、日本資本主義の跛行的・半封建的特質が原因だ、ということになります。

 

 しかし、私はむしろここで、ウェーバーの枠組みを捨てるべき、あるいは少なくとも、いったん脇に退(の)けて、宗教について別の考え方をすべきだと思います。

 

 たとえば、ウェーバーに近い経済史学者のなかでも、大塚久雄学派は、西欧中世都市が、そのまま資本主義に発展するとは考えていません。ヨーロッパの中世都市では、「魔女狩り」なども行われていました。「魔女狩り」を主導したのは、当時のキリスト教であり、民主的に運営された都市参事会(Stadtrat)でした。中世都市には、光も闇もあるのです。西欧の近代資本主義は、中世以来の都市ではなく、農村の「局地的市場圏」から発達したというのが、大塚学派の主張であり、日本の西洋史学界では、こちらのほうが主流になっています。

 

 さらにもっと非ウェーバー的な宗教の把え方としては、エリアーデ、モース、マリノフスキー、レヴィ=ストロース、柳田国男など、宗教学・文化人類学・民俗学にわたるさまざまな理論があります。ただ、これらはいずれも、個別の実地調査から帰納された仮設的理論で、ウェーバーのような普遍的体系的な枠組みは、まだ出ていないのです。そういうわけで、この方向には、まだまだ未開拓の無辺の荒野が広がっているおもむきなのですが、しかしこちらの方向に向かってはじめて、たとえば安丸良夫氏が取り組んだような、幕末・明治以降の民衆信仰の問題にも、つながっていくのではないかと思います。

 

 おそらく、勝俣氏がめざす先にあるのは、この後者の方向と思われます。また、網野氏も、こちらに向かわれたほうが:――「無縁」原理の歴史的本来性、「農本主義」国家による「無縁」領域の制限と歪曲、にもかかわらず発揮される「無縁」の不屈の生命力と、その現れとしての資本主義の勃興、さらには資本主義を越えた社会の・「無縁」からの胚胎‥‥、という氏の本来のシェーマに近づくように思われるのです。

 

 

堅 田    濠の跡と舟。

 

 

 勝俣氏の太郎-隠居問答に戻りますと、たとえば、『本福寺跡書』には、蓮如が紙に筆で書いた名号の文字が、火事の時に、「金色の阿弥陀如来の姿で飛び立ち、それを漁師が舟から見て拝んだ」という話が書かれています。蓮如が書くと、紙の上の墨が阿弥陀仏そのものになって、神秘的呪力を発揮してしまうわけで、これなど、ほとんど魔法、呪術そのものと言ってよい阿弥陀仏教の理解です。

 

 

『隠居 本福寺はきっとこのような伝承を使って教化し、信者を獲得していったのだろう。

 

 太郎 また、法住の父覚念が浄土真宗から禅宗に転宗していた時期には、本福寺のなかにも妖怪が出没し、また堅田大明神の境内にも怪物があらわれて、堅田の住民をなやませていたと伝えていますね。〔…〕

 

 隠居 このような受容基盤の上に、本願寺教団が急激に発展していくと、当然、他宗から邪教として排撃されたり、現実社会の諸権力と衝突し、弾圧を受けるようになる。これに対抗して一向一揆が起こるのだが、〔…〕明誓もこれに加わって活躍しているんだよ。』

勝俣鎮夫『中世社会の基層をさぐる』,2011,山川出版社, p.226. 

 

 

 つまり、一揆に加わって殺生をしている。仏教は殺生を禁じているのに、信仰のために、どうしてそんなことができるのか? ということだと思いますが、‥‥さらに興味深いのは、堅田侍の「道幸」という人が、海賊による殺害を反省して本福寺門徒になる話です。道幸は、常習的に、自分の舟にのせた客十数人を皆殺しにしていた(おそらく持ち金を奪うため)のですが、ある時、ひとりだけ死なずに岸に泳ぎ着いた人がいて、その人が訴え出たために、堅田の町全体が連帯責任を負って処罰されようとする。その時に、道幸の父が身代わりになって罪を負い、切腹した。それを聞いて、「道幸は、はじめて自分の罪の深さを自覚し」、諸所の寺を訪れるのですが、日常的に殺戮をしてきた海賊に往生を約束してくれる寺などありません。さいごに、自分の町の本福寺を訪れて、どんな悪人でも往生できると教えられ、家族ともども帰依し、門徒になったというのです。

 

 この話は、道幸が、自分のした殺害じたいを本当に反省したのかどうか、わからない感じがあります。父が身代わりになったと聞いてはじめて態度を変えているからです。父を犠牲にする結果となったのが申し訳ないのか、自分の殺した犠牲者たちに申し訳ないのか、よくわからない。じっさいのところは、町以外の人間をいくら殺しても、自治都市の中では黙認されてしまう。が、親(市の有力者)に迷惑をかけたということになると、とたんに “村八分” を受ける。それであわてて、反省のお墨付きを貰おうとして、ほうぼうのお寺を駆け回ったんじゃないのか‥

 

 ところが、作者の明誓はこれに対して、

 

『悪に強い者は、善に強い』

 

 と、コメントしているのです。親鸞の「悪人正機説」を念頭に置いていると思われますが、‥それにしても、乗船した客を皆殺しにして財物を奪っても何とも思わない、見つからなければよいと思っている、そういう文字どおりの「悪人」に対して、自治都市にいる一向宗の僧が、どんな考えを持っていたかを示しています。そういう「悪人」こそ、我が方に入信して味方になれば、どんな屈強な敵も打ち破る「善行」を示すし、どんな迫害にもくじけない。これはやはり、浄土信仰というより、古代の神々に対する・善悪を超越した畏敬の信仰に似ています。そういうものが、阿弥陀一神教という新しい装いのもとに復活しているようにも見えるのです。

 

 それにしても、「客皆殺し」の話は戦慄させます。そうした残虐行為を反省することもなく、門徒として称賛され、伝説化してしまうというのも割り切れない。いま、堅田のお寺をめぐると、「客皆殺し」どころではない、もっと残酷な伝承(ほとんど史実。生首所蔵‥)にも遭遇するのですが、ここではこれ以上書きません。中世都市には、光も闇もあるのです。

 

 

堅田漁港 付近からの 琵琶湖

 

 

 

【60】「無縁」と現代――ますます見えにくくなったが、

これこそ人間社会成立の原理

 

 

 さて、長い寄り道に付きあわせてしまいましたが、お疲れさま、ここでようやく安富さんの本に戻ります。

 

 

『ここ〔『無縁・公界・楽』――ギトン註〕で彼〔網野善彦――ギトン註〕が示そうとしたことは、近世に近づくにしたがって、無縁の原理がじょじょに見えてこなくなるということです。

安冨歩『生きるための日本史』,2021,青灯社, p.234. 


 

 ここはちょっと誤解を招く部分だと思います。原始→古代→中世と進むにしたがって、「無縁」はむしろ可視化されます。旧石器~縄文時代には、すべてが「無縁」ですから、それが「無縁」であるということさえ意識されない。「有主」「有縁」の領域が出現して初めて、「主」も「縁」もない世界が人びとの目に映るようになるのです。

 

 「無縁」は、遍歴職人、巫女、遊女、非人、…といった「無縁」の人びと、また、アジール性をそなえた寺社、市庭(いちば)、河原、…といった「無縁の場」、「一揆」「逃散」などの「無縁」にかかわる行為、といった形で、眼に見えるようになります。しかし、可視化されるということは、同時に、制限されるということでもあります。とくに、幕府のような世俗権力にとっては、そうした自立性のある「無縁」の存在は、たいへん都合が悪いので、可能なかぎり制限しようとします。「ここは、アジールですよ。無縁ですよ。」と言って、一定の領域を囲って、そこに役人を入らせないのが「無縁」ですから、そんなものがあっては、統一された国家の統治などできないのです。場合によっては、あくまで存在を主張し抵抗する「一向一揆」のようなものは、武力で潰していきます。

 

 

『江戸時代でも、細々と縁切寺のような形で無縁所は残って』いたのですが、『明治になると、〔…〕近代法ができて、〔無縁の原理は――ギトン註〕完全に不可視化されます。』

安冨歩『生きるための日本史』,2021,青灯社, p.235. 

 

 

 ここで、「無縁の人」「無縁の場」は、近代法の施行によって消滅する(制度的には)――と言ったほうが、わかりやすいと思うのですが、「不可視化される」という・わけのわからない言い方を、安富さんがなぜするのかと言うと、たとえ眼に見えなくとも、現代社会にも「無縁」はあるのだ、と、このあと言いたいからです。

 

 まぁ読者の好みの問題だと思いますが、私はこういう神秘主義的な言い方を好みません。しかし、言わんとするところは、わからなくはないので、しばらくこの神秘主義の迷路にお付き合いするとしましょう。

 

 

『近代法はすべての空間に等しく適用されるものであって、〔…〕すべての空間を等質に、法というもので統治しなければいけない。すべての人間が同じような知識とか行動原理を学校で注入されて、等質でなければいけない。透明で均質な近代という枠組みの中では、無縁の原理なんてまったくどこにもないかのように見える。』

 

 しかし、『無縁の原理というものは、人類社会の中に必ずある普遍的な原理〔…〕それがなかったら、人類社会は動かない。そこにこそ、網野善彦が求めようとした自由とか平和とかの根源があるのです。

安冨歩『生きるための日本史』,2021,青灯社, p.235. 

 

 

 ここまで言うなら、現代の日本社会のどこに、どういう形で、「無縁の原理」が息づいているのか――それを具体的に述べるべきです。具体例を述べずに、「原理がある」「原理がある」という空念仏は、人を騙す作用しかしません。人の頭の中にあるんだ、と言うならば、そんな原理はどこにでもあります。そうではなくて、「ある」と言うなら、これこれの制度、慣習、人の集まりや、行動のなかに、「無縁の原理」がある。それを見よ、と言うべきです。

 

 網野氏も、勝俣氏も、これまでに見てきた著書のどこか1か所として、そういう具体例を欠いた抽象的な物言いはなかったことを思い出しましょう。網野氏の言う「平和」も、勝俣氏の言う「自由」も、つねに、歴史上に特定された、ある人びとの具体的な「平和」であり「自由」であった。それがなければ、「自由」も「平和」も、空念仏か夢物語です。

 

 このあと安富さんは、「自分が何らかの暴力によって狭い空間に閉じ込められているにもかかわらず、その世界を十分に広いと思わされ、自由を抑圧されているというのに、何ものにも束縛されていないと思わされている」という現代社会論を語ります(pp.235f)。これじたいは一面の真理ですから、私はそれについて何も言いません。

 

 しかし、それを、「無縁の原理」と、さらにウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」にまでリンクさせて、「目に見える世界の背後に、語り得ぬ神秘があり、それが無縁の原理として作動している」などと言われると、これほど抽象的なことをただ繋げれば、どんな無内容なことでも言えてしまうではないか、と思わざるをえないのです。少なくとも、この3つのものの内容(例でもよい)を、もう少し特定すべきでした。

 

 ウィトゲンシュタインについていえば、安富さんは第1章では、『論理哲学論考』の「語り得ぬもの」という想定を、方法論として援用していました。あくまでも発見のための方法論であって、「語り得ぬもの」じたいを実体化してその存在を主張しているわけではなかったと思います。ところがいまや一転して、「語り得ぬ神秘」イコール「無縁の原理」というものが存在する、おまえらには見えないだろうが、存在するんだ!‥と居丈高に宣命するのです。これでは、安富さん自身の言い方でいえば、みずからが「オカルト」になってしまったと言わざるをえません。それでも「存在する」と主張するのであれば、私たちの目に見える社会の・どこに、どのような形で、その影響なりが見られるのか、明らかにすべきです。

 

 安富さんは、そのあと第3章までは、近代日本における「立場主義」の興亡を論じていました。いま、「立場主義」を超える方向として「無縁の原理」を持ち出し、「無縁の原理」は「不可視だが存在する」と言うのであれば、「立場主義」と「無縁」は私たちの現在の社会で、どういう関係で存在しているのか、両者の実在的関係を明らかにすべきです。せめて片鱗なりとも言及すべきです。ところが、第4章以降では、「立場主義」は消えてしまいました。安富さんは、「立場主義」というコトバさえ言わなくなってしまったのです。

 

 これでは、「立場主義」を主張していたのは本気だったのか?‥と疑いたくなります。「無縁」なるものがいったいどこにあるのかも、皆目わからない。雲をつかむような結末です。

 

 第5章では、牧場の馬の世話やら、乗馬やら、女性装やら展開していますが、それらが「無縁」とどういう関係なのか?‥関係ないのか?‥まったく述べられていません。そもそも、「無縁」という語も第5章では消えてしまいます。

 

 「立場」は、1回だけ復活します:

 

 

『立場を離れ、馬と暮らそう

安冨歩『生きるための日本史』,2021,青灯社, p.268. 

 

 

 これだけ取りだせば、たしかに夢のあるキャッチフレーズです。うん、それもいいなあ、と誰もが思う。しかし、前後の脈絡との関連は不明です。ここまで長々と述べられてきたことが、「立場」とどういう関係にあるのか、皆目わからない。

 

 「無縁」は復活しないので、もっとわかりません。馬は「無縁」だと言うのでしょうか? 家畜も野生動物も「無縁」にはちがいない。「縁」とは、人間のあいだにだけあるものだから。しかし、馬と暮らす人が「無縁」だとは、とうてい言えないでしょう。日本人で、馬と暮らす人といえば、中世の武士と東国の農民です。東国、特に東北地方の農民は、馬と暮らしていると言ってよい生活形態をつづけてきました。馬小屋と人の住居が一体になった「南部曲がり家」というものがあります。岩手県民だった宮沢賢治の作品には、馬と人がいっしょに暮らすようすが頻繁に描かれます(たとえば、『家長制度』)。日本の農村から馬がいなくなったのは、第2次大戦で陸軍が日本じゅうの馬を徴発して中国へ連れて行って乗り潰して、人間しか戻って来なかったからです。

 

 

     

南部曲がり家 岩手県立博物館。     左側が人の、右側が馬の住居‥‥    

と言っても、長男以外は、馬の住居(土間)で生活させる家もあったという。   

 

 

 東国農民と中世の武士――どちらも、網野氏によれば「無縁」からはもっとも遠い人びとなのです。馬と暮らしたら「無縁」になる?‥そんなことはありません。武士も東国農民も、厳しい主従・奴隷の社会で生きていました。網野氏の「無縁」、つまり安富さんが第4章で言っていた「無縁」とは、――武士と農民・「馬との暮らし」…そうした生活とは対極にあるものです。そう思わないとしたら、安富さんは網野氏と勝俣氏を完璧に誤読しているのです。

 

 しかし、そうは言っても、私は安富さんのこの本を全否定するつもりはありません。第4章の中途まではたいへんに優れた著書です。「立場主義」という発見的な概念を、今後さらに展開され、「無縁の原理」についても、現代社会に即して具体的に述べていかれることを切に望みます。

 

 そういうわけで、とらえどころのない流れる水の上に、いくら水を積んでも流れてしまうだけですから、本書に関しては、これ以上引用する意義を認めることができません。

 

 以上で、安冨歩『生きるための日本史』のレヴューを終ります//


 

 


 

 

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