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山田寺址     手前:塔基壇。 奥:金堂基壇。

蘇我倉山田石川麻呂が 641年に建立開始したが、649年石川麻呂は、

蘇我日向に包囲されて自害し、工事中断。

「大化」クーデター(645年)以後、生き残った蘇我一族は、

しばらくは権力を保持したものの、一族の内部抗争で没落した。

 


 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

 

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 660年 唐と新羅、百済に侵攻し、百済滅亡。
  • 663年 「白村江の戦い」。倭軍、唐の水軍に大敗。
  • 668年 行基、誕生。
  • 672年 「壬申の乱」。大海人皇子、大友皇子を破り、天武天皇として即位。
  • 676年 唐、新羅に敗れて平壌から遼東に退却。新羅の半島統一。倭国、全国で『金光明経・仁王経』の講説(護国仏教)。
  • 681年 「浄御原令」編纂開始。
  • 690年 持統天皇即位。「浄御原令」官制施行。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 697年 持統天皇譲位。文武天皇即位。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧)。藤原房前を参議に任ず。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始?
  • 721年 元明太上天皇没。
  • 723年 「三世一身の法」。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。
  • 728年 『金光明最勝王経』を書写させ、諸国に頒下。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原光明子を皇后に立てる。
  • 730年 行基、平城京の東の丘で1万人を集め、妖言で人々を惑わしていると糾弾される。朝廷は禁圧を強化。

《第Ⅲ期》 731-749 孝謙天皇に譲位するまで。

  • 737年 聖武天皇、初めて生母・藤原宮子と対面。疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。
  • 738年 橘諸兄(たちばな・の・もろえ)を右大臣に任じる。
  • 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏(るしゃなぶつ)」像を拝し、大仏造立を決意。藤原広嗣の乱聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山背(やましろ)を巡行し、「恭仁(くに)」を造営開始。
  • 741年 諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」に遷都の勅。
  • 742年 「紫香楽(しがらき)」の造営を開始。
  • 743年 墾田永年私財法」。紫香楽で「廬舎那仏」(大仏)造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 「難波宮」を皇都とする。
  • 745年 行基を大僧正とする。「平城京」に都を戻す。
  • 746年 平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)の長官に任じる。

《第Ⅳ期》 750-770 称徳(孝謙)天皇没まで。

  • 752年 東大寺で、大仏開眼供養。
  • 754年 鑑真、来朝し、聖武太上天皇らに菩薩戒を授与。
  • 756年 聖武太上天皇没。
  • 757年 「養老律令」施行。藤原仲麻呂暗殺計画が発覚、橘奈良麻呂ら処刑。
  • 758年 孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位。
  • 764年 藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱道鏡を大臣禅師とする。淳仁天皇を廃位し配流、孝謙太上天皇、称徳天皇として即位。
  • 765年 寺院以外の新墾田を禁止道鏡を太政大臣禅師とする。
  • 766年 道鏡を法王とする。
  • 769年 道鏡事件(天皇即位の可否で政争)。
  • 770年 称徳天皇没。道鏡失脚、左遷。光仁天皇即位。
  • 772年 墾田禁止を撤回

 

 

 

 

 

【10】 「天智・天武」以後の皇位継承

 

 

 ↑上にかかげた系図を見ると、顕著に気づくことがあります。天智天皇(中大兄皇子)は、蘇我氏を滅ぼして「大化の改新」を断行したなどと言われていますが、天智の子孫は、蘇我氏である蘇我倉山田石川麻呂の娘たちとのあいだに生じた末裔なのです。その血筋は、元明天皇にまで及んでいます。

 

 他方、中大兄皇子と組んで「大化」クーデターを仕掛けた藤原鎌足の子孫藤原氏は、律令制確立に大きな役割を果たしたわりには、天皇外戚としての権力はなかなか持てないでいたのです。藤原氏を外戚とする天皇は、聖武天皇がまさにその最初であったことがわかります。平安時代には天皇外戚として権力をふるうことになる藤原氏も、奈良時代までは、天皇国家に対する貢献のわりには冷遇されていたし、何度か、宮廷陰謀の犠牲にもなっているのです(藤原広嗣の乱藤原仲麻呂の乱)。

 

 41代・持統天皇以後、45代・聖武天皇までの皇位継承を見ると、持統・天武夫婦の直系子孫が皇位を独占していることがわかります。元明は、自身は天智系ですが、文武の皇后であり、皇位に関する権力構図では持統・天武系に属していたといえます。

 

 「壬申の乱」は、皇族と有力豪族を二分する武力衝突でしたが、勝利した天武・持統方も、天智・大友皇子方の残党を抑えきる力はなく、天智(中大兄)方をなだめて、不満が起きないようにするために、「天智天皇の創始した改革を継承する」というタテマエをとらざるをえませんでした。皇位継承に関しても、持統は、自身が天智の娘であることを前面に出して、「天智・天武双方の血筋を引く者こそ正統」だと主張しました。

 

 そこで、持統にとってじゃまなのは、姉・大田皇女の子である大来皇女と大津皇子です。なぜなら彼らは、持統の子・草壁皇子と同様に「天智・天武双方の血を引く者」であり(↑系図参照)、しかも世代が先であったからです。天武天皇のもとで、草壁・大津の対抗関係は表面化し、天武崩御とともに、大津皇子は謀反の疑いをかけられて刑死(賜死)します。

 

 この事件は、持統女帝が仕かけた冤罪でっち上げであるとの説が有力です(⇒:wiki「大津皇子」)。持統の子の・草壁皇子から、文武→元明→元正→聖武と、皇位を独占した血統が出ているのです

 

 大津皇子の死を悼んだ姉・大来皇女の和歌↓が残されています。後世の人の仮託とする説も有力ではありますが。

 

 

『うつそみの人なる我や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む』

 

『磯の上に生ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど 見すべき君がありと言はなくに』

 

 

 大津皇子は、二上山に葬られました。雄岳・雌岳からなるその山容は、大津・大来姉弟を象徴するかのようです。可憐なアセビの花を手折ろうとして、はっと気づくのは、幼いころいつもいっしょに山を歩いた弟が、もうこの世にはいないことでした。「磯」は、水辺とはかぎらず岩のこと。

 

 

喜志・粟ヶ池から二上山を望む。左:雄岳。右:雌岳

 

 

 

【11】 枝葉を伐って主幹を伸ばす――純化粛清のロジック

 

 

(おくび)皇子〔聖武天皇となる――ギトン註〕の父は珂瑠皇子(かる・の・みこ)といった。即位して文武天皇と呼ばれた人物である。

 

 母は宮子。中臣(藤原)鎌足の後継者、藤原不比等(ふひと)のむすめである。〔…〕

 

 の祖父であり、珂瑠の父である草壁皇子が誕生したのは 662年のことであった。当時まだ倭国と呼ばれていた日本が、唐・新羅によって滅ぼされた百済を復興するための軍事援助に奔走していた時期である。〔…〕

 

 草壁にとって、伯父であり祖父にもあたる天智天皇はその即位前後の頃から、従来の世代や年齢を重視した王位継承に代わって、血統にもとづく王位継承を実現しようと企てていた。そのためには血統的な〔…〕価値がみとめられる血統というものを創出しなければならない。そこで天智は、自分と弟・天武の双方の血を引くという点に最大の血統的な価値があるとして、そのような特殊な血統をもった皇子による王位継承を実現しようとしたのである。

遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,pp.18-19.  

 

 

 「世代や年齢を重視した王位継承」――天皇崩御の後で群臣の協議によって次の天皇を決める従来の体制のもとでは、けっきょく、皇族のなかで、皇族の血の濃さと長幼の序を基本として決めることになるからです。それが、皇族の同世代間、とくに兄弟間、従兄弟間の争いを引き起こしてきたと、天智は考えたのです。


 天智・天武兄弟の血を引く血統――↑系図を見ると、草壁皇子の系統がまさにそれにあたります。元明、元正、聖武が属する系統です。しかし、ほかにもないわけではありません。まず、大津皇子と大来皇女。この系統は、大津皇子が謀反の嫌疑で刑死したことによって根絶やしにされました。

 

 もうひとつの、天智・天武双方の血を継ぐ系統は、舎人親王です。まさに、元正が首皇子の補佐役に任命して懐柔しようとした2人の長老級皇族の一方です。舎人親王自身は、大津皇子のような悲惨な目には合わないですみましたが、その息子は、聖武天皇の2代後に即位したものの(淳仁天皇)、聖武の娘・孝謙太上天皇によって廃位され、けっきょく暗殺されています。

 

 このような・草壁系統による他流抹殺の流れのもとで、舎人親王が天寿を全うできたのは、ひとえに用心深い自重の結果ではなかったかと思います。そして舎人親王は、政治の第一線からは身をひき、『日本書紀』編纂の事業に専念することによって、ある意味で復讐を遂げました。というのは、『日本書紀』で天智天皇は、天皇律令国家の基礎を築いた人として高く称揚される一方、天武・持統天皇には、その事績のわりにはそれほどの評価が与えられていないからです。

 

 このように、自分と弟の血を引く系統を正統として立てようとした天智の意図は、その時にはよかったとしても、後代に下るにしたがって無理が生じてきます。なぜなら、系統内の血族結婚を繰り返すのでない限り、後代になるほど皇族の血は薄まり、ほかの、天武のみの血統や天智のみの血統と、大差なくなってしまうからです。

 

 じっさい、↑系図を見ると首皇子の母は藤原氏であり、彼自身について言えば、両親が皇族である舎人親王長屋王と比べ、皇族の血の濃さという点では劣っているのです。なお、長屋王は、首皇子(聖武天皇)が即位したあとで、謀反の疑いをかけられて自害しています(長屋王の変)。長屋王は、首皇子にとって共存不可能なライバルだったのです。

 

 新田部親王は、「天智・天武」双系ではありませんが、母が藤原氏という点は首皇子と同じであり、首皇子が藤原氏の権威を持ち出そうとすれば、新田部親王にかなわないことになってしまいます。

 

 このように、首皇太子が即位を狙っていた時点では、舎人親王新田部親王長屋王、鈴鹿王などの有力な皇位継承権者がいました。元明・元正が、聖武の即位を先延ばしにしていた理由は、ここにあったと言えます。血筋に不足があるなら、帝王にふさわしい力量で。。。。しかし、その力量の点で、首皇子はまだまだ人びとを納得させるには足りないと、有力皇族の鼻息をうかがう祖母・叔母には思われたのです。

 

 

 

 


【12】 天皇の窮地を救ったボンクラ皇太子

 


 721年、元明太上天皇が亡くなりました。

 

 

『元明は、右大臣の長屋王と参議の藤原房前(ふささき)〔不比等の子――ギトン註〕を枕頭に招き、両名に後事を託す旨を述べた。〔…〕元明は彼らに、宮中や都を警護する五衛府によって警戒態勢を強化するよう命令している。

 

 同月の24日〔721年10月24日〕には、藤原房前が内臣(うちつおみ)という官職に任命された。〔…〕元明が自分の死後に起きるであろう政治的不安や混乱を大いに警戒していたことを物語っている。

 

 12月7日、ついに元明太上天皇は死去した。

 

 〔…〕その日のうちに、東日本に向かう3つの官道(北陸道、東山道、東海道)の畿内からの出口を制する3つの関(愛発(あらち)関、不破関、鈴鹿関)〔…〕を兵力によって閉鎖する〔…〕東国に脱出した者が、そこを基盤に不穏な動きを起こすことを未然に封じるためであった。

 

 〔…〕不安は的中したというべきだろうか。元明という重しがなくなって、俄然、政治的混迷が噴出することになった。』

遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,pp.64-66.  

 

 

 しかし、亡き太上天皇と側近たちの不安が「的中した」とは、必ずしも言えないと私は思います。このあと述べるように、予想されたような内乱や、宮廷内の本格的な権力衝突は起きていません。起きたのは、警戒しすぎてフライングしたとか、「重し」がとれてハメを外しすぎた、といった小さな事件にすぎません。

 

 権力の頂点にある者は、権力の座からの転落を過剰に恐れる「独裁者」の心性に侵されやすい。つねに敵の潜伏を疑って、周囲に猜疑の目を向けがちです。「草壁血統」のような、王族中の狭い血縁集団で王位を独占している体制では、独裁体制と同じような猜疑が、権力者の心性を侵すでしょう。

 

 起きた事件というのは、2件:

 

 

『壬戌〔722年1月20日〕、正四位上・多治比真人三宅麻呂、謀反を誣告し、正五位上・穂積朝臣老(ほづみ・の・あそん・おゆ)、乗輿を指斥す〔天皇を名指しで批判した〕といふに坐(つみ)せられて、並びに斬刑に処せらる〔打ち首の判決を受けた――ギトン註〕。而(しかる)に皇太子の奏に依りて、死一等降して、三宅麻呂を伊豆嶋に、老を佐渡嶋に配流す。』

青木和夫・他校註『続日本紀 二』,新日本古典文学大系 13,1990,岩波書店,p.109: 養老六年正月条. 

 

 

 謀反(むほん)の「誣告」は、じっさいには存在しない反乱計画の疑いで、他人を告発すること。朝廷全体が、政情不安でピリピリして、役人が互いに過剰な猜疑を向け合っていたら、そんなことはいくらでも起きるでしょう。

 

 「乗輿」とは、天皇の乗り物のことで、「指斥」――天皇を指さして「バッカデ~!!」と言う類。「おかんがいなくなって、ねえちゃんも長くねえな。さっさとバカボンに譲ってやったらいいに。」とでも言ったんでしょうかね。そのくらいのことで厳しすぎると思うかもしれませんが、これは「職制律」の規定。国家公務員がやったらいかんということで、すじは通っています。

 

 両方とも、中国に倣った「律」では「斬刑」。法律がそうなっている以上、元正天皇としては、そのまま適用せざるをえません。なにしろ天皇一身に関することなのですから、寛刑で処理したら権威に傷がつきます。女帝であるだけに、「女だから、何言っても大丈夫」などと思われないように、よけいに神経をとがらさないわけにいきません。

 

 しかし、これは苦しいジレンマでもあります。中国風の厳しい刑罰をそのまま適用すると、刑死者の眷属から恨みを買うことは避けられません。無関係な人びとにも反感が広がるかもしれません。なにせ天皇の一身に関すること、しかも、現実の反乱謀議のような、どうしても抑えなければならない危険が存在するわけではない。極刑を正当化するだけの社会的条件が存在しないのです。

 

 被告人の位階は、正四位上と正五位上。それほど高位ではないという点も、処断を難しくしています。いずれにしろ、たいした陰謀や動乱の発覚ではない。厳しく罰すれば、数の多い下級官人やその眷属に与える影響は、良くも悪くもたいへんに大きいのです。

 

 

『ところが、この日、突如として首皇太子の奏上がなされ、皇太子の助命嘆願によって、〔…〕かれらは一命をとりとめたのである。〔…〕

 

 もし穂積老〔「老(おゆ)」は名前。年齢は不詳だが 45歳以上か。――ギトン註〕が極刑となれば、その死の苛烈さゆえに、〔…〕彼による元正批判は永遠に歴史に刻印され、記憶されるであろう。〔…〕

 

 結果的に元正は首(おくび)という甥に救われた形になったのではないか。首は元正の苦しい立場をあたかも見透かしたように、皇太子という立場を利用して助命嘆願という離れ業をやってのけた〔…〕

 

 首皇子は元正天皇に貸しをつくったといっていい。』

遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,pp.66,68-69.  

 

 

 元正天皇だけではなく、‥いままでは朝議にもほとんど姿を見せなかった「深窓」の「幼稚」バカボン太子の突然の上奏、しかもその大胆な提議が即刻受け入れられたことは、朝野を驚かせたにちがいありません。しかも、その方向が悪くない。中国由来の律令を杓子定規に適用するだけの官僚統治にあきあきしていた人びとは、この皇子が君主となれば、温情にみちた理想政治をやってくれるのではないか? そうした期待が朝野を沸かせたかもしれません。

 

 

泉の川」  「恭仁京」の南を流れる木津川。

 

 

 それから2年後の 724年、元正天皇は譲位し、首皇子が聖武天皇として即位します。

 

 苦節10年、晴れて即位した聖武の治世については、回を改めることにして、本日の最後は、皇太子に一命を救われた2人のその後を記しておきましょう。

 

 多治比・三宅麻呂のほうは、伊豆嶋(伊豆半島?)に流配されたあと、聖武即位の翌年(725年)に配所で死去しています。享年 73歳。誣告を訴えられた時点で、すでに天寿の齢に達していたのです。(⇒:wiki「多治比三宅麻呂」)

 

 他方、穂積・老は、佐渡に配流される途上で長歌・返歌を詠んでおり、『万葉集』〔巻13-3240,3241〕に収録されています:

 

 

『大君の 命畏(かしこ)み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木積む 泉の川の 速き瀬に 棹さし渡り ちはやぶる 宇治の渡の 滾(たぎ)つ瀬を 見つつ渡りて 近江道の 逢坂山に 手向して 我が越え行けば 楽浪(ささなみ)の 志賀の唐崎 幸くあらば またかへり見む 道の隈 八十隈(やそくま)ごとに 嘆きつつ 我が過ぎ行けば いや遠に 里離り来ぬ いや高に 山も越え来ぬ 剣大刀 鞘ゆ抜き出て 伊香山〔いかご山。滋賀県長浜市・木之本町の賤(しず)ヶ岳周辺の山地――ギトン註〕 いかが我がせむ 行方知らずて』

 

『天地(あめつち)を 嘆き乞ひ祈み 幸くあらば また反り見む 志賀の唐崎』

 

 

 流刑に連れて行かれる行く手の不安が表れているだけで、一命を救われた喜び、ないし感謝のようなものは、とくに読みとれません。穂積老は、あからさまに天皇の悪口を吐露して逮捕されたという “罪状” そのままの反骨の人だったのかもしれません。

 

 

 

いかご山」  賤ヶ岳山頂から琵琶湖を望む。

 

 

 しかし、聖武天皇は、720年に大赦を発して赦免し、その後、を大蔵大輔に任命しています。さらに、744年には、「恭仁(くに)京」から「難波(なにわ)京」に遷都したさいに、穂積老を「恭仁京」の「留守官」に任命しています(『続日本紀』天平16年2月3日条)。この時「留守官」は5人任命され、筆頭は鈴鹿王(従二位)、ほかの3名は、従四位上、従四位下、従五位下。穂積老は正五位上でした。皇族の鈴鹿王は、名目的なトップでしょうから、実質的には穂積老ほか3名――ほとんど同位階の彼らに、留守中の「恭仁京」の管理全権が委ねられたといってよいでしょう。(⇒:wiki「穂積老」)

 

 聖武は、復権後のに対して、「もと罪人」の扱いはしていなかった、むしろ重く用いていたといってよいと思います。

 

 

 

 

 

 

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