
3月17日
トルコ記念館(和歌山県東牟婁郡串本町)
紀伊大島樫野崎で1890年に発生したオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号遭難の記録を今に伝えるトルコ記念館。
前に樫野崎を訪れた時は見学できませんでしたが、今回はこの記念館にも入ってみました。

オスマン帝国(現在のトルコ)の木造フリゲート艦エルトゥールル号は、1887年に行われた小松宮夫妻のイスタンブール訪問に応えることを目的に海軍の航海訓練を兼ねて大日本帝国へ派遣されました。

1890年に日本に到着して皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として大きな歓迎を受けました。

しかしその帰路、台風による強風にあおられて船は紀伊大島の樫野崎の岩礁に激突

写真の一番奥の岩あたりが座礁した場所です。
座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して水蒸気爆発を起こして沈没し、司令官をはじめとする600名以上が海へ投げ出されました。
樫野崎灯台下に流れ着いた約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりつき、灯台守が驚いて応急手当を行ない、お互いの言葉が通じなかったものの、国際信号旗を使用して、遭難したのがオスマン帝国軍艦である事を知りました。

和歌山県知事から島民に送られた感謝状
通報を受けた大島村樫野の住民たちは総出で救助にあたり、69名が救出され生還することが出来た一方、残る587名は死亡または行方不明となる大惨事となりました。
大島村の村長は県を通じて大日本帝国政府に通報し、知らせを聞いた明治天皇は政府に対して可能な限りの援助を行うよう指示しました。
日本帝国海軍のコルベット艦、「比叡」と「金剛」が遭難事故の20日後に東京品川から出航、神戸の病院に搬送されていた生存乗員を神戸港で収容し、翌年の1891年にオスマン帝国の首都イスタンブールまで送り届けました。



後にエルトゥールル号が沈没した海底から引き揚げられた遺品が展示されてました。

時は流れ、イラン・イラク戦争が激しくなった1985年、サダム・フセインがイラク領空を飛ぶ飛行機は全て撃墜するとしたタイムリミットまで残り1時間・・・。
各国がイラク在留の自国民を救うために特別機を飛ばす中、日本は航行の安全が保証できないとして救援機の派遣を見送ってしまいました。脱出の手段を断たれて空港で足止めされ途方にくれていた在留邦人125名。。。

その前に舞い降りたトルコ航空機は邦人全員を乗せて辛くもイラクを脱出することに成功しました。

この出来事に日本政府は全くタッチしておらず、後に駐日トルコ大使は「私たちはエルトゥールル号のご恩は忘れていません」と語ったそうです
この物語は映画化もされてます。
【Youtube】 映画『海難1890』予告編
日本トルコ友好の礎となった地を後にして、次は古式捕鯨の町、太地町へ向かいます
つづく
過去記事<紀伊大島 樫野崎にて>
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