江戸時代の人々はどんな生活をしていたのでしょうか。幕府からにらまれて、窮屈な生活をしていたのでしょうか。それとも、平和な世の中のおかげで円熟した文化を育むことができたのでしょうか。
江戸時代の文化や生活については、史料も多く残されていて、多くの研究が行われています。人々の服装や文化・生活を見ていくことにしましょう。
江戸時代の服装!農民や庶民はどんなだった?
【農民の服装について】
全国の人口の8割以上を占めたと言われる農民。とても辛く苦しい生活を強いられて、ボロボロの格好をしていたという印象が個人的にはあるんですが、どうなのでしょう。
作業着は軽装!
農業のシーズンは春先から秋の稲刈りまでですから、衣料は軽装です。
男性は膝丈の短い着物を着て、緩めの股引(ももひき)をはき、足には脚絆(きゃはん)。頭は手ぬぐいで頬被りをしたり、笠をかぶったりしていました。
女性は、短めの着物にたすき、前掛け。頭は手ぬぐいで姉さん被りをしたり、菅笠だったり。小さい子どもがいる場合、おんぶしながら作業をしました。当時の様子を描いた絵を見ますと、子どもを着物の背中に入れているだけで、おんぶ紐は使わなかったようです。落ちたりしなかったんでしょうか。
服は素材から作る!
冬は、男は出稼ぎ。女は養蚕・織物など。農民は絹を着ることは禁止されていたので、全て売ったのでしょう。農民は年貢米さえ納めれば良かったので、出稼ぎや絹織物の収入はそのまま自分たちのものになりました。
家族の衣類は、樹木の繊維を取るところから自分たちで行い、糸にして織り、仕立てました。徹底した自給自足ですね。
早乙女は晴着!
女の子は、田植えの時は「早乙女(さおとめ)」と呼ばれ、麻や木綿で色も綺麗な「晴着」を着ることもあったようです。
現在のようにトラクターに乗って全作業が一人で完結するようなわけにはいきませんから、大勢が集まって作業をしました。豊作を祈る神事のような色彩もありましたら、お祭りのような楽しい行事だったようですね。
【庶民の服装について】
庶民とは、主に江戸に住んでいた町人になります。その人たちの服装はどうだったのでしょう。
絹を着ていた!
江戸初期は「繭繊(めいせん)」という安価な絹の着物があり、主にそれを着ていたようです。
木綿が国内に入ってきたのは戦国時代ですが、それから近畿、関東、三河、河内などで綿花栽培が行われるようになりました。江戸に木綿問屋が立ち並ぶようになるのは1600年代後半からです。なので、その後は木綿の着物も増えていったと考えられます。
江戸庶民の普段着!小袖!
江戸庶民の普段着と言えば、何と言っても小袖でしょう。江戸初期は、貴賤、男女にかかわらず小袖の形は同じでしたが、現代とは全く異なる形でした。
特徴は…
身幅…ゆったりと広く、現代の1.5倍。
身丈…かかとまでの対丈。襟のあき小さく、襟先は膝までと長い。裾にふさ(縁取りされた配色部分)がない。
袖丈…短い。袖口も狭い。肘くらいに短い六分丈。薙袖という丸みの大きい袖。
江戸中期の小袖は柄が楽しい!
江戸中期の小袖は身幅が細身に変化し、逆に身丈は長くなり、裾を引きずったり、はしょったりするようになりました。歩きにくいはずですが、機能性よりも見た目が大事になったようです。
何より注目したいのが、柄の楽しさ。例えば「文字模様」小袖は、色の染め分け地に文字入りで、和歌を連想させます。
また、「謎解き模様」と言って、文学的な題材、謡曲や伊勢物語から文字や絵の一部のみを小袖の模様に表し、主題を当てるクイズのようなものもありました。
他には、中幅の横段が続く「段模様」や、文字入りの額が散らしてある「額模様」など。
寛文小袖は、模様が背面の右肩から左裾へ向かうような左右非対称の大胆な構図が特徴です。描かれる物も、「太鼓と藤」とか、牛車の車輪に波、基盤、滝、三味線など、個性的な模様の組み合わせが見られました。
振袖が誕生した!
機能性より見た目という江戸中期の流行の中で、振袖が誕生します。何となく、男の私でさえワクワクします。
袖の長さは一尺五寸くらいから始まって、時代と共に長くなっていき、二尺九寸(ほぼ90㎝)まで達したそうです。地面に引きずって歩いていたと言いますから、流石に行き過ぎですね。
江戸後期の小袖は地味
中期は見た目重視の優美な衣装が流行っていましたが、江戸後期は享保の改革、寛政の改革が行われ、地味なものへと一変します。
細身だった身幅は、袖幅と同じになります。現代と同じですね。機能性を取り戻してきました。柄は「縞」とか「小紋」とか地味なものが流行りました。
半天はお祭り以外にも着ていた!
小袖以外の服装としては、今はお祭りの時にしか着ない半天(半纏:はんてん)。袖下にマチがついていないので「窮屈羽織」とも呼ばれました。襟を折り返すこともなく、簡易に着る略服として、男女、子どもともに着ていたようです。冬は「綿入れ」にして防寒用になりました。
「どてら」は粋だった!
どてらも江戸時代に生まれました。ちなみに「どてら」は江戸での呼び名。京都大阪では「丹前」と呼びました。
「丹前」の由来は、江戸初期、神田の堀丹後守(ほりたんごのかみ)屋敷前にあった「丹前風呂」という風呂屋。丹後の前ということでしょうね。湯女のいる風呂屋で、旗本奴が通っていました。
旗本奴とは旗本の青年武士などの集団で、いわゆる「かぶき者」。彼らは異風を好み、袖口や裾には「ふさ」という縁布を付け、全体にたっぷりと綿を入れた小袖を着て粋がるその装いから「丹前風」と言われました。
風邪で寝込んだ「おとっつぁん」が着るものだとばかり思っていましたが、粋だったんですね!
江戸後期には庶民が家庭でくつろぐ時の室内着となっていますが、職人(特に鳶職人)は外出着としても用いました。男女ともに着用。
江戸時代の生活はかなり現代的だった
次に、生活面を見てみましょう。「丹前風呂」の話が出ましたので、まずはお風呂から。
銭湯にはフリーパスもあった!
江戸の銭湯は江戸幕府開府以前からありました。江戸っ子はお風呂が大好きで、一日に何度も入る人さえいたようです。江戸初期、1700年頃までは蒸し風呂で湯舟に入ることはなく、身分の別なく、男女の別もなく、一緒に入っていました。
料金は大人8文(約120円)と安い!これなら何度でも入れます。子ども料金(6文:約90円)の設定もあり、「羽書(はがき)」というフリーパス(1ヶ月148文:約2200円)もありと、とっても現代的。
湯女(ゆな)というのは背中を流してくれる女性。背中を流したり着替えの手伝いをしただけでなく、性的サービスを行うこともあったようです。旗本奴が入り浸るわけですね。
江戸の人はエコだった!
江戸の人は、とってもエコでした。壊れた物でも簡単に捨てたりしません。修理をする職人さんがいっぱいいたのです。
割れた瀬戸物を白玉粉でくっつける「焼き接ぎ職人」、鍋とか鋳物製品の修理は「鋳掛屋」、雪駄や草履など履物の修理は「雪駄直し職人」、下駄専門というプライドがあった「下駄直し職人」、文字の書入れもしてくれる「提灯張替え職人」、煙管(きせる)の掃除や交換をしてくれる「羅宇屋(らおや)」、切れ味の悪くなった刃物を研ぐ「研ぎ屋」、壊れた錠前を修理する「錠前直し」、磨り減った石臼の目を立て直す「臼の目立て」、算盤(そろばん)の修理や交換を行う「算盤直し」などなど。
道具を天秤棒に下げて、町中の隅々まで回ってくれていたようですから、至れり尽くせりですね。
娯楽も充実していた江戸の文化
文化面は?ということで、江戸庶民の娯楽を見てみましょう。
江戸の娯楽は歌舞伎!
江戸の娯楽といえば、何と言っても歌舞伎ですね。発祥は出雲の阿国ですが、江戸開府と同時期に江戸に入ってきたようです。
大奥の奥女中が役者に夢中になり、スキャンダル(江島生島事件)にもなりました。瓦版が喜んでネタにするところは、今の週刊誌と変わりませんね。
ファッションへの影響も大きく、服の色、模様、帯結び、頭巾など、歌舞伎が流行の発信源になっていました。
マジックやサーカスみたいな曲芸の見世物もあった!
見世物もいろいろあったようです。綱渡りや手妻(マジック)はもちろん、刀を突きさした2mくらいの籠を裸でくぐりぬける籠抜け、刀を喉に入れる剣呑み、扇子や刀の上で独楽を回す曲独楽、サッカーのリフティングのような曲鞠、目隠しをして果物を斬る居合抜き、などなど。
早竹虎吉という軽業師の出し物は、豪華な衣装や舞台装置、音響効果も取り入れた立派なイリュージョン。浅草や両国で公演をしましたが、前日から予約をしないと入場できないほどの大人気。幕末にはアメリカ公演をしたというから世界レベルですね。
まとめ
- 農民の男性は、短い着物に股引。足には脚絆。頭は頬被りをしたり、笠をかぶったりしていた。
- 農民の女性は、短めの着物にたすき、前掛け。頭は姉さん被りをしたり、菅笠。
- 小さい子どもがいる場合、おんぶしながら作業をしたが、おんぶ紐は使わなかったらしい。
- 冬、男は出稼ぎ、女は養蚕・織物など。出稼ぎや絹織物の収入は自分たちのものになった。
- 家族の衣類は、樹木の繊維を糸にして織り、仕立てた。
- 女の子は、田植えの時は「早乙女」と呼ばれ、麻や木綿で色も綺麗な「晴着」を着ることもあった。
- 江戸の庶民は、江戸初期は安価な絹の着物を着ていた。木綿が普及していったのは1600年代後半から。
- 江戸庶民の普段着で代表的なのは小袖。貴賤、男女にかかわらず同じ形の小袖を着た。
- 江戸初期の小袖の特徴は、身幅が広く、身丈はかかとまで。袖丈も短い。
- 江戸中期の小袖は、身幅が狭く、身丈は長くなった。
- 「文字模様」、「謎解き模様」、「段模様」、「額模様」など多様な模様が見られた。
- 寛文小袖は、左右非対称の大胆な構図に個性的な模様が描かれた。
- 機能性より見た目重視という流行の中で、振袖も誕生した。
- 江戸後期の小袖は、享保の改革、寛政の改革の影響で、一転して地味なものとなった。身幅、袖幅は現代と同じになり、柄は「縞」「小紋」が流行った。
- 半天は簡易な略服で、お祭り以外にも着ていた。
- どてらは神田の旗本奴が着ていたもので、当初は粋だった。後に室内着となった。
- 江戸っ子はお風呂が大好きで、一日に何度も入る人もいた。一カ月入り放題のフリーパスもあった。
- 江戸の町には、いろんな物を修理する職人がたくさんいて、町中を歩いて回っていた。
- 歌舞伎は新しい江戸文化の発信源となっていた。役者と大奥の奥女中のスキャンダルは現代的。
- いろいろな見世物があった。早竹虎吉のイリュージョンは大人気で、アメリカ公演をするほどだった。
農民も、意外と楽しんでいたようですね。安心しました。
江戸の庶民は、かなりファッションを楽しんでいたようですね。江戸中期の小袖の自由奔放な模様は、今のTシャツの柄みたいです。そういった遊び心満載の文化が、今の外国人観光客の心を魅了しているのだ思います。
生活・文化面では、エコだったし、エンターテインメントも充実していたし、現代の方が遅れているような印象さえ受けました。江戸は凄い!
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