徳川幕府による260年もの太平の世が続いた江戸時代。人々はどんな食事をしていたのでしょうか。回数は1日何食?身分の違いで、食事も違っていたの?
身近なことだけに疑問が尽きません。ちょっと調べてみました。
江戸時代の食事回数って何回だった?
まず、食事の回数から行きましょう。現代は「1日3食」が当たり前になっていますが、そうなったのは江戸時代中頃、元禄年間(1688~1704)から。それまでは「1日2食」でした。
3食に増えたのは、庶民でも振売り(ふりうり)の「油売り」から菜種油を買って行灯(あんどん)に使えるようになったからだと言われています。
この時期、人々の生活が一変しただろうことは人口の推移を見ると分かります。全国(琉球を除く)の推定人口は、江戸時代初めは約1200万人だったのが、元禄期が終わった頃には3000万人に達しています。100年で2.5倍になっています。
ただ、その後は幕末まで、ほぼ3000万人で安定しています。元禄期までの人口の伸び率が凄いのです。
江戸に限って言えば、15万人から100万人に増加。100年でとは言っても、6.7倍の増加はすごいですね。当時の江戸の人口は世界一だっただろうと言われています。
江戸時代の食事ってどんな感じだった?
現在でも庶民やお金持ち、または偉い人と一般人では食事の内容がバラバラです。
江戸時代だとさらに差が激しいイメージですが、実際の食事はどんなだったのでしょう?
庶民・将軍・農民ごとに見ていきましょう。
まずは庶民から!
【農民の食事について】
ではまず、庶民の食事から見ていきましょう。主に江戸に住んでいた町人が該当すると思います。落語に出てくる熊さんとか八つぁんとかですね。それから、お武家様でも下級武士は庶民と同様の食事をしていたようです。
「一汁一菜」で白米たっぷり
江戸時代はテーブルはもちろん、昭和の頑固オヤジがよく引っ繰り返したちゃぶ台すらありませんでしたから、ひとり分ずつお膳に食器をのせて食事をしました。なんていうと高級なイメージがしますが、中身はかなり質素でした。
基本的には、ごはん、味噌汁、漬物。いわゆる「一汁一菜」ですね。
現代人の感覚だと「これで足りるの?」と思ってしまいますが、大丈夫だったのです。ご飯をたくさん食べていたのです。
江戸は全国から米が集まるようになっていたので、白米だけは貧富の別なく食べることができました。いくつかの文献を基に割り出した一人当たりの一日の消費量は3.9合~4.4合。
極端に白米に偏った食事ですね。
庶民のおかずはどんなものだったの?
おかずは次のようなものでした。
きんぴらごぼう、煮豆、切り干し大根の煮物、昆布と油揚げの煮物、ひじきの白和え、小松菜のおひたし、いわし目刺し、たたみいわし、アサリのむき身と切り干し大根の煮物。
漬物系は…
たくあん漬け、梅干、ぬか味噌漬け、なす漬け、らっきょう漬け、など。
味噌汁の具は…
大根、豆腐、納豆など。
米と大豆を合わせるとアミノ酸のバランスが良くなると言われていますから、豆腐や納豆は主食の御飯ととても相性が良かったことになります。
惣菜屋、振り売り、外食も!
江戸時代の史料には「菜屋(煮売り屋)」という商売が載っています。今で言う惣菜屋さんです。
『焼き豆腐・蒟蒻(こんにゃく)・くわひ・蓮根・牛蒡(ゴボウ)・刻み牛蒡』などの惣菜を店先に並べて売っていました。なので、何か一品買ってくれば「一菜」はできあがりですね。
その他に「振り売り」と呼ばれる商売がありました。商品を両脇にぶら下げた天秤棒を担いで町の隅々まで入り込み、食材を売っていたのです。
特に、豆腐売りは、朝昼晩「と~ふ~」と叫びながら1日3回売りに来ました。豆腐一丁の値段は50文(約1000円)で高いのですが、現代の豆腐一丁より大きかったようです。それに、注文に応じて切ってくれたし、薬味なども添えてくれました。
同様に、魚屋の振り売りは魚を注文通りさばいてくれたそうですから、ほとんど料理しなくていい感じですね。
おでんの振り売りは、おでん鍋と燗鍋を乗せた木箱を天秤棒から下げて、「おでん かんざけ」の行灯や暖簾をかけて売り歩いたそうです。
二八蕎麦、握り寿司、いなり寿司、天ぷらなどの「屋台」も辻々に出ており、外食を楽しむこともできました。
白米に偏った食事なので脚気が多かった
栄養事情を考えますと、必須アミノ酸や必須脂肪酸は辛うじて足りていたようですが、ビタミンB1は不足がちだったようです。江戸では脚気の人が多かったのです。白米偏重の食事なので、仕方ないですね。
白米だけは手に入りやすいという江戸の特長が、裏目に出ました。江戸を離れると、玄米や麦、雑穀を食べざるを得ないので、自然に脚気は治ります。そこで「江戸わずらい」とも呼ばれていました。
将軍様も例外ではなく、3代・家光、10代・家治、13代・家定、14代・家茂が脚気に悩んでいたといわれています。
【農民の食事について】
次に、農民の食事です。日本全国で言うと、人口の約85%が農民でした。農民は年貢米を徴収されるので、江戸の町民とは逆で白米だけを食べることはできませんでした。
農民が食べていたのは「かて飯」です。いわゆる混ぜご飯。少ないお米に稗(ひえ)などの雑穀や大根、芋がら(里芋の茎を干したもの)、サツマイモなどの野菜を入れたものです。
農村でも1日3食が基本でしたが、農作業が忙しい時期は1日4食になったりしました。そうしないと、とても体が持ちませんね。
【将軍の食事について】
最後に将軍の食事です。
品数は「二汁三菜」
朝食は朝8時。中奥(なかおく)という部屋で、ひとりぼっちの食事。
その内容は…
【一の膳】
ごはん、汁物、刺身や酢の物などの向付(むこうづけ)、煮物。
【二の膳】
吸い物、キスの塩焼きなどの焼き物。
「二汁三菜」です。昼食、夕食はこれにおかずが少し増える程度。庶民や農民と比べたら、豪華ですね。
お毒見が入る!
難点は、江戸城の台所から食事をする中奥までははかなり遠かったので、できたては食べられなかったということ。その上、途中で何度かお毒見が入ります。料理ができてから将軍の前に並ぶまでに2時間近く経っていただろうと言われています。
将軍の食事は10人前も作られました。台所から中奥に運ぶ間に、2カ所で3人の役人が毒味。さらに中奥でも2人の役人が3度目の毒味。食べた役人が全員無事なのを確認してから、残った5人前のお膳をシャッフルして、そのうちの一つを将軍が食べる…という流れ。
温かいものは冷めてしまうし、お刺身は乾いてしまいそうですね。
まとめ
- 食事の回数が「1日3食」になったのは、元禄年間頃から。
- 江戸時代の人口は、元禄年間までの最初の百年で急増し、その後は安定している。江戸時代のライフスタイルも元禄年間までに確立したと思われる。
- 庶民(江戸の町人や下級武士)の食事は「一汁一菜」。
- 江戸は白米が豊富にあったため、白米はたっぷり食べることができた。一人が一日に消費した量は4合くらいと推定される。
- おかずとして多かったのは、きんぴらごぼう、煮豆、切り干し大根の煮物、昆布と油揚げの煮物、ひじきの白和え、小松菜のおひたし、いわし目刺し、たたみいわし、アサリのむき身と切り干し大根の煮物など。
- 漬物は、たくあん漬け、梅干、ぬか味噌漬け、なす漬け、らっきょう漬け、など。
- 味噌汁の具は、大根、豆腐、納豆など。
- 江戸には惣菜屋があって、焼き豆腐・蒟蒻(こんにゃく)・くわひ・蓮根・牛蒡などの料理を売っていた。
- 「振り売り」と呼ばれる商売もあり、町の隅々まで回って食材を売っていた。
- 豆腐売りは朝昼晩と一日三回売りに来た。今よりも高かったが、一丁が大きかった。
- 魚売りは、注文通りにさばいて売ってくれた。
- おでん売りは燗酒も一緒に売っていた。
- 二八蕎麦、握り寿司、いなり寿司、天ぷらなどの「屋台」もあり、外食することができた。
- 白米偏重の食事だったため、脚気(ビタミンB1欠乏症)が多く、「江戸わずらい」などとも呼ばれた。
- 農民(全国の人口の約85%)は米を年貢米として徴収されるので、江戸の町人のようにたっぷりとは食べることができなかった。
- 農民が食べていたのは「かて飯(混ぜご飯)」で、少ない米に雑穀や大根、芋がら、サツマイモなどの野菜を入れて食べた。
- 農民も1日3食だったが、農繁期には4食のこともあった。
- 将軍の食事は「二汁三菜」。【一の膳】ごはん、汁物、刺身や酢の物などの向付(むこうづけ)、煮物、【二の膳】吸い物、キスの塩焼きなどの焼き物、といった内容。
- 台所から将軍の前に料理が届くまでの過程で毒見が何度も入るので、将軍が食べるのは料理ができてから2時間ほど経っていたと考えられる。
江戸の町人はそんなに贅沢はできなかったけど、いろんなものが揃っていて快適だったようですね。熊さん八つぁんの呑気な雰囲気が分かるような気がしました。何だか江戸に住んでみたくなりました。
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