明治時代

北里柴三郎の名言!正義感やマジメさが感じられる名言が満載だ!

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北里柴三郎は江戸時代の終わり頃、熊本に生まれました。明治に入ってから西洋医学を学んだというのに、ドイツに留学してコッホの下で研究を始めるとすぐに、それまで世界で誰も成し得なかった成果を次々と上げていきます。

北里の成功の秘密はどこにあったのでしょう。彼が残した数々の名言の中から探ってみましょう。

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北里柴三郎の名言!

実は医師になりたくなかった編

意外なことに、北里は医者には絶対になりたくないと思っていました。次のような言葉を残しています。

「医者と坊主は、手足をそなえた一人前の人間の為すべき業ではありません。柴三郎、この世に生をうけてより、志は天下国家にあるのです。わたくしはそのためにこそ、ひたすら武を練り、文を学んで今日にいたりました。なんでいまさら便々と、本読みの連中に加われましょうや」

天下国家のために役に立ちたい、という気持ちが強くうかがえる言葉です。生来の負けず嫌いだった彼は、とにかく軍人に成りたかったのです。本を読んで勉強ばかりしている奴らは何の役にも立たないと決めつけていました。

しかしながら親の意見には逆らえず、1871年(明治4年)、熊本の古城医学所病院に入学。北里18歳の時でした。

ここでオランダの軍医マンスフェルトに出会います。北里は、マンスフェルトからオランダ語を学びました。猛烈に勉強したので、一年後には通訳ができるほどになりました。

でも彼は、医学を学ぶ決心を固めたわけではありませんでした。オランダ語を身につけて文明開化の担い手になろうとしていたのです。だから、病院にいるにもかかわらず、医学には全く興味を示しませんでした。

 

医学を目指し始めた瞬間編

医学を学ぼうとしない北里の気持ちを変えるべく、マンスフェルトはいろんなアプローチを試みました。そして、北里に顕微鏡を覗かせた時から、彼の心は一変したのでした。

人体の組織を見ることで、医学は地に足の着いたちゃんとした学問だということが分かったのでしょう。そこで、彼はこんな言葉を残しています。

「医学また学ぶに値する」

後に「日本の細菌学の父」と呼ばれるようになる北里が、医学を目指し始めた瞬間です。

 

医者になることを決意編

北里は、1875年(明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学。在学中に、その後の医者としての方向性を決定する信念を抱き始めました。それを表しているのが、次の言葉です。

「医者の使命は病気を予防することにある」

北里は1877年頃から同盟社という学生結社を組織。社会活動を志すなら雄弁でなければならないと主張して、毎週土曜に演説会を開き弁舌を磨きました。

大変な変わり様です。まだ医者になってもいないのに、凄いです。

 

医学を学ぼうとしない医者に憤った編

そして、これからの医者のあるべき姿を説くようになります。それが、この言葉。

「研究だけをやっていたのではダメだ。それをどうやって世の中に役立てるかを考えよ」

1878年4月には「医道論」を書きました。その一部を引用します。

「昔の人は医は仁術とか大医は国を治めるとかいいことをいう。医の真の目的は大衆に健康を保たせ国を豊かに発展させることにある。ところが医者という地位について勉強せず、自分の生計を目あてに病気を治すことで満足する者がいる。今から医学に入る者は大いに奮発勉励し、この悪弊を捨て医道の真意を理解しなければいけない。」

その当時の医療の実態に対する大きな不満は、医業を「手足をそなえた一人前の人間の為すべき業ではありません」と言っていた頃から違いはない様です。違っているのは、医学には病気を予防する力があると気づいたこと。だから、それを学ぼうとしない医者に対する憤りは倍増したようですね。

 

コッホと別れるときに誓った言葉編

北里は、1885年(明治18年)よりドイツベルリン大学へ留学。「近代細菌学の開祖」と言われるコッホに師事しました。それからというもの、北里は世界が驚嘆するような業績を次々と上げていきます。

北里は日本政府からの辞令で留学していましたので、期限切れで帰国を迫られましたが、コッホからも必要とされる存在になっており、二度の期限延長を行っています。コッホは、私費で北里を雇ってもいいとまで言ってくれましたが、北里は帰国を決心しました。6年間の留学を終えて、コッホと別れる時に北里が誓った言葉がこれです。

「細菌学者は、国民にとっての命の杖とならねばならない」

これは、かつてコッホが細菌学を学ぶ意義について「命の杖」と例えたことを受けたものでした。

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北里の正義感があふれる言葉編

北里の留学中、日本では脚気の原因は脚気菌であるという論文が発表されていました。発表したのは東大教授兼衛生局試験所所長の緒方正規。

緒方は北里とは同郷で、東京医学校の同期生でした。しかしながら、北里は教授の論文に口出しばかりしていたので、何度も留年。その間に緒方は順調にキャリアを積み、その職を得ていました。北里がベルリン大学へ留学できたのは緒方の計らいによるものでした。

ドイツ留学を終えて帰国した北里は脚気は菌によるものではないことを知っていたため、すぐに論文を書いて緒方の説を否定しました。それが次の言葉。

「脚気とは無関係である」

これが原因で、北里は医学界から「忘恩の輩」と呼ばれ、一時期活躍の場を失いました。しかし、脚気は当時心臓麻痺で亡くなる人もいるほどの恐ろしい病気。治療を間違えれば犠牲者が増えるだけです。緒方の説を否定すれば、自分が干されかねないことは北里も分かっていたはず。北里の正義感がうかがえる言葉です。

 

医療のあるべき姿を現した言葉編

「熱と誠があれば、何事でも達成する」

北里の不遇に対し、福澤諭吉が救いの手を差し伸べてくれました。福澤の援助で伝染病研究所を設立し所長に就任しました。

その後、私費で北里研究所を設立、福澤の恩に報いるために慶應義塾大学医学部を創設、そして日本医師会を創設等々、あるべき医療の姿を実現したと言って良いでしょう。

 

 

まとめ

「本読みの連中に加われましょうや」

北里は医者を「本読みの連中」と呼んで軽蔑し、絶対になりたくないと思っていた。

 

「医学また学ぶに値する」

古城医学所病院で、マンスフェルトから顕微鏡を覗くことを勧められた。そして、医学に対する考え方を一変。学ぶ重要性を力説するようになる。

 

「医者の使命は病気を予防することにある」

東京医学校に進学した北里は、自分の医者としての使命に気づく。社会活動のために弁舌を磨くべく、学生結社を組織し活動した。

 

「研究だけをやっていたのではダメだ。それをどうやって世の中に役立てるかを考えよ」

本読みだけの医学ではダメだという以前からの信念は変わっていない。北里はそれを「医道論」という本にまとめた。

 

「国民にとっての命の杖とならねばならない」

東京医学校を出た後、ドイツに留学した北里はコッホに師事した。そこで世界が驚嘆するような業績を上げる。6年間の留学の後、帰国する際に、引き留めるコッホと交わした約束がこの言葉。

 

「脚気とは無関係である」

帰国後、留学の口利きをしてくれた緒方が脚気菌説を主張していることを知り、批判。細菌と脚気は無関係であると主張した。このため北里は「忘恩の輩」と呼ばれ、医学界で干されることになった。

 

「熱と誠があれば、何事でも達成する」

窮地を救ってくれたのが福澤諭吉。それからは、伝染病研究所や北里研究所を設立、慶應義塾大学医学部や日本医師会を創設。かねてから抱いていた医療の姿を実現した。まさに、熱と誠があれば何事でも達成することを示した人生だった。

納得しなければ絶対に動かない。しかし、これと決めれば猪突猛進。どんな状況でも自分の信念は貫く。

理想的な生き方ではありますが、なかなか実践できないのが現実。そこを実践し続けたのが、北里柴三郎の凄いところですね。それが彼の成功の秘訣と言ったところでしょうか。

見習いたいけど、できるかな…。

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