「聖母マリアへのまことの信心」(聖グレニョン・ド・モンフォール著)

読者の皆様、この本は宝であります。
神秘的な働きによってマリア御自身が
あなたを選ばれ手の中に納められたのです。

「聖母マリアへのまことの信心」 第三巻

2022-12-02 14:52:20 | 日記
第四節 世の終りにおけるマリアの特殊な役わり 

 第①項 世の終りの予言的展望


47.こうした現象は、とりわけ世の終りごろに起こるであろう、と今さきわたしは書きました。ところが、世の終りごろを待つまでもなく、それはまもなくやってくるのです。なぜなら、神はマリアの協力をえて、世の終りにそなえて、偉大な聖人を大量に送り出さねばならないからです。これらの偉大な聖人は、聖性の高さにおいて、他の尋常な聖人よりも抜群でなければなりません。ちょうどレバノンの糸杉が、他の杉よりも飛び抜けて巨大なように。このことは、ある無名の聖者に、神から啓示されました。そしてレンチ氏が、この聖者の伝記を公開しています。


    レバノン杉



48.これらの偉大な聖人は、恩寵と熱心に満ちあふれ、神の敵と戦うために、神から特に選抜された勇士です。この勇士らに向かって、神の敵どもは四方八方から襲いかかるのです。世界終末の夕べにおこなわれる、神と悪魔との決戦に登場するこれらの勇士はマリアに対して、特別の信心をもっているのです。マリアの光で照明され、マリアの乳房で養われ、マリアの精神でみちびかれ、マリアの両腕で支えられ、マリアの保護で守られているのです。こうした中で、一方の手では敵と戦い、他方の手ではどしどし建設していくのです(エズラ4・17参照)。
片方の手では、異端者とその異端、離教者とその離教、偶像崇拝者とその偶像、悪人たちとその罪悪に対して戦い、これをたおし、これを粉砕するのです。もう一方の手では、聖なる教父たちがそう呼んでいるように、“マリア”という名の「ソロモンの神殿」「神の都」を建設していくのです。
世界終末の神の勇士たちは、自分らの雄弁と行動によって、全世界の人を、マリアへのまことの信心に投入するでしょう。こうした運動は、多くの敵をつくりだすでしょう。だが同時に、それにまさる多くの勝利と、神の栄光を獲得するでしょう。このことを、神ごじしんが、当代の大使徒・聖ビンセンシオ・フェリエに啓示されました。そうしてこの聖人は、ご自分の本のどこかに、この啓示をくわしく書いています。
世界終末の夕べに起るこうした現象を、聖霊はすでに詩篇59編のなかで、予告しているように思われます。次のように言っておられるのです。

「神はヤコブを支配する方
地の果てまでも支配する方であることを。
夕べになると彼らは戻って来て
犬のようにほえ、町を巡ります。
彼らは餌食を求めてさまよい
食べ飽きるまでは眠ろうとしません。」
(詩篇59・14-16)
世界終末の夕べ、全世界の人が、父なる神のふところに帰っていくため、また神の義への飢えかわきをいやすため、犬のようにほえ、食をもとめて、うろつきまわる“町”とはマリアという名の町です。マリアは聖霊から“神の町”“神の都”(詩篇87・3)と呼ばれているからです。



49.世の救いは、マリアをとおして開始されました。だから、おなじくマリアをとおして完成されるべきです。マリアは、イエズス・キリストが初めてこの世においでになったときには、ほとんど目立たない存在でした。当時の人々は神の御子について、まだ十分な知識もなく、ハッキリした認識も持ち合わせていなかったので、もしもマリアがさいさいお姿をあらわしたら、そのすばらしい魅力のために、人びとは先をあらそってマリアに、あまりに強く、あまりに人間的に愛着したにちがいありません。そのために、真理から遠ざかる危険があったのです。それほど神は、マリアの外貌までも神々しく装ってくださったのです。こうした推測はけっして、でたらめではありません。アレオパーグの聖デニスも、ちゃんと書き残しているとおりです。ある日、かれはマリアを見たのですが、もしかれがシッカリした信仰をもっていなかったら、またこの信仰が、そうじゃない、と教えてくれなかったら、かれはてっきり、マリアを“神”だと感ちがいしたにちがいない、と書いているのです。それはさておき、世の終わりにイエズス・キリストがおいでになる直前、つまりキリストの再臨の直前、マリアは聖霊をとおして、人びとに知られ、人前に姿を現さねばなりません。それはマリアをとおして、イエズス・キリストが、あまねく世の人に知られ、愛され、奉仕されるためなのです。聖霊が、ご自分の妻マリアを一生、ひたかくしにかくし、キリストが公生活にはいって福音をのべ伝えてからも、マリアをホンのわずかしか人間に出さなかった理由が、もうとっくに、なくなったからです。



50.そんなわけで、神はご自分のみ手の傑作であるマリアを、世の終り頃、人びとに見せよう、マリアの美と使命を全世界の前に展開しよう、とお望みになるのです。その理由は次のとおりです。
①マリアは、一生のあいだ、まったく人目にかくれておいでになり、その深い謙遜によって、ご自分をチリあくたよりも、もっともっとひくくされたからです。ご自分のことを絶対に人前に表わさないようにと、神にも、使徒にも、福音記者にも、お願いしてそれが聞きとどけられたのです。
②マリアは、地上においては恩寵によって、天下においては栄光によって、神のみ手に成る傑作です。だから、神もこの傑作をとおして、地上においても、生きている人から、栄光を着せられ、賛美されたいのです。
③マリアは、イエズス・キリストという“正義の太陽”のさきがけをし、またそのありかを示す“あけぼの”なのですから、イエズス・キリストが、あまねく世の人に知られ、神として、救い主として、認められるために、まずご自分が知られ、認められなければなりません。
④イエズス・キリストが初めてこの世においでになったとき、お通りになったのは、マリアという名の“道”です。だから、これからおいでになるときお通りになる道も、たとえご通過の様式はことなってはいても、おなじくマリアという名の道なのです。
⑤マリアは、わたしたちがイエズス・キリストにいたるための、またイエズス・キリストを見いだすための確実な手段、まちがいのない真っ直ぐな道ですから、高次元の聖性に召された人はみな、マリアという道をとおってこそ、イエズス・キリストを見いださねばならないのです。

マリアを見いだす人は、生命を見出す(格言8・35)。すなわち、「わたしは道であり、真理であり、生命です」(ヨハネ14・6)と言われたイエズス・キリストを見出すのです。しかし、マリアを探し求めなければ、マリアを見出すことは出来ません。マリアのことをよく知らなければ、マリアを探し求める気にはなりません。人はだれでも、自分が知っていないものを、望むこともできねば、さがし求めることもできないからです。
だからこそ、どの時代よりも特に、世の終りの直前、マリアは世の人に、もっとよく知られねばならぬというのです。それは、いとも聖なる三位一体が、最高に知られ、最高に栄光を着せられるためなのです。
⑥世の終りが近づくにつれて、マリアはふだんよりも特に、慈悲と、力と、恩寵の威力を発揮しなければなりません。

“慈悲”の偉力を。そうです。あわれな罪びとを、教会に連れもどし、愛情こめて受け入れるために。道をふみはずした者を回心させ、母なる教会のふところに安住させるために“力”を発揮せねばなりません。そうです。神の敵どもに対して、偶像崇拝者、離教者、異端者、無神論者、がんこな罪びと、反社会活動家、破壊分子に対して。かれらは、自分らに反対する全ての善良な神の民を、甘言と脅迫で誘惑し、ダラクさせるため、大車輪の活動をするでしょう。
さいごに“恩寵”の偉力を発揮せねばなりません。そうです。イエズス・キリストの勇敢な将兵、忠実なしもべたちを力づけ、かれらの勇気をささえるために。かれらはキリストのために、身命をなげうって戦うでしょう。

⑦とにかく、マリアは、悪魔とその手先どもにとっては、ちょうど「戦闘体制」をととのえた精強な軍隊のように」(雅歌6・3)、戦りつすべき存在です。とりわけ、世も終りごろになると、そうなのです。なぜなら、悪魔は、霊魂をダラクさせるため、時間がもう残り少なになっている、時間が日に日に、減っていくことを、ちゃんと知っているのです。だから、マリアの軍隊との戦いも、日に日に、激しさを加えていくのです。
悪魔はやがて、マリアの忠実なしもべ、マリアの子どもらに対して、残忍無情な迫害をおこし、恐ろしい謀計をめぐらすでしょう。マリアのしもべ、マリアの子どもこそ、ほかのだれよりも、悪魔にとっては強敵だからです。



第②項 マリア勢と悪魔勢との決戦
51.反キリストの世界制覇が確立するまで、日に日に増強してゆく悪魔の残酷な、最後の迫害のことを考えるとき、いまさらのようにわたしたちは、神がそのむかし、地上楽園でヘビに投げつけられた、あの最後の有名な予言と、のろいのことばを想起しないではいられません。それをここで、ゼヒ説明する必要があると思います。それは、マリアの栄光のため、マリアの子どもらの救霊のため、また悪魔に赤恥をかかせるためにも必要なのです。
「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」
(創世記3・15)


    天にそびえる聖母像


52.神が被造世界に造りだし、組織化した敵対心、しかも永久に和解できない敵対心は、あとにもさきにもタッタ一つしかありません。それは、神ごじしんが、その母マリアと悪魔との間に、またマリアの子マリアのしもべと、悪魔の子悪魔の徒党との間に、置かれた敵対心・怨恨なのです。この敵対心、この怨恨のはげしさといったら、あらゆる形容を絶します。
そんなわけで、悪魔にとって、いちばん恐ろしい敵は、神の母マリアです。神がそうしてくださったのです。マリアがまだ、神のお考えの中でしか存在していなかった失楽園当時からすでに、神はマリアのうちに、ご自分の仇敵なる悪魔に対する燃えるような嫌悪心を、たきつけられたのです。神はマリアに、人祖をだましたこのヘビの奸計を見抜く、鋭い眼光をお与えになったのです。神に向かって弓をひく、この思いあがった悪魔を打ち負かし、その頭をふみ砕く絶大な力をお与えになったのです。だから、悪魔は、すべての天使、すべての人間の全集団よりも、いや、ある意味では神じしんよりもひとりのマリアを恐れているのです。

だからといって、悪魔に対する神の怒り、憎しみ、力、がマリアのそれにくらべて劣っている、というわけではありません。マリアは神の被造物ですから、その完全さにもおのずから限界があります。では、なぜ、悪魔はそれほどマリアをこわがるのでしょうか。
それは、第一、悪魔は高慢なのですから、神ごじしんと戦って負けたときよりも、このちっぽけな、このいやしい、神のはしために負かされて、罰を受けるときのほうが、もっともっと、くやしいからです。神の全能に負けるよりも、マリアのいやしさに負けるほうが、悪魔にとっては、もっと、はずかしいからです。
次に、神はマリアに、悪魔の勢力を破砕するたいへんな力をお与えになったからです。悪魔ツキの口をとおして、しばしばやむをえず白状させられたように、悪魔はすべての聖人のすべての祈りを、いっしょにしたよりも、マリアがある霊魂のために神にささげるタッタ一回の溜息のほうが、いっそうこわいのです。また悪魔は、マリアが自分らに向かってなさるタッタ一回のおどかしのほうが、ほかのすべての苦しみよりも、いっそう身にこたえるのです。



53.悪魔が高慢によって失ったものを、マリアは、謙遜によって取得しました。エバが、神への不従順によって亡ぼし、失ったものを、マリアは、神への従順によって救いだしました。エバは、ヘビに従うことによって、自分の子どもである全人類を、自分といっしょに無理心中させ、悪魔の手に渡しました。マリアは、あくまでも神に忠誠を尽くすことによって、ご自分といっしょに、すべての子ども、すべてのしもべを救い、神にささげられました。 



54.神が、ただマリアと悪魔との間にだけでなく、マリア族と悪魔族との間にも置かれた“敵愾心”はタッタ一つだけではありません。多種多様な敵対心です。別の言葉で申せば、神はマリアの子どもとしもべ、悪魔の子どもとドレイ―この両者の間に、永遠に和解できないかずかずの敵対心、反感、憎悪の執念を置かれたのです。この両陣営は絶対に愛し合うことができません。両者の間には、絶対に心からの話し合いがありません。ベリアルの子ども、悪魔のドレイ、この世の友―この三者は名前こそちがっても、みんな同じものですが―この人たちは、今日までそうでしたが、今後もますます激しく、マリアの陣営にぞくする人々を迫害するでしょう。ちょうどそのむかし、カインが弟のアベルを、エザウが弟のヤコブを、それぞれ迫害したように。カインとエザウは、亡びる人の前じるし。アベルとヤコブは、救われる人の前じるしです。
だが、この激しい迫害にもかかわらず、謙遜なマリアは、高慢な悪魔に対して、いつも勝利を得るでしょう。それも、高慢の温床である悪魔の頭部を粉砕するほどの大きな勝利です。マリアはいつも、悪魔のたくみな謀略を見抜くでしょう。
悪魔のすすめを払いのけ、ご自分の忠実なしもべたちを、世の終りまで、悪魔の残酷な襲撃から無キズに保護してくださるでしょう。


 悪魔の蛇を踏みつける聖母





第③項 世界終末の勇士たち

しかし、マリアが悪魔に対してもっている絶大なちからは、とりわけ世の終りごろ、その偉力を最高に発揮するでしょう。世も終りに近づくと、悪魔はますますいきり立ってマリアの“かかと”に襲いかかるのです。マリアのかかとは、マリアが悪魔との決戦に召集した、名もなく卑しいマリアのしもべ、貧しく謙遜なマリアの子たちです。なるほど、かれらは、世間の目からみれば、小さな者、貧弱な者であるでしょう。すべての人から、足のかかとのように、さげすまれてはいるでしょう。かかとが、からだの他の部分から踏みつけられ、痛めつけられているように、この人たちも、世の人びとから踏みつけられ、痛めつけられてはいるでしょう。
だが、神のみまえでは、まったくちがいます。世の人びとからの評価と処遇とは正反対に、この人たちは、神の恩寵に富んでいるでしょう。マリアが、それらに、豊かに、分配してくださるからです。かれらは、神のみまえにおいては聖徳の巨人、熱烈な愛においては衆を抜いているでしょう。神の助けに強く支えられたかれは、自分の“かかと”の謙遜を武器として、マリアと一つとなって悪魔の頭部を粉砕し、めでたくイエズス・キリストに勝利のがい歌をあげさせるでしょう。



55.さいごに、神はその母マリアが、こんにち、いつもよりもっと人に知られ、愛され尊敬されることをお望みになります。神のこのお望みは、わたしがこれから述べようとするマリアへの信心を、救われる人びとが聖霊の恵みと光のもとに、真心こめて、完全に実行しさえすれば、まちがいなく達成されるでしょう。そうした中で、かれらは信仰の度合いに応じて、マリアという“海の星”を、ハッキリ認めることができるでしょう。そしてこの星にみちびかれて、途中で暴風雨や海賊になやまされても、めでたく目的の港にたどり着くことができるでしょう。
かれは今更のように、この女王の偉大さが分かるでしょう。そして自分をケライとして、愛のしもべとして、マリアへの奉仕に、まったくささげ尽くすでしょう。

そのときかれは、マリアの母性愛の甘美といつくしみを、ひしひしと実感するでしょう。反射的に、マリアを、ありったけの孝情を披瀝して、愛しかえすでしょう。マリアのうちに、自分らに対する慈悲が、どれほど満ちあふれているか、マリアに助けてもらわねばならない自分の窮乏が、どれほどひどいものか、を理解することが出来るでしょう。
そこでかれは、万事において、マリアのもとに馳せてゆき、マリアを、イエズス・キリストのみまえにおける、自分の弁護者・仲介者と仰ぐでしょう。
こうした中でマリアこそ、イエズス・キリストにいたるいちばん確実な、いちばん容易な、いちばん短い、いちばん完全な道だということが分かるでしょう。そして完全にイエズス・キリストのものになりきるために、自分のからだも、たましいも、残りくまなくマリアにささげ尽くすでしょう。



56.ところで、右に述べたマリアのケライ、マリアのしもべ、マリアの子とは、いったいどんな人のことでしょうか。
それは、燃えさかる炎、主の召使い(詩篇104・4)のことです。神愛の炎を、地上いたる処に点じてあるく人のことです。それは「勇士の手にある矢」(詩篇127・4) ご自分の敵をうちたおすため、マリアが手にしておられる鋭い矢のことです。
それは、大いなる苦悩の火で清められて、神と密着したキリスト者のことです。心に愛の黄金を、精神に祈りの乳香を、からだに苦業の没薬を帯びていることです。貧しい人、小さな人たちにとってはキリスト者の「かぐわしいイエズス・キリストのかおり」(コリント2・2・15~16) しかし、この世のエライ人、富んだ人、高慢な人たちにとっては、“死のかおり”―そうしたキリスト者のことです。



57.かれらは、聖霊のかすかないぶきにも、すぐに霊界に舞い上がり、全世界をかけめぐる雲(イザヤ60・8)、カミナリを伴う雲のような者でしょう。
地上のいかなるものにも愛着せず、いかなるものにも驚かず、いかなるものにも気をとめず、ただただ、神のことばと永遠の雨を、洪水のように地上に降らせるでしょう。
罪を弾劾して、雷鳴のようにとどろきわたり、世間をしかって、これに大目玉をくわせるでしょう。悪魔とその徒党に痛撃を加え、「神の言葉」という名の「両刃の剣」(ヘブル4・12)をふるって、神が指名するすべての人を刺し貫くでしょう。こうした中で、ある者は死にいたり、ある者は回心して生命にいたるのです。



58.かれらこそ、世界終末の宇宙ドラマに登場するまことの勇士、まことの使徒なのです。万軍の神なる主はかれらに、力あることばをお与えになります。奇跡をおこない偉大なわざをなし、悪魔に勝利をえ、栄光ある戦利品をたずさえて、かれらをガイセンさせるためです。
世界終末の勇士たちは、身に一センのたくわえもなく、赤貧洗うがごとくでしょう。それでもヘイキで、ほかの富裕な司祭・聖職者・教会役務者と肩をならべて、堂々と暮らすでしょう。しかし貧乏ではあっても、銀でおおわれた“ハトの翼“(詩篇68・14)を持っているのです。この翼をつけ、神の栄光と霊魂の救い、というハトのように清らかな純な意向をもって、聖霊がお呼びになる場にはどこへでも飛んでいくのです。そしてかれらは自分が説教した場には、ただ「律法の完備」(ローマ13・19)である愛の黄金しか残しません。



59.この勇士たちこそ、イエズス・キリストの本当の弟子です。かれらは、キリストの清貧・謙遜・世俗蔑視・神愛と兄弟愛を実行しながら、師の足あとを忠実にたどります。この世の知恵に従ってではなく、キリストの福音に従って、天国への狭き道を、キリストが説かれたとおり、人びとに教えます。たれもはばからず、だれの顔色もうかがわず(マタイ22・16)だれも容赦せず、地上のいかなる権勢家のいかなるおどしも耳に入れず、また恐れないで。

かれらは口に、神のことばという「両刃の剣」(ヘブル4・12)をもっています。肩に血染めの十字架の旗をかついでいます。右手には十字架像、左手にはロザリオ、心にはイエズスとマリアのみ名、かれらの起居動作には、イエズス・キリストの謙遜と苦業を帯びています。
これこそ、世界終末のヒノキ舞台に登場する神の国の偉人たち―神の命令によって、マリアが造りだす偉大な人物群なのです。神は、悪魔とその徒党に対して、ご自分の支配権を発展伸張させるため、これらの偉大な人物群の育成を、マリアに下命されるのです。だが、いつ、どのように、実現するか これはただ、神だけが知っておられる秘密なのです。わたしたちとしては、ただ黙って、祈って、あえいで、待つのみです。そうです。ただ「切なる思いで、待ち望みましょう。」(詩篇40・1)



第Ⅱ章 聖母へのまことの信心の鑑定法

第一節 基本的真理

60.これまでわたしは、聖母への信心が、わたしたちにとって、なぜ必要か、について述べてきました。これからはいよいよ、この信心が何に基づいているか、について話さねばなりません。しかし、わたしはその前に、この偉大で堅実な信心の発生源とも見られる、いくつかの基本的真理について考えてみたいと思うのです。



第①項 第一の真理 ― イエズス・キリストこそ、あらゆる信心の最終目的

61.わたしたちの救い主、まことの神、まことの人であるイエズス・キリストこそ、わたしたちのあらゆる信心の最終目的でなければなりません。イエズス・キリストは、すべてのもののアルファであって同時にオメガ、初めであって同時に終りでもあるからです(黙示録1・8)。使徒パウロが言っているように、すべての人をイエズス・キリストにおいて完全な者となすためにこそ、わたしたちは働いているのです。ただイエズス・キリストのうちにだけ、神性のあらゆる充満が、恩寵と善徳と完徳とのあらゆる充満が宿っているからです。ただキリストにおいてのみ、わたしたちは神なる御父から、すべての霊的祝福をもって祝福していただいたからです。

キリストだけが、わたしたちを教えてくださらねばならない唯一の教師です。キリストだけが、わたしたちが仕えねばならぬ唯一のかしらです。キリストだけが、わたしたちが模倣せねばならぬ唯一の典型です。キリストだけが、わたしたちをなおさねばならぬ唯一の医師です。キリストだけが、わたしたちを養わねばならぬ唯一の牧者です。キリストだけが、わたしたちをみちびかねばならぬ唯一の道案内人です。キリストだけが、わたしたちが信じねばならぬ唯一の真理です。キリストだけが、わたしたちを生かさねばならぬ唯一の生命です。キリストだけが、わたしたちのあらゆる必要を完全に満たしてくださる唯一のかたなのです。

このかた以外には、だれによっても救いはありません。世界中でイエズスの御名のほかには、わたしたちが救われるべき名としては、どのような名も、人間にあたえられていないからです。
神は、わたしたちの救い、完徳、栄光の土台として、イエズス・キリスト以外のいかなる土台も、おすえになりませんでした。この堅固な岩の上に、土台をすえていない建物はすべて、砂の上に建てられたものであって、おそかれ早かれ、確実に崩壊するのです。
キリスト信者はだれでも、ちょうどぶどうの枝が、ぶどうの木についているように、そのように密接にキリストにとどまっていなければ、木から落ちた枝のように枯れてしまい、ひろわれて火に投げ込まれるのがオチです。もしわたしたちがイエズス・キリストにとどまり、イエズス・キリストも、わたしたちの中にとどまっているなら、亡びる心配は絶対にありません。天上の天使たちも、地上の人びとも、地獄の悪魔も、そのほかどんな被造物も、わたしたちに害を加えることはできません。わたしたちの主キリスト・イエズスにある神の愛から、わたしたちを引き離すことができないからです。

キリストによって、キリストとともに、キリストにあって、わたしたちに不可能なことは一つもありません。また、キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに聖霊の交わりの中で、すべてのほまれと栄光は御父にきし、さらにまた、わたしたちは自己を完成し、永遠の生命から発散する“良いかおり”を周囲の人に与えることができるのです。



62.そんなわけで、イエズス・キリストへの信心をもっと完全なもの、もっとしっかりしたものにするためにこそ、マリアへの信心を、堅固な土台の上にすえようとしているのです。それがイエズス・キリストを見いだすための容易な、確実な手段を提供するからこそ、マリアへの信心を究明しようとしているのです。もしもマリアへの信心が、人を、イエズス・キリストから遠ざけるなら、そんな信心は、悪魔からくる妄想として排せきせねばなりません。しかし、わたしがこれまで述べてきたとおり、またこれからものべるように、絶対にそんなことはありっこないのです。
イエズス・キリストを完全に見いだし、優しい心で愛し、忠実に仕えるためには、どうしてもわたしたちにとって、マリアへの信心が、必要となってくるのです。



63.こうした中で、主よ、わたしたちはあなたのほうに向きなおって、愛情こめて嘆き訴えさせていただきたいのです。キリスト信者の大部分が、しかも、もの分かりのいい人たちでさえ、あなたと御母マリアとの間には、お互いを結び合わすキズナが必然に存在していることを、すこしも理解していません。主よ、あなたはいつも、マリアとともにおられ、マリアはいつも、あなたとともにおられ、あなたから離れることはできません。もしマリアがあなたから離れると、マリアはもうマリアではありえなくなるのでしょう。
恩寵によって、マリアはスッカリあなたに変容し尽くされていますので、生きているのはもはやマリアではなく、存在しているのはもはやマリアではない、と言えるほどなのです。イエズスよ、あなたこそ、ただあなただけが、マリアのうちに生き、支配しておいでになるのです―天の全ての天使、すべての聖人のうちにおけるよりも、もっと完全な仕方で。

ああ、あなたがマリアのうちにあって、受けておいでになる栄光と愛を、すこしでも理解することができましたら、その人はきっとあなたについて、またマリアについて、これまでとちがった考えを持つようになるでしょうに。太陽から光を引き離すほうが、火から熱を引き離すほうが、むしろ容易だと思われるぐらい、それほど緊密にマリアは、あなたと一つになりきっておられます。いいえ、それどころではありません。天国のすべての天使、すべての聖人をあなたから引き離すほうが、あなたからマリアを引き離すよりも、むしろ容易なのでございましょう。マリアは、ほかの全被造物よりも、もっと熱烈にあなたを愛し、もっと完全にあなたに栄光を着せておいでになるからです。



64.いとも愛すべき主よ。こうした現実にもかかわらず、地上のすべての人が、あなたの聖なる母マリアのことに関して、あまりに無知である、あまりに忘却のやみに沈んでいる、ということは、なんとも驚くべきこと、なんとも痛ましいことではないでしょうか。わたしは、異教徒のことや、偶像をおがんでいる人たちのことを言っているのではございません。この人たちは、もともと、あなたをごぞんじないのですから、マリアのことを知ろうとしないのは当然です。わたしはまた、異端者や離教者のことを言っているのでもございません。この人たちは、あなたからも教会からも、離れているのですから、マリアさまに信心をしないのも当然でございましょう。

わたしがここで言っていますのは、カトリック信者、しかもカトリック信者の中でも、インテリ階級にぞくする学者先生のことです。この先生がたは、ひとに真理を教えることを、一生の職業としていながら、あなたのことも知らねば、あなたの聖なる母マリアのことも知っていないのです。たまに知っていても、それはあくまで、純理論的で無味乾燥な、不毛でうるおいのない認識でしかありません。

この先生がたは、マリアさまについて、マリアさまへの信心について、ごくごくまれにしか話しません。マリアをあんまり尊敬すると、それは信心の乱用である、あなたへの侮辱である、と言っているのです。たまたま、マリアさまを熱烈に崇敬している者が、マリアさまへの信心について、この信心はイエズス・キリストを完全に見いだし、愛するための、まちがいのない確実な手段である、危険のない最短の導かれである。欠陥のない清らかな方法である、本人しか知らない秘けつである、と心をこめて、力づよく、納得のいくまで、しばしば話しているのを、この先生がたが見たり聞いたりしてごらんなさい。さっそくかれは、このマリア信心家に向かって、くってかかり、こう言うのです―そんなことはない、マリアをそんなにほめそやしてはいかん、マリアへの信心には、本質的に大きな欠陥がある、この欠陥を取り除くために大いに努力せにゃいかん、信者大衆を、マリアへの信心に投入するために説教するよりも、むしろイエズス・キリストについてこそ説教すべきだ、と。そして自らの説を証明するために、あらゆるウソの理論を展開しているのでございます。

イエズスよ。ときたまかれらは、あなたのお母さまへの信心について話しているようですが、それはマリアへの信心を強め、深め、納得させるためではなく、かえってそれを、ぶッこわすためなのです。この先生がたは、マリアへの信心をもっていないのですから、とうぜんあなたに対しても、本当の、心からの信心をもっていません。
かれらは、ロザリオ、聖母の肩衣などの信心用具を、それは女・子供の信心だ、無学信徒専用の特許品だ、そんなものがなくても、天国へはちゃんと行ける、などとクサしています。ロザリオをとなえたり、または何か聖母に対して信心の務めを果している者が、不幸にもかれらの手に落ちますと、かれらはすぐに、この聖母信心家の洗脳にとりかかります。ロザリオのかわりに、痛悔の七つの詩篇をとなえたらどうか、とすすめるのでございます。

マリアへの信心をやめて、かわりにイエズス・キリストへの信心を増強するように、とすすめるのでございます。愛すべきイエズスよ。この人たちは果たして、あなたの精神をもっているのでしょうか。このように行動することが、本当にあなたを喜ばせることなのでしょうか。あなたのごきげんをそこなうのではなかろうかと恐れて、あなたのお母さまを喜ばせるために、ありったけの努力を投入しないことが、果たしてあなたを喜ばせることなのでしょうか。

あなたのお母さまへの信心が、あなた自身への信心にとって、ほんとうにさまたげとなっているのでございましょうか。あなたのお母さまは、ご自分にささげられる栄光と賛美を、ひとり占めにしていらっしゃるのでしょうか。あなたのお母さまは、天上天下、まったくひとりぼっちなのでしょうか。あなたにとっては縁もゆかりもない、赤の他人なのでしょうか。あなたのお母さまを喜ばそうと努力することは、それだけあなたを不愉快にすることなのでしょうか。あなたのお母さまへの奉仕に献身し、あなたのお母さまを心から愛することが、そのまま、あなたへの愛から自分を引き離し、遠ざけることにつながるのでしょうか。



65.それなのに、愛すべき主よ。学者先生の多くが、その高慢の罰として、わたしが今さき書いたことがみんな事実でもあるかのように、マリアさまへの信心からまったく遠ざかり、まったく無関心をきめこんでいるのでございます。どうか、主よ、マリアさまに対するこの人たちの悪感情と冷淡な態度から、わたしをまもってください。かわりに、あなたがお母さまマリアに対していだいておられる感謝、尊敬、愛のお気持ちを、わたしにも分け与えてください。わたしがもっと近くからあなたを模倣し、あなたにつき従うようになれば、それだけいっそうあなたを愛し、あなたの栄光をあらわすことができるからです。



66.これまでいろいろ書いてまいりましたが、あなたの聖なるお母さまのほまれのためには、まだひとことも言っていないような気がいたしますので、どうか主よ、マリアさまをふさわしくたたえるお恵みを、わたしに与えてください。マリアさまへの賛美を妨害する敵それは同時にあなたの敵が、どんなに多くてもかまいません。わたしは、敵の頭上に、聖人たちとともに、大声を張り上げて次の聖句を投げつけてやりたいのです。「神の御母を侮辱する者が、どうして神のあわれみを期待できますか」(パリのギョーム)


67.主よ、あなたのあわれみによって聖母マリアへのまことの信心の恵みをいただくことができるため、またこの信心を全世界に広めることができるため、どうかわたしに、あなたを熱烈に愛させてください、そしてこの目的を達するため、わたしが聖アウグスチノ、およびあなたのまことの友らとともにささげる熱い祈りを、お受けください。「ああ、キリスト。あなたは、わたしの聖なる父、慈悲にあふれるわたしの神、かぎりなく偉大なわたしの王。あなたは、わたしのよき牧者、わたしの唯一の主、親切な援助者、永遠の美にかがやく最愛の友、生命の糧、永遠の司祭。

 あなたは、わたしにとって、天国への道案内者、まことの光、心の甘美、まっすぐな道。  
 あなたは、わたしにとって、光りかがやく知恵、ふたごころのない正義、平安といこい。
 あなたは、まったく頼りになるわたしの保護者、この上もなく貴重な相続財産、永遠の救い。
 ああ、イエズス・キリスト、愛すべき主よ。なぜ、わたしは今まで、あなた以外のものを愛してきたので しょう。なぜわたしはあなたのことを念頭に置いていなかったとき、わたしはいったいどこにいたので  しょう。

ああ、しかし、今からでもおそくはありません。わたしの心は、主イエズスよ、あなた以外に何も望まず、あなた以外の何ものにも意欲をもやしません。あなただけを愛するために、心がますます大きくなっていきますように。
わたしの心の願望よ、イエズスへの愛に駈られて走れ。神愛のバスに乗りおくれてはならぬ。おまえが追求している目的、おまえが目ざしている終着駅に向かって急げ、さあ急げ。おまえがさがし求めているイエズスを、一心不乱にさがし求めなさい。

ああ、イエズスよ。あなたを愛さない者にわざわいあれ。あなたを愛さない者には生の苦渋あれ。イエズスよ。あなたの栄光の発揚に献身しているすべての人にとって、あなた自身が、かれらの心をもやす愛、かれらの心をとかす歓び、かれらの心を忘我の境にさそう賛嘆のマトとなってください。
ああ、イエズス、わが心の神、わが永遠の分け前よ。どうか、わたしの心が聖なる歓喜のうちにとけてなくなり、かわりにあなた自身が、わたしのうちに生きてくださいますように。どうか、わたしのたましいが、あなたの愛にもえさかり、やがてそれが全世界を、神愛の火事で類焼させる火元となりますように。
どうか、あなたの愛が、わたしの心の祭壇で絶まなく燃えさかり、さらにわたしのたましいの最深奥にもえうつり、わたしの全存在を焼き尽くしますように。
こうした中で臨終のときがまいりましたら、わたしもあなたの愛にスッカリ変容し尽くされた姿で、みまえに現れることができますように。アーメン」(Operum meditat.Vol. IX)


  イエズスの聖心

(第四巻につづく)

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