「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」、これは本来、仏教の言葉らしいのですが、現在では京セラの創業者、稲盛和夫さんが講演などでよく使われ有名になった言葉です。これにはいろんな解釈がありますが、この言葉の本当の意味を考えてみます。

 

このブログに「嘘をつくことや人を殺すことは悪であり、これを悪でないと言うことは誤りである」と言うコメントがたまにあります。

何故なら私は「嘘をつくことや人殺しなどを悪と決め付けてはならない」と主張しているからです。悪の定義とは「みんなの為にならないこと、反すること」だけであり、それが唯一無二の絶対悪だからです。皆さんが通常、悪と考えているものを悪と決め付けてしまえば、やがてそれを絶対悪と考えるようになるのです。しかし悪とは「みんなの為にならないこと」これだけなのです。

 

嘘をつくことや人殺しは悪であると考えるのは常識的な事ではありますが、これは本当の悪の定義ではないのです。言うならばこれは子共の悪の定義なのです。偉大な哲学者であるカントは「自分の友人を殺しに来た殺人鬼に対しても嘘を言ってはならない」と言っています。カントも善悪とは何か?をとことん探究したのですが、残念なことにこのような間違った考えに陥ってしまったのです。カントは偉大な哲学者ではありますが、それゆえにその考えが間違っていれば、それなりに大きな弊害をもたらすことになるのです。

 

善の本当の定義とは「みんなの為になること」であり、悪の本当の定義とは「みんなの為にならないこと、反すること」なのです。これこそが本当の、唯一無二の善悪の定義なのです。他にはないのです。ですから他のことを絶対善、絶対悪と言ってはならないのです。絶対善である「みんなの為」になる、適う、合致することこそが常に善い、正しい答えなのです。絶対善とは「みんなの為」これだけなのです。

 

「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」。小善とは間違いもある善を言います。また大善とは本当の善を言います。間違いもある善(小善)を信じていれば取り返しのつかない大悪になることがあるのです。そして本当の善(大善)は時に非情な感じがするのです。例えば、人殺しやレイプもまた正しい事もあるのだと言えば一般的にはなかなか納得できることではないでしょうが、それが「みんなの為」であればやはりそれは正しい事なのです。絶対善である「みんなの為」になる、合致することであれば、それはすべてが正しい事なのです。例外はありません。絶対なのです。「みんなの為」になることであれば最後には仲間の一部を切り捨てることも正しい事になるのです。大善は非情に似たりなのです。

 

このように私の主張する本当の善は非情なところが含まれていますので、なかなか皆さん絶対善を認めようとはしてくれないのです。しかし大人であれば責任感を持たなければならないのです。自分が全責任を持つ立場、リーダー、言うならば総理大臣になったつもりで物事の善悪を考え判断しなければならないのです。責任を持つ者は時には非情なこともやらなければならないのです。

 

私の言う絶対善は「私より公を優先すること」であり、これは私欲を抑えて公(相手やみんな)の為と考えることなのです。みんなに関する問題であれば各自一人一人が自分の私欲を少し抑えて「一番みんなの為になる答えとは何なのか?」と責任感を持って考えなければならないのです。

責任感のある大人であれば時に非情な決断をしなければならない時があるのです。責任感のない子供の善(小善)では大悪を招くことがあるのです。できれば皆さんもいつまでもカント流の子供の善悪を信じていないで、一刻も早く大人の善悪を理解されることを私は強く願っているのです。