「信じるとはいかなる意味なのだろうか?」とふと思い、いろいろ検索していましたら、映画『星の子』の完成イベントで芦田愛菜さんが「信じるとはなにか?」について語っていて、それがとても多くの人に感銘を与えていたのです。

 

その芦田愛菜さんの言葉とは・・・「その人のことを信じようと思います」っていう言葉って結構、使うと思うんですけど、それがどういう意味なんだろうって考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかなと感じて、だからこそ人は裏切られたとか、期待していたのにとか言うけれど、別にそれは、その人が裏切ったとかいうわけではなくて、その人の見えなかった部分が見えただけであって、その見えなかった部分が見えたときに「それもその人なんだ」と受け止められる揺るがない自分がいるというのが信じられることなのかなって思ったんですけど。でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は「信じる」って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました。

 

 

「信じている」と言う言葉でまず私たちが思い出すのやはり「走れメロス」でしょう。メロスの親友はメロスの代わりに人質となり、もしメロスがある期日までに帰ってこなければ身代わりとして処刑にされてしまうのです。メロスの親友はメロスを心から信じていたのです。ですから自分の命を懸けられたのです。

このように本当に信じると言う事は命さえ懸けられると言うことなのです。これが本当に「信じている」と言う事なのです。

 

私は以前に「信じることは命を懸けることである」と言う投稿をしています。本当に、心からそれを信じているならばそれに対して本来ならば命さえ懸けられるのだ、と言う事です。発言すると言う事は「自分の考えは正しい」と思うから発言するのです。「ではそれが正しいとどのくらい自信を持っていますか?」と問えば皆さんは困惑し答えることが出来ないのです。多くの皆さんは発言には責任が伴うと言う事をまだよく理解されていないのです。つまり多くの人は自分の発言に対して責任感をあまり感じていないと言う事なのです。ですから私は時に「これが正しいのだ」と断定する人に対して「命を懸けてもそう言えますか?」とコメントするのです。そう言う事をツイッターでやっていましたら誰かが通報したのでしょう、ツイッターのアカウントが凍結されてしまいました。

まあ、これは少し私の不注意でしたが例えばLGBT法案などを安易に正しいと法律にしてしまえばアメリカのように社会に大きな混乱が起きるかもしれないのです。殆どの野党はLGBT法案は絶対に正しいと考えており、これを通さないことは人権侵害であるとさえ主張しています。問題の多いLGBT法案を十分に議論することなく安易に通すことはあまりにも無責任なのです。その無責任な野党に対して私は「命を懸けてもそう言えるのか!」と強く責任を問いたいのです。現在の日本には発言や行いに対してあまりに無責任な大人たちが多すぎるのです。

 

 

また「信じる」と言う事で思い出されるのは親鸞が法然を「心から信じた」と言う事です。親鸞は歎異抄で「念仏は本当に浄土に生まれる因なのか、逆に地獄に堕ちる行いなのか、まったくわたしの知るところではありません。たとえ法然聖人にだまされて、念仏したために地獄へ堕ちたとしても、決して後悔はいたしません」と書いています。

この親鸞の言葉こそが芦田愛菜さんの言う「信じる」と言う事に近いでしょう。映画の「星の子」のラストでは主人公の少女はカルト教団を信じる両親の信じているものを「私も信じる」と言う決断をしています。今後いかなる苦難があろうと自分を愛し育ててくれた両親を信じてともに暮らしていくことを強い責任感、覚悟を持って選択したのです。

 

しかし絶対善、絶対に正しい事については国民みんなの安心・幸せに直結するものですから、例え強い責任感、覚悟を持ったとしても、いい加減なものを「無条件にただ信じる」とは言えないのです。必ず論理的でなければならないのです。一つでも矛盾があってはならないのです。

私は私の見つけた絶対善は絶対に正しいと信じています。ですからもし間違っていたら命を懸けてもいいと言えるのです。あらゆる社会的問題において正しい答えは常に絶対善である「みんなの為」になる答なのです、これに例外はありません。みんなに関する問題で「みんなの為にならない答え」が正しい答えであるはずは絶対にないのです。

 

「みんなの為になる事は正しい」みんなそう思うのです。このありふれた言葉の中にこそ真実が隠れているのです。絶対善とは「みんなの為」であり、その「みんなの為」になる、適う、合致する答こそが常に正しいと言えるのです。私たちはあらゆる社会的問題において常に絶対善である「みんなの為」になる答えを選択しなければならないのです。