…つまりは、白昼夢。


 …ハクチュウム


 …アクチニウム=ドビエルヌ

 


 ………

 

 


  ※※※A(信仰について①)※※※

 


 私はふと、亜世ちゃんと再会したあの日の夜の、ふたりベッドで交わした会話の一部を思い出すことがある。


 亜「加野谷くん、神様って本当にいるって思ってる?」
 私「そりゃあ、おられるさ」


 それで彼女は私に神様を信じる根拠を尋ね、私はその問いに上手く答える事が出来なかった。だから私はこの問いについて考えて続けている。


 何故あの時、私は神様がおられると答えたのか?


 その根拠として今言えるものがあるとすれば、それは…ちょっと堅苦しい言い方になってしまうけれど…「音楽(或いはその他の非日常的なもの)に触発された精神の高揚に伴って現れてくる「何か」が神様の存在を告げているから」…ということになるんじゃないだろうか。


 自分に関する限り、答えはそれ以外の「何か」ではありえない気がする。私には魂の奥底からやって来るものを理性で捉えるなんて作業は出来そうにない…いや実際、昔には、教会に属する者の常として、聖書の解説本を前に神様への思いを掘り下げようと努めてみた事もあるけれど、何だか義務教育の頃の勉強のようで、ちっとも信仰心が深まっていく気がしなかった。


 でも、だからと言って先の考えに確信があるわけではない。そのときの(音楽等によって高揚しているときの)私の心の状態が、まさに神様への思いそのものだなどと、自信を持ってはとても言えない…

 


 ※※※B(1974・思い出)※※※

 


 教会を去ると決心したその数ヶ月前の、婚約式から間もない祝日の午後(それはつまり俺が咲蓉に対し屈折した感情を抱き始める以前のことなのだが)、俺と咲蓉は牧師先生夫妻に誘われ隣町の公会堂で催されたキリスト教の集会に参加した。
 俺も咲蓉も教会関係でこれほど大きな催しに参加するは初めての事。会場内には大勢のクリスチャンたち…年輩者が多かったけど、見回せば、十代や二十代と思われる若い男女の姿もそこここにあった。
 適当な席を探す牧師先生夫妻の後について通路を進んでいる時、先生がいきなり立ち止まったと思ったら、近くにいた白髪の背の低い男性と話し始めた。相手は先生の知り合いの牧師らしく、先生は俺と咲蓉を呼び寄せ、牧師に言う。


 「…感謝な事にはね、この二人はつい先日、婚約したんですよ…ふたりとも子供の頃からずっとウチの教会でね…ええ、ええ、もちろん洗礼も私が授けました…」


 どうやら相手牧師の教会には毎週の礼拝に欠かさず出席するような若い人はいないようで、その為か先生は見るからに誇らしげ(というより自慢げ)な様子。


 ほおぅ、そりゃあ、安心だ!

 (…と、相手の牧師)
 ええ、そう、全く!実に、実に感謝な事です!

 (…と先生)


 と、ここで開会のアナウンスがあり、我々四人はあわてて手近な席に腰を下ろす。会は毎日曜の礼拝と同じような流れで進んでいった。


 オルガン前奏、オルガンの伴奏に合わせ皆で歌う賛美歌、お祈り、司会者の聖書朗読、再び賛美歌…


 意外にも、俺はこのとき「これは来て良かったんじゃないかな」と感じていた。賛美歌を歌いながらそう感じたんだ。来る前は全く気が進まなかった。ここに来ることで熱心な信徒である咲蓉との感覚のズレが露わになり、もし帰り道、この集会の感想を言い合うようなことにでもなれば(多分そうなるのだろうが)、再びふたりの心の距離が遠くなってしまうんじゃないかと危惧していた。だが、大勢のクリスチャンたちと声を合わせ賛美歌を歌っているうち、思いがけず俺は、自分の持っているささやかな信仰心が次第に引き上げられていくような、そんな気分を味わった。


 賛美歌を歌い終わると司会者がマイクの前に立つ。俺は、多分ここでゲストの伝道師による聖書のお話が始まるんだろうなと思ったが、そうではなかった。
 壇上に現れたのはギターを抱え、長髪にジーンズ姿という年齢不詳のひとりの男性。ステージ中央に立つや何の前触れもなくいきなりイントロダクションを弾き始める。彼の弾く生ギターは巧みで繊細、そして歌。聞こえてきたのは私の好きなあの賛美歌…例の「人生の終わりのような番号を持つ賛美歌」だった。これを彼は賛美歌集の楽譜にあるものとは少しコードを変えて、まるでフォークソングであるかのようにのびのびと歌った。

 歌い終わると彼は「もう一曲歌います」と言い、これから歌う曲はボブティランが作ったものだと紹介した。「When He Returns」…彼はこの曲を自ら訳した詞で歌うという。今度はギターを構えずにハンドマイクをスタンドから外す、と、不意に舞台左奥のグランドピアノが力強く鳴り始めた…


 集会が終わっての帰り道、俺は結局、会の内容について咲蓉と話す機会を得られなかった。先生の知り合いの牧師が車で来ていて、我々四人を順にそれぞれの家の前まで送ってくれることになったからだ。
 助手席には先生、後部座席は右端が奥さん、真ん中は咲蓉で左端に俺。白髪の牧師の運転は意外に乱暴で、車が揺れる度、咲蓉の柔らかな左腕が俺の右腕に強く押しつけられては、また離れる。前の席では牧師と先生が「教会運営についての余りにも人間的な会話」を延々と続けていて、後部座席の三人は黙ってそれを聞いていた。
 公会堂からは俺の家が一番近く、よって俺が最初に送り届けられ、車を降りてその日が終わった。
 もしも、先生が知り合いの牧師と出会わず、会が終わった後(それは夕方と呼ぶにはまだ早い時刻だった)現地解散ということになっていたなら、俺は咲蓉を夕食に誘うつもりでいた。だがそれも叶わなかった。だからこの日、俺の心の中で起こったことは誰に話されることもなく、行き場を失い俺の内部で静かに渦を巻いていた。

 


 …そう、俺は鮮明に思い描くことができる。あの日、公会堂のステージで鳴り響いた力強いピアノ。ピアノを弾いていたのは目立って体格のいい中年女性だったが、そんなことはどうでも良い。あれは本当に驚くべき魂の輝きに満ちたピアノ演奏だった。その音に込められた気持ちの何という強さ、何という思いの豊かさ!音を聞けば彼女が信仰者であることは明らかだ。あの演奏には神様への信頼、神様とともに在る事の歓びが溢れていた!
 ほぼワンコーラス分と思われる長いイントロダクションが終わると、先の歌手がマイクを構え歌い始める。歌声もピアノ同様、やはり確信に満ちていて力強い。歌詞は聖書の内容(ヨハネ黙示録?)から採られたものだ。俺は洋楽に詳しくなくて、ボブディランで知っている曲と言えば「風に吹かれて」くらいのもの。信仰心をこんなにストレートに歌った歌があったなんて事は全然知らなかった。


 (ああ、でも、詩じゃない、言葉じゃない、俺の心をこんなにも揺さぶっているのは…それは歌声とピアノ、今、会場を満たしているこの音の響きそのものだ!)


 張りのある歌声の合間を縫う様にピアノが浮上と沈降を繰り返す。時に繊細に語り、時には雷鳴のように轟く…初めて聴く曲にもかかわらず、俺は、まるで自分の魂や肉体が、ステージから放たれる楽音の波を受け共振しているかの様な感覚を持った。実際、俺の身体は小刻みに震えていた。聴きながら俺は、自分が洗礼を受けたキリスト者であることを心から誇らしく思った。何故だかその場で泣いてしまった。「どうしたの?」と隣に座っている咲蓉が俺の顔をのぞき込んだ。「…素晴らしいよね…神様…本当に…」そんな言葉が口をついて出てきた。


 (素晴らしい神様!神様がおられない世界なんてありえないし、そんな世界では生きて行く意味もない!!!)


 気がつくと、咲蓉は俺の手の上に自分の掌を重ねていた。演奏が終わり、歌手とピアニストが舞台袖に消えても、俺はしばらくの間、呆然と舞台を見つめ続けていた。そうだ、この日の俺は、皆で賛美歌を斉唱したあたりから、神様に関する全てについて不思議なほど受容的になっていたんだ。
 舞台の上に、今度は、黒い牧師服を身に纏った伝道師が現れる。音楽の余韻がまだ醒めやらぬ中、伝道師の説話を快く聴きながら、俺は咲蓉との、クリスチャン夫婦としての慎ましくも幸福な未来を想った。咲蓉の掌はまだ俺の手の上にあった。俺の心は高揚していた。
 …この集会にここまで没入できるなんて、俺もいっぱしのクリスチャンじゃないか!俺は自分が咲蓉の夫となる事にもっと自信を持って良いんじゃないのか?
 伝道師は話し上手でユーモアがあり聴衆を飽きさせなかった。聖書をモチーフにしたその冗談に、会場は湧き、俺も声をたてて笑った。咲蓉は小さくクスクスと笑っていた。
 だが………説話が進むにつれ、俺のそれまでの気持ちの高まりは次第に萎んでいった。先の音楽による高揚にしても、結局は(例えば)軍歌によって兵士たちの志気が高まるのと同じような、そんな風なものなのではないかとも思えてきた(でもそれはきっと違う!)。俺は伝道師の説話を聴いて、その爽やかな弁舌の中に、他愛ない冗談の中にさえ、普段の教会生活に於けるのと同様、神様とは何ら関係のない狭い仲間内での論理、組織の側の都合が混じり込んでいる(時には主客転倒にさえなっている)のを感じた。そして、自分に取ってそれらのものは(伝道師の話ばかりでなく場の空気もまた)、たとえ長い人生を経たとて馴染みきることの出来ない歪(いびつ)なものの様に思われたのだった。


 …響きは開いている、だが言葉は閉じている…


 集会が終わる頃には俺の気分は暗く沈みこんでいた。興奮と消沈…帰り道に咲蓉とふたりで話す機会はなく、この日に俺の心中で起こったことは誰に告げられることもなく終わった(次に教会で咲蓉に会った時には、もうその事を話題にする気力は失せていた)。でも、それで良かったのだ。こんな事を話したところで、あの時の心の中を上手く説明できる自信もないし、咲蓉はきっと戸惑うばかりだったろう。事実、彼女は会が引けたとき、俺の耳元に顔を近づけ「良い集会だったね」と囁いたのだった。


 それから何週間かが経ち、俺はSのことで自分の心の狭さ、醜さに苦しんで教会を去った。つまるところ俺は咲蓉から逃げたのだ。教会は去ったが、俺は今も、不安や恐れの激しい夜にはお祈りをし聖書を抱いて眠る。神様はいつも見ておられる。自分の醜さをごまかし、上手く目をそらしたような時にも、神様は我々の心の動きのひとつひとつに目を留められ数えておられる。だからもし、自分の中に愚かなものを見いだした時には決して目をそらすべきではない。


 自分が目をそらしても、神様の目から逃れる事はできないからだ。


 神様、助けてください。
 神様、お赦しください。
 神様、どうか、憐れんでください…

 

 ………

 

 ※※※A(2020)※※※

 


 …夢うつつの「ハクチュウム」から本物の睡眠へと移ったのち、私は目覚めた。


 もうピアノは鳴っていない。
 私は起き上がって亜世ちゃんを探す。


 二階のどちらの部屋にも姿はない。
 物干し場に出るサッシの戸にちらと注意を向ける。


 それは彼女が「感染するから開けちゃダメ」と言っていた引き戸…二階の北側の部屋についた窓の外はアーケード街の道路で空は見えず、一階の南側の部屋にも窓はあるが、カーテンを開けてもその外には(奥にあるビルだろうか)大きなコンクリートの壁が間近に迫っていて、やはり空を見る事は出来ない。即ち、私はハンス薬局に来て以来、まだ一度も空を見ていない。


 私はふと、物干し場へ出てみたい衝動に駆られた。
 でも亜世ちゃんがそれはダメだと言って……

 そんな考えが意識に上る先に、衝動に従い自然に手が動いてしまった。


 錠を外し、サッシ戸を横に引くと三畳ほどの広さの物干し場、そこに亜世ちゃんの姿はもちろんない。
 目の前にはやはりコンクリートの大きな壁、だが物干し場のスペースがあるため壁は一階の様には目前に迫っていず、壁との間には空間的に余裕がある。


 物干し場へ一歩踏み出し上を見上げる。


 空は?…空?…そ…ら…


 ……私はサッシ戸を閉じ、部屋へと戻った。


 たしかに、空はあった…のかもしれない、だがその空は…


 階下に亜世ちゃんの気配を感じた。心に何か妙な後ろめたさがあって私はソロリと隣室へ移動する。先には気付かなかったが、こちらの部屋の隅のピアノは蓋が開いたままになっており、譜面を置く場所に五線紙が乗っている。五線紙には音符が全く記されていない。ただ、題名の所には「神様、all right」と書かれていた。

 

 

 


(続く)