今宮神社の参道①鹿苑寺(京都市・北区金閣寺町)に関する記事です。

金閣寺は京福電鉄の北野白梅町駅の北1.3KM
きぬかけ路(市道183号線)沿いにあります。

金閣寺マイマップ

金閣寺マイマップ

鹿苑寺は五山送り火で知られる左大文字山の南麓にあり、
門前のきぬかけ路からは大の字が迫って見えます。

左大文字山
左大文字山

鹿苑寺は相国寺の塔頭の一つで、金閣寺は鹿苑寺の舎利殿です。

きぬかけ路から続く参道を進むと入口に当たる総門があります。

元々、この地は、鎌倉時代には西園寺公経の別荘でしたが、
室町時代の応永4年(1397)に三代将軍・足利義満が、北山山荘を造営しました。

義満の死後、夢窓疎石(国師)を初代住職として開山したのが鹿苑寺です。

鹿苑寺の総門
→鹿苑寺の総門

鹿苑寺(金閣)と慈照寺(銀閣)は夢窓疎石の開山とされますが、
2寺が建てられたのは夢窓疎石(1275-1351)が亡くなってからのことで
高僧の名を借りた勧請開山です。

夢窓疎石は足利尊氏も帰依した臨済宗の禅僧で、史上最高の作庭家として
天龍寺庭園と西芳寺庭園を始めとする数々の遺産が残ります。

鹿苑寺の唐門
鹿苑寺の唐門

足利尊氏が征夷大将軍となった1338年から255年間を室町時代といい、
この時代に育まれた文化を室町文化といいます。

室町文化の中で、第3代将軍足利義満の金閣寺に代表される文化が北山文化、
 第8代将軍足利義政の銀閣寺に代表される文化が東山文化と呼ばれています。

*1:「陸舟の松」は足利義満の盆栽だった松を、帆掛け舟の形に
  仕立てたと伝えられている樹齢600年の古木。

陸舟の松&方丈
陸舟の松&方丈

室町幕府3代将軍・足利義満は直轄軍の戦力を強化し、
土岐康行・山名氏清・大内義弘など有力守護の反乱を治めて、
南朝の後亀山天皇から三種の神器を取り戻し、南北朝の統一に成功しました。

庫裏&火消し用水
庫裏&火消し桶

足利義満が将軍になった応安元年(1368)、
中国では漢民族による明が建国されました。

1401年、義満は北山山荘造営と同時に明に使節を送り、
永楽帝から日本国王に封じられ、明への朝貢貿易として日明貿易が始まりました。

金閣寺は黄金の国ジパングをイメージさせる建物で、
明の使節を迎える迎賓館として使用されました。

金閣寺
舎利殿&鏡湖池

後小松天皇は16歳の時(1392)、南朝の後亀山天皇から
三種の神器を受け取って、南北朝統一の天皇となりました。

義満は後小松天皇を金閣寺に招いて20日間も連歌や舟遊び、
白拍子舞などに興じる宴を連日催しました。

義満は南朝を歴史から抹消、御小松天皇を自らの傀儡とし、
明国にも日本国王と認められ名実ともに日本のトップとして君臨しました。

金閣寺&鳳凰
舎利殿と鳳凰

総門の左手にある鐘楼は西園寺家に由来するもので鎌倉期に造られたものです。
北山山荘の地は、義満が西園寺家所有だった北山殿を譲り受けたもので、
元々は鎌倉時代初期に藤原公経が建立した西園寺が始まりです。

西園寺家は代々鎌倉幕府に味方した家系で、子孫の西園寺公宗は
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇を暗殺するため北山殿蛍狩を計画しました。
しかし計画は未遂に終り、公宗は逮捕・処刑され、西園寺家の所領と資産は没収されました。

このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れ、義満の所有となりました。
♪花誘ふ 嵐の庭の雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり♪ (西園寺公経)

鹿苑寺の鐘楼
鹿苑寺の鐘楼

安民沢は雨賜沢・望雲沢とも称される池で、西園寺の遺構と言われます。

安民沢は旱が続いても涸れないので雨乞いの場ともされ、
池中には五輪石塔が建つ白蛇塚があり、西園寺家の鎮守などとも伝えられます、

安民沢、多宝石塔、西園寺家の鎮守
安民沢の白蛇の塚&五輪石塔

安民沢から金閣寺が建つ鏡湖池へと流れる流水や湧き水は
銀河泉・龍門滝などと呼ばれる古蹟となっています。

*銀河泉は足利義満が茶の水に使ったとされる湧き水
*鯉魚石は鯉が滝を登りきると竜になるという登竜門の故事に因む石

銀河泉&鯉魚石
銀河泉&鯉魚石

夕佳亭
夕佳亭