宇奈太理坐高御魂神社の参道⑪成務天皇陵(奈良市・山稜町) に関する記事です。

成務天皇陵は近鉄平城駅の東南500m,
佐紀古墳群を構成する古墳の1つです。

佐紀陵マイマップ

佐紀陵マイマップ


考古学名は佐紀石塚山古墳と称され、
宮内庁からは狭城盾列池後陵(さき・たてなみ)に治定されています。

佐紀古墳群は奈良県と京都府の県境を東西に延びる平城山丘陵にあり、
成務天皇陵は丘陵の西端にある古墳です。

佐紀古墳群
佐紀古墳群

佐紀古墳群は平城宮の北部にあり、
4-5世紀に造られた天皇陵を中心にする大型の古墳群です。

佐紀は古墳時代初期には曾布県主が治めた朝廷の直轄地で、
200mを超える7基の大型前方後円墳が並びます。

成務天皇陵が日葉酢媛命陵と接する場所で歪んで見えるため
成務天皇陵の方が後に造られたと考えられています。

成務天皇陵
成務天皇陵と日葉酢媛命陵

成務天皇は日本武尊の異母兄弟で皇位は日本武尊の子の仲哀天皇に譲っています。
12景行天皇、13成務天皇、14仲哀天皇は同じ足彦(たらしひこ)の称号を持ち
志賀高穴穂宮での生活体験があります。

先代:父の景行天皇
次代:甥の仲哀天皇
別称:稚足彦尊、若帯日子天皇(わかたらし)
治世:131-190年

成務天皇家系図
成務天皇家系図


成務天皇は高穴穂宮で長きにわたり政治を行い、大和政権の行政機構の整備を図りました。

「若帯日子天皇、近つ淡海の志賀の高穴穂宮に坐しまして、天下治らしめしき」(古事記)


山河を隔にして国県を分かち、行政区画として国・郡・県邑を定めました。
それぞれに国造・稲置等を任命して、
国造の半数が成務天皇の時に設置されたともあります。

太安万侶は古事記の序文で、国堺を定めたことは
神武、崇神、仁徳、成務、允恭の歴代五天皇の業績の一つとして評価しています。


成務天皇陵2
成務天皇陵(佐紀石塚山古墳)
 

<佐紀石塚山古墳>成務天皇陵

形状   :前方後円墳
サイズ  :全長210mm、後円部径132m
築造時期:4世紀末~5世紀初頭
被葬者  :成務天皇
出土品  :鏡・玉・剣
埋葬施設:竪穴式石室と長持形石棺

成務天皇陵1
成務天皇陵拝所

成務天皇の皇居は志賀高穴穂宮(滋賀県大津市穴太)とされます。

穴太の地は記紀に記される景行、成務、仲哀天皇の三代が営んだ
志賀高穴穂宮の伝承地です。


穴太周辺は飛鳥時代には渡来文化のメッカとなった場所で、
志賀高穴穂宮の遺跡はまだ見つかっていませんが、
渡来人の住居跡、群集墓、穴太廃寺などが発掘されています。


高穴穂宮跡碑
高穴穂宮址碑