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二〇〇一年九月二十八日。店町の出社最終日、宗像は上海出張に出ていた。店町は下の階から順番に挨拶を済ませ、最後に最上階の扉を開いた。面接を受けに来たときと少し違うメンバーがそのフロアに居る。何名かが店町より先に会社を去っていた。

 

店町は各フロアで手渡された餞別の品を持っていた。

 

「本当にいいの? 送別会しなくて」

 

「ええ、送別会なんていらないです。別に何が変わるわけでもないですから。新しい会社で歓迎会してもらいますから」

 

「店町君のために盛大な送別会をしてあげなさい」総務部長にそう指示したのは宗像だった。それを知った店町は、その申し出をきっぱりと断った。

 

海外事業部のメンバーたちと店町は少し思い出話をした。店町を気遣って周りの皆は宗像の話は口にはしなかった。

やがて店町は皆にお礼を言って座席の下の鞄を手にとった。

 

デスクに視線を落とすと、本社勤務がはじまった当時の内線電話表の印刷がデスクマットに黒く写っていた。

 

店町は自分が使っていた電話機の受話器のコードが少しよじれているのに気が付いた。刈谷室長が会社を去った日も確かそうだった。店町は受話器を一度手に取ったが、そのまま元の位置に置いた。その電話線のよじれは、これから先も続くであろう店町の心の葛藤と実社会に対するささやかな抵抗を表していた。今はまだなおすべきではないような気がして店町は受話器をそのまま置いたのだった。

 

エレベーターの一階のボタンを押す指が少しためらっていた。毎朝、最上階のボタンを素早く押していた頃のことが、ここにきてとても懐かしく思えた。

 

もう二度と乗ることのないエレベーターの扉が開いて、店町はひとり静かに会社を後にした。新大阪駅の時計は、十七時二十分を指していた。

 

店町の転職初日は大雨が降っていた。いやな出来事をきれいに洗い流してくれるかのような雨だった。新しい靴を履き、新しい鞄を手に持って黄色いワイシャツを着て店町は出社した。

 

新転地の雰囲気はとてもよかった。関西で一番大きな総合法律事務所である。女性社員の多いフロアで、変わった経歴を持つ店町に対して偽りのない笑みが向けられていた。秘書という職務に興味を抱いた人たちが店町に色々と聞いてきたが、店町はかつて遭遇した事件のことを誰にも話さなかった。たとえ話したとしても店町が感じている苦悩を同じ目の高さで、同じ痛みとして共感してくれる人はおそらくいないだろうと店町は考えていた。

 

店町は白いワイシャツに袖を通すことができなくなっていた。手帳を持って外出することができなくなっていた。素直さからくる無意識的行動を避けようとする心の抵抗だった。

その一方で、新しい上司と共に外出する際には、上司の鞄を無意識に持とうと手を伸ばした。上司の背中を宗像のそれと錯覚したのである。上司の鞄を持たずに並んで歩くことに罪悪感を覚えたのだった。それは店町にとって抵抗のしようのないごく自然な心の動きに思われた。

 

そのとき店町は、あることに気が付いた。それは、自分は宗像という男をひとりの人間として愛していたのかも知れないという思いだった。

 

愛する人間の手によって、もうひとりの愛する対象が被害を受けた。そのことで店町は、どちらかを捨てなければならなくなった。捨てるべき対象は一見明らかである。しかし店町にとってその選択は極めて困難なものだった。

 

宗像のすべてを否定することは、かつて尊敬し続けた自分をも否定してしまうことになる。宗像を許すということは、もうひとりの愛する人間に対して、理解不能な自分のわがままを強いることになる。店町は佳音と一緒にいることによってその事件の間接的被害者であり続け、自分の心を正しく保つことができている。もしそのセクハラ事件が他の女性に対して起こったものであったとしたら、店町は真実に目をつぶり、宗像の話だけで納得してしまっていたかも知れない。

尊敬する宗像の言葉は店町にとってすべてだった。そこに嘘など存在しない。宗像が話す内容こそが真実そのものだった。宗像から与えられた教えと優越感はそれほどの力を持っていた。

 

人間は一度手にした優越感をたやすく手放すことはできない。権力者を敵にまわして真実を追及することは自分に与えられた優越感を手放すことそのものである。それだけではない。今度は回復できないほどの劣等感を植え付けられてしまうのも確実である。その差はあまりに大きい。傷は時間とともに癒されるが、一度失った立場にはもう二度と戻ることはできない。自分の力で這い上がっていくしか次の機会はありえない。

 

自らの努力によって得た立場ではなく、偉大な人物に守られているからこそ得ることのできた立場、感じることのできた優越感、店町はそこから抜け出せなくなる一歩手前にいた。

 


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