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転職して半年ほど過ぎたある日、店町は出張先で懐かしい男の姿を見つけた。颯爽と歩く姿はひと目で刈谷だとわかった。相変らず精悍な顔立ちをしている。

 

「ちょうど半年ほど前だったかな。宗像社長から僕の携帯に電話があってね、店町君が会社を辞めることになったから、戻ってこないかと」

 

「それ、日付でいうといつですか」

 

店町は刈谷の記憶力のよさに期待して聞いた。

 

「確か名古屋の展示会に参加していたときだったから、八月二十四日だったな」

 

八月二十四日というと、店町が社長室に直接乗り込んだ二日後である。自分のメッセージが宗像にまったく伝わっていなかったことを知り、店町は眉間に皺を寄せた。

 

刈谷は話を続けた。

 

「僕は宗像社長の所に戻る気はまったくなかったから、丁重にお断りしたよ。でも、これは何かあったな、と少し気になったから、周りの人間に聞いてみたんだよ。店町、大変だったな。気の毒だったな。でも、これが人間社会、縦社会の現実なんだよ。秘書の立場は大変だということがきみもわかっただろ。きみだけは特別扱するよという立場を与えられて、それでいてバランスよく無理を指示する。店町は入社直後からだからなおさらだよな。よく自分を見失わずに飛び出せたと思うよ」

 

店町は自分が辞めるに至った経緯を自分の口からは話さなかったが、刈谷はすべてを理解しているようだった。

 

「実はな、俺もいろいろとあってね。前にいた会社がアランドリーと取引があってね、そこから宗像社長に引き抜かれたのがはじまりだったんだ。その後も取引関係が続いていたけれど、その内容が少しいびつなものになってしまったんだ。宗像社長は取引を優位に進めるために、ある人物にジャガーを一台プレゼントした。結局は、その受け取った人間は別の事件で逮捕されてしまったんだけど……。やっぱり、どこか違うんだよ。やり方がまともじゃないんだよ。店町君も宗像社長を尊敬していたように、もちろんいい部分もたくさんあると思うよ。全国講演で話す内容を聞いて君も感動しただろ」

 

上司であったころの刈谷は、店町にこれほど心を開いて熱く語りかけたことはなかった。今の様子ならこの男が会社を辞めた本当の理由を聞き出すことができるかも知れない。

 

まるで店町のその気持ちが伝わったかのように刈谷は話を続けた。

 

「実は……、こうなることを薄々感じていたんだ。事件の内容はどうであれ、近いうちに宗像が宗像らしくなくなる日が来るな、と」

 

刈谷は社長ではなく宗像と呼び捨てにした。

 

「俺には止められないな、店町君にならできるかな、と。だから俺はあのとき、きみに託して宗像の元を去った。会社が成長したとき、お金を手にしたとき人は周りが見えなくなる」

 

刈谷は淡々と説明した。

 

宗像と刈谷の間でかつて何があったかはわからない。店町は興味はあったがそれ以上聞かないことにした。

 

「宗像から血判状の話を聞いたことがあるだろ」

 

店町は頷いた。

 

「あの時期からもうすぐ三十年なんだよな。皮肉にも『企業の周期は三十年。歴史は繰り返す』と言っていつも警告していた本人がまたその地雷を踏んでしまうとはね……」

 

刈谷はそう言って、言葉の端に悔しさをにじませた。

 

「ところで店町君。宗像の秘書がどうして男性なのかわかるよね」

 

さっきまでの沈んだ表情とは違って、刈谷の顔は少し明るくなった。

 

「ええ、なんとなくわかったような気がします。女性秘書だと自分をうまくコントロールできなくなってしまうんでしょうね」

 

「そう、危険の排除。企業経営でもっとも大切な部分だ。危機管理をおろそかにすると、企業はいとも簡単にひっくり返ってしまう。特に、セクハラは会社の存続を左右する重大な問題なんだよ。宗像は、自らの過ちによって過去に何度もその危機にさらされた。でも、持ち前のパワーと強引さによって見事にねじ伏せてきた。そのことが逆に悪い自信を芽生えさせていたのかも知れないな。危険を冒しても自分になら立てなおすことができると。でも、セクハラに対する社会の目は昔に比べて相当厳しくなっている。職を失い、家庭崩壊まで追いやられた有力者たちも大勢いる。弱い立場の人間が守られる世の中がようやく訪れたということかも知れないな。店町君の今回の退職が宗像の暴走を止めるきっかけになればいいのだけど。……お金は確かに凄い力を持っていると思うよ。でも、そのやり方も一部の人には通用しない。店町君もそのひとりだろうね。そういう人間は、ある段階で排除されるか、自分から見切りをつけて会社を飛び出していく。ものを言う有能な人間が定着しないで、扱いやすいイエスマンで周辺が固められてしまう典型的なパターンだろうな」

 

刈谷は腕時計を見て鞄から手帳を取り出した。懐かしい革の手帳だった。

 

「店町君は、森信三という人物の名前を聞いたことがあったよね。日本の教育の父と言われている人物。『人は一生の中で出会うべき人に必ず出会わされる。それも一瞬早すぎず遅すぎないときに』というような内容の言葉を残した人なんだけど。店町君も色々あったにせよ宗像社長との出会いは無駄ではなかったと考えているだろ。宗像という人物に出会うべきだったんだと思える日が、この先きっと来ると思うよ」

 

「ええ、もう既にそのように思うようになってるんです。というか、不思議なんですが、色々なことがあっても、出会いが無駄だったと考えた瞬間はなかったかも知れません。たぶんそれも、宗像社長からの日々の教育があったからこそだと思うんですが。だから私、困ってるんです。これって洗脳なのでしょうか」

 

刈谷は少し考え込む表情で店町を見ていた。

 

「宗像の人を惹き付ける力というのはすごいと思うよ。あの人物に出会った人、話を聞いた人たちは安心感というか、何か不思議な印象を持つと思うよ。なんだろうな、カリスマ性とでも言うのかな」

 

店町は自分が今まで出会ってきた人物の顔を思い浮かべた。その中にひときわ大きな存在感の人物が三名いた。宗像、刈谷、そして放射性物質散布事件の犯人の佐藤正照である。反社会的行為によって店町の人生に影響を与えた佐藤は、その後どのような人生を送っているのだろうか。事件から既に三年以上が経過している。執行猶予期間も過ぎているはずである。

 


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