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仏教ライフを考える西原祐治のブログです

なるほど仏教ライフ①

2024年04月14日 | 浄土真宗とは?

本願寺出版社刊『大乗』に、この4月号から「なるほど仏教ライフ」を、署名入れで連載することとなりました。2024.4月号連載原稿です。

 

能登半島地震から三か月が経過した。「今日、交通事故で死ぬかもしれない命」。法座で良く聞く言葉だが、聴衆に、災害で肉親を失った方がおられたら、その言葉は重すぎて説くことができないだろう。本来、諸行無常は、自分を安全な場所におきて語ることできないみ教でもある。

元本願寺派総長で故豊原大成氏(2022.1.23亡)は、阪神・淡路大震災(H7.1.17)で三人の肉親を失われる体験をされた。その豊原氏がNHKテレビ『宗教の時間』(「この命を未来につないで。阪神・淡路大震災から22年」)に出演され、次のように語っておられた。「諸行無常はいわば建前、涙こそ本音。私は今もこの建前の無常と本音の涙との間を行きつ戻りつしています。しかし無常という教えがなかったら、いつまでも涙からのがれることができなかった」。諸行無常は、覚りとは無縁は私たちには悲しみと苦しみの事実として体験される。

「すべては移り変わる」という諸行無常は、科学的に認識される世界観でもある。

1992年のことだ。東京有楽町にある読売ホールの前を通ると「フリッチョフ・カプラ博士講演会場」の看板があった。カプラ(1939~)博士は、1970年代に米国の自然科学分野で起こった西欧科学の根幹である物質主義の克服を目指したニュー・サイエンスの代表的な人だ。1975年に出版された現代物理学と東洋思想との類似性を指摘した『タオ自然学』が世界的ベストセラーとなった。ニュートン力学では、宇宙は基礎的な積み木のように構成されていると考えられたが、量子理論が明らかにした世界は、宇宙自体が相互連結性のものであるという大乗仏教の『華厳経』が説く万物は互いに無限に関わり合っている世界観と似ており、量子の世界は、常に流動しているという諸行無常と一致することを指摘した方だ。

偶然、目に留めた案内であったが会場に入り席に着くと、カプラ博士はカジュアルな服で登壇され講演された。講演の内容は失念したが、その光景だけは覚えている。

諸行無常とは、量子力学の最先端の世界観でもある。しかし残念ながら、私たちは科学的認識ではなく、嬉しい・楽しいといった感情の世界を生きている。では諸行無常を、どう受けとめたら良いのだろう。

仏教婦人会活動に尽力された九条武子さまは、関東大震災被災され、その時の体験についての言葉がある。武子さまは、大正九年から東京築地本願寺にお住まいになっておられた。そして大正十二年九月一日、関東大地震によって瓦一枚落ちなかった本堂も、夕方から強くなった最大風速二十二㍍を記録した猛烈な低気圧の強風によって東京は火の海となる。

築地から青山方面へ避難の途中、火の粉が降りかかってくる中で危険を感じながら、一人言のように『歎異抄』の言葉を、つぶやかれたという。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」。当時、武子さんは梅原真隆先生から『歎異鈔』を受講されていた。その『歎異抄』のこの部分をくり返し、くり返し唱えて逃げ歩いたと述懐されておられる。

 豊原氏や武子さまの言葉に接して思われことは、諸行無常は、凡夫の私には、悲しみ苦しみとして体験されるほかない。しかし諸行無常の世界にあって、私たち念仏者は、悲しみ苦しみに喘ぐ私にゆえに大悲して止まない阿弥陀如来であることを聞かせて頂くとき、「南無阿弥陀仏」の仏さまと共に、苦しみ悲しみのなかに身を置くことができる。諸行無常は、人に語る言葉ではなく、諸行無常ゆえに悲しみ傷ついた人と共に、同じ時間を共有するところに、私の問題として実感されるのだろう。

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