仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

言葉について⑤

2022年11月27日 | 日記

5.言葉は意味を生み出していく

 (経験が生み出されていく) 

英語のriceは、日本語だと「イネ」「コメ」、「ゴハン」となります。植物としてのイネ、穀物としてのコメ、植物としてのゴハンとなり、ライスでは表さなかった意味が生まれます。このような違いは、それぞれの言葉を使っている人たちの文化的な関心の違いを反映しています。英語のブラザーも、日本の伝統的な文化において、長男と他の息子たちの間に設けられていた差別があり、兄、弟という言葉が生まれました。

 

サピア=ウォーフの仮説というものがあります。異なる言語を使うと、認識する世界観や概念のあり方が変化するという仮説で、言語相対性仮説とも呼ばれています。

古い本(1996年刊)ですが『発達心理学への招待』に次のようにあります。

 

文化人類学の領域でより積極的な仮説を提唱したのはサピアとウォーフの2人です。

彼らはそれぞれいわゆるアメリカ・インディアンの言語を研究し,それが語彙においても文法においてもヨーロッパの言語とは大きく異なっていることを明らかにしました。そしてその言語を用いている人びとがヨーロッパ系のことばを用いている人びとと異なった方法で周囲の環境を認識し,理解していることを指摘しました。ウォーフは次のように理論づけています。「われわれは言語に与えられている基本的方向にそって現実を切り取る。(中略)他方,多様な印象の形で現われる世界は,われわれの心によって組織されるが,それは,とりもなおさず,われわれの心の中にある言語体系によって組織されることを意味している」(Whorlf, 1956天野[訳], 1991より)。たとえば英語ならば水はwaterの1語ですが、ホビー語という部族の言語では滝や海,湖などの水(運動している水)とコップやびんなどに入っている水(静止している水)は2つの別な語によって表現されるということです。ことばが1つしかないということは,そのものの概念は日常それ以上の分節化を必要としないということですが,別のことばで表わされるとすれば,それらのものが日常区別されて認識されていることを示しています。まさにことばによって現実が切り取られているわけです。(以上)

 

拡大解釈になりますが、南無阿弥陀仏のよって阿弥陀仏の願いに開かれている人と、そうでない人とでは、その人のみている世界は違うともいえます。

阿弥陀仏の願いを説いた『無量寿経』下巻(現土証誠)に、釈尊が阿難尊者に、身を整え合掌恭敬して無量寿仏を礼拝せよと告げられ、阿難尊者は、五体投地して無量寿仏を礼し「世尊、願わくはかの仏・安楽国土、およびもろもろの菩薩・声聞の大衆をみたてまつらん」と。そのとき無量寿仏が大光明を放って一切諸仏の世界を照らしたまう。とあります。阿難尊者のうえに阿弥陀仏の光明に照らされている世界が開かれていったとあります。

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