シベリア送りの生還者。波乱に満ちた女性ダリア・グリンケヴィチウテ | あとりえ極星堂

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シベリア送りの生還者。波乱に満ちた女性ダリア・グリンケヴィチウテ

ダリア・グリンケヴィチウテ(Dalia Grinkevičiūtė)さんはシベリアへの強制移送からの生還後、リトアニアで医師になった女性です。

シベリア送りにされたとき、彼女はわずか14歳でした。
生き残った彼女は、ソ連での地獄のような体験を回顧録として書き残していらっしゃいます。

ソ連の強制移送(強制移住)とは

いわゆる『シベリア送り』のひとつである『強制移住(強制移送)』は、民族浄化・労働力確保などを目的としたソ連の政策です。
ソ連当局が「反共産主義」と一方的に断定した民衆をシベリアに強制連行します。
持たせるのは必要最低限のわずかな手荷物だけ……。

動物用の貨車に彼・彼女たちを限界まで押し込み、シベリアなどの僻地(へきち)・辺境の過疎地に大量に送り込んで入植させました。

第二次世界大戦中にソ連は、リトアニア含むバルト三国やさまざまな国で『強制移送(強制移住)』をおこないました。

シベリアに向かう道中の環境も劣悪なものだったため、目的地にたどり着けずに亡くなる人も多くいました。
さらになんとかたどり着いた人々も、寒さ・病気・飢餓で命を落としました……。

強制移送先での生活を知りたい人へ。

ダリア・グリンケヴィチウテさんは、ソ連による追放・強制移送や抑圧を書いた回顧録において、欧米ではもっともよく知られた人物のひとりです。

リトアニアではダリアさんの著作を学校のカリキュラムに取り入れています。

ヒトコト

ダリアさんの著作は英語とドイツ語にも翻訳されています。
日本語版は2022年8月現在、発売されていません。
そのため、日本でダリア・グリンケヴィチウテさんを知る人はほとんどいないでしょう。

2022年8月現在、【ダリア・グリンケヴィチウテ】と日本語でグーグル検索しても彼女を紹介するページは1件も出てきません!

2022年9月2日(金)の『ダリア・グリンケヴィチウテ』Google検索結果です。
当サイト(と、当サイトが登録しているブログランキング)のみが検索結果として表示されています。

Googleでの『ダリア・グリンケヴィチウテ』検索結果。2022年9月2日(金)現在
Googleでの『ダリア・グリンケヴィチウテ』検索結果。
これは2022年9月2日(金)現在のもの。
当サイトのページ(と、当サイトが登録しているブログランキング)のみが表示されています。

何があっても生きることをあきらめなかったダリア・グリンケヴィチウテさんの不屈の人生をこのページでは紹介いたします。

ダリアさんの人生のあらすじ

第二次世界大戦のさなかに満14歳でソ連に強制移送されたダリア・グリンケヴィチウテさんは、戦後21歳のときにシベリアを脱出。

リトアニアに帰り着いた彼女はシベリアでの出来事を書き残します。
書き上げたこの記録を、ダリアさんは瓶詰にして庭に埋めました。

逃亡生活の末、けっきょくソ連に見つかった彼女はふたたびシベリアに送られてしまいます。

スターリンの死後に解放された彼女はリトアニアに帰還しましたが、庭に埋めた瓶詰の記録を発見することはできませんでした。

庭に埋めた回顧録が見つかったのは1991年のこと。
リトアニアが独立を宣言し、ソ連の崩壊後です。

このとき、ダリアさんが亡くなってすでに4年のときが過ぎていました。

瓶詰にして隠されていたシベリア回顧録は、英語では『Shadows on the Tundra』のタイトルで出版されています。

『Shadows on the Tundra』は日本語に直訳すると「ツンドラの影」です。

主人公のモデルのひとりがダリアさんに思えます。
トロフィモフスク島に強制移送(強制移住)させられたリトアニア人たちの物語。

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シベリア送りの生還者ダリア・グリンケヴィチウテのプロフィール

ダリアさんの肖像写真が以下のツイートで紹介されています。

フルネームダリア・グリンケヴィチウテ
スペルDalia Grinkevičiūtė
生年月日1927年5月28日
出生地リトアニア、カウナス
没年月日1987年12月25日(60歳)
死没地リトアニア・ソビエト社会主義共和国
(リトアニアSSR※ソ連統治下のリトアニア)
カウナス
職業医師、作家
配偶者なし
子供なし
ユオザス・グリンケヴィチウス(Juozas Grinkevičius)
プラネ・グリンケヴィチエネ(Pranė Grinkevičienė)
家族3歳年上(1924年生まれ)の兄ユオザス(Juozas)
※兄ユオザスもシベリアから生還し、リトアニアに帰国している。
好きなもの音楽、演劇、オペラ鑑賞。読書。
好きな作家ユスティナス・マルツィンケヴィチュース(ジャスティン・マルシンケヴィチウス表記もあり。Justinas Marcinkevičius)
代表作『Shadows on the Tundra(ツンドラの影)』
『Lietuviai prie Laptevų jūros(ラプテフ海のリトアニア人)』
『Gimtojoj žemėje(「故郷で」。ネイティブランド)』
備考ダリアは生涯で多くの手紙を書いた。
それらは劇作家、俳優、反体制派に宛てられた。
ソ連の内務大臣(当時)ベリヤやブレジネフ最高書記長に書き送ったこともある。
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シベリア送りの生還者ダリア・グリンケヴィチウテの幼年時代

2020年7月11日のリトアニア、カウナスの様子。
2020年7月11日のリトアニア、カウナスの様子。
ダリアはリトアニアのカウナスで生まれた。

1927年、リトアニアのカウナスでダリア・グリンケヴィチウテは生まれました。

父はユオザス・グリンケヴィチウス(Juozas Grinkevičius)。
母はプラネ・グリンケヴィチエネ(Pranė Grinkevičienė)。
きょうだいは、3歳年上(1924年生まれ)の兄ユオザスです。

グリンケヴィチウス家の住む家は、父ユオザスの建てたものでした。

1927年ってどんな時代?

1918年第一次世界大戦が終わる。
リトアニアが独立する。
1922年12月30日世界初の社会主義国家『ソビエト連邦』が成立。
1924年ダリアの兄ユオザスが生まれる。
1927年5月28日ダリア・グリンケヴィチウテが生まれる。
1929年10月24日ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落。世界恐慌がはじまる。
1933年ヒトラーとナチスがドイツで実権を握る。
1939年第二次世界大戦がはじまる。

ダリアが生まれた1927年は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時代『戦間期』です。
世界恐慌(1929年)はまだ起こっておらず、ヒトラーが独裁者になる前のことです。
戦後であり戦前。
人々は多くの犠牲者を出した第一次世界大戦のせいで戦争にうんざりしていたのではないでしょうか。
つかの間の平和であることも知らず、ホッとしていたかもしれません。

1927年は日本では昭和2年です。
2月7日に大正天皇大喪がおこなわれています。

余談ですが、写真写りが劇的に悪いことで有名な第265代ローマ教皇ベネディクト16世が同年4月16日に生まれています(ネットスラングのニックネームで彼は『老魔法王ろーまほうおう』と呼ばれました)。

ダリアが生まれる5年前にソ連は成立しました。
世界初の社会主義国です。
まさかその国があれほどの殺戮国家になるなんて、いったいだれが想像したことでしょう……。

ダリアは幼いころから演劇や音楽の鑑賞が好きでした。
コレクションした演劇のパンフレットは、彼女にとってもっとも大切な宝物だったようです。

父ユオザスとともに劇場に足を運ぶことを、ダリアはとても愛していました。
オペラ『椿姫』を、父といっしょに何度も観に行きました。

ダリアの思いだすもっとも輝かしい記憶は、つねに父親に関するものでした。

手元に集めた演劇パンフレットの束を、ダリアはシベリア送りにされるときも持って行きました。

以下のツイートの2枚目の画像が、子供のときのダリア・グリンケヴィチウテです!

子供らしいかわいい笑顔の写真ですね!
……彼女ののちの運命を思うとつらすぎる(涙)

演劇や本を愛する文学少女だったダリアは、地元のアウシュラ女子学校(„Aušros“ mergaičių gimnazijoje)に入学します。

『アウシュロス』『アウシュラス』の表記ゆれもあります。

この学校では、父ユオザスが物理学と数学を教えていました。

1939年に第二次世界大戦がはじまります。

1940年6月、ダリアが満13歳のとき、ソ連はリトアニアを併合しました。
その結果、リトアニア国内にソ連兵が駐留することになりました。

いっぽう、ドイツ占領下のポーランドからは大量のユダヤ人たちが難民としてやってきました。
リトアニア国内はあきらかにきな臭くなっていました。

ダリアの父ユオザスはこのとき、リトアニアから亡命しないことを決意しました。

「祖国のために一生をかけて尽くしてきたこと」が間違っていたなんて、彼は思っていませんでした。
リトアニアで死ぬことを覚悟したうえで、父ユオザスは国に残ることを決めたのです。

ソ連による強制移送がはじまるのは、ちょうど一年後のことでした。

このときのユオザスは、自分がのちに裁判もなしに死を迎えるなんて思いもしていませんでした。
まさか、家族の絶滅が計画されていることなど……。

同時期(1940年6月)、カウナスにあった日本領事館の日本領事代理 杉原千畝がユダヤ人のためにビザを発行しています!(『6000人の命のビザ』)

ひょっとしたらダリアの父ユオザスもこの”騒ぎ”を耳にしていたかもしれませんね。

父ユオザスは何した人?

ダリアの父ユオザス・グリンケヴィチウスは、かつてリトアニア銀行の通貨委員会(Lithuanian Bank’s currency commission)の責任者でした。
さらに自動車技術者であり、外国貿易を管理する経済学者でもありました。

責務をしっかりと果たす誠実な人柄であったと伝わっています。

ユオザスはリトアニアのお金が海外に流出することを防ぎました。
その資金がリトアニア国内の病院、学校、インフラの整備に使われるように采配したのです。

結婚したのは1920年のことです。
当時はロシアに住んでいたようですが、結婚してからリトアニアに帰国しました。

夫婦の間にはまず双子が生まれたようです。
この双子は兄ユオザスが生まれる前に夭折(ようせつ)しています。

1940年以降のユオザスは、学校の数学教師の職に就きました。
ダリアの通うアウシュラ女子学校で物理学と数学を教えていました。

彼は実績のある知識層のひとりでした。
このため、その家族であるダリアたちも強制移送されることになったのだと思われます。

1941年の追放で強制収容所に送られたユオザスは、死から25年後の1968年に名誉を回復されたようです。

父が「亡命しない」と決めたことで翌1941年にシベリア送りになったダリアでしたが、彼女が父を恨むことは生涯ありませんでした。
ダリアは、父の信条・誠実さ・リトアニアへの祖国愛を誇りに思っていました。

ダリアは回顧録『Lithuanians by the Laptev Sea(ラプテフ海のリトアニア人)』で以下のように書き残しています。

I am proud of his principles and conscientiousness, which even his political enemies were forced to recognize officially twenty-five years after his death.

Lithuanians by the Laptev Sea: Siberian Memoirs of Dalia Grinkeviciute

これを、文中の最初の『,(コンマ)』を『.(ピリオド)』にしてグーグル翻訳すると以下のようになります。

私は彼の原則と誠実さを誇りに思っています。彼の政敵でさえ、彼の死から25年後に公式に認めることを余儀なくされました。

ダリアの強い意志が伝わってくる文章です。
父ユオザスの死は1943年のことです。
『彼の政敵』はソ連であり、リトアニアをソ連に売りわたそうとする人々のことでもあるでしょう。
死から25年後の1968年に、ユオザスの名誉が回復されたことが読み取れます。

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ソ連によるリトアニア人の強制移送。ダリア・グリンケヴィチウテは満14歳

1941年6月14日の午前3時。深夜。
ソ連によるリトアニア人の強制移送がはじまりました。

どんな仕事だと強制移送された?

ソ連が「反共産主義」だと思い込んで強制移送した国民の職業は多岐にわたりました。

教員、大学の講師、弁護士、ジャーナリスト、リトアニア軍将校とその家族、外交官、さまざまな職場の事務員、農民、農学者、医師、ビジネスマン……。

その仕事に就く本人と、その家族が強制移送の対象になりました。
高齢者であろうが生まれたばかりの新生児や幼児であろうが、名簿に載ってさえいれば強制移送の対象です!

同日6月14日の夜、グリンケヴィチウス家のドアも、ソ連の秘密警察NKVDエヌ・カー・ヴェー・デーによって破壊されました。

父ユオザス、専業主婦の母プラネ、学校を卒業していた17歳の兄ユオザス、そして14歳の女学生ダリアは、NKVDに逮捕されました。
「おまえたちは一生、シベリアの僻地に追放される」とNKVDは文書を読み上げました。

ダリアは通っていた学校を卒業することなく、家族とともにシベリア送りにされてしまったのです。

その道中、父ユオザスだけがほかの家族から引き離されました。
強制移送の過程で、家長の男性だけが女子供とは別に集められたのです。

「これは旅の間、一時的に離れているだけだ」――NKVDはいいましたが、それは噓でした。
裁判も、尋問さえ受けぬまま、引き離された男性たちはソ連のクラスノヤルスクや北ウラルの強制収容所に送られ、殺されることがすでに決まっていたのです。

2年後の1943年10月10日、ダリアの父ユオザス・グリンケヴィチウスは、北ウラルの強制収容所で拷問の末、餓死しました。

ユオザスが白樺の樹皮に書いて家族に宛てた最後の手紙には「わたしは飢えで死にかけている」とあったそうです……。

このとき何人が移送された?

1941年6月14日~18日にかけておこなわれた第一回目の強制移送では、少なくとも合計18500人のリトアニア人が、おもにアルタイ地方に送られました。

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アルタイ地方で一年間を過ごしたダリアたちは北極圏へ移送されることに

強制移送された現実を、ダリアは受け止めるしかありませんでした。

瓶詰めにして埋めた最初の回顧録で、彼女は以下のように書き残しています。

Secondary school, childhood, fun, games, theatre, girlfriends – everything is in the past. You’re a grown-up now. You’re fourteen. You have a mother to look after, a father to replace. You have just taken your first step in the battle for life.

Shadows on the Tundra « neverimitate
原出所:Dalia Grinkeviciute著[2018]『Shadows on the Tundra』

翻訳をすると以下のようになります。

中等学校、子供時代、娯楽、ゲーム、演劇、女友達――すべてが過去のものです。あなたはもう大人です。あなたは14歳です。あなたには世話をすべき母親、父親代わりがいます。あなたは命を懸けた戦いの第一歩を踏み出したところです。

わずか14歳でありながら、ダリアは母プラネを守ることを決意していたのです。
【a father to replace(直訳:代わりの父親)】は兄ユオザスのことでしょう。
「かならず生き抜く」と決めたダリアは、その意思をつらぬいて力強く生きていきます。

アルタイ地方での一年間

アルタイ地方にたどり着いた少女ダリア、母プラネ、兄ユオザス。

彼・彼女たちは一年間、ソ連の集団農場ではたらきます。

日々を過ごすうち、一家はアルタイ地方の気候や生活に少しずつ慣れてきました。

満足な食糧がないため、持ち物を人々と物々交換してジャガイモの種芋を得ました。
あてがわれた住処の敷地にそれを植え、育て、いつしか花が咲き始めました。

そのとき、家族はさらに北へ、ヤクート北部(※現在のサハ共和国)の北極圏のレナデルタへの移送が決まったのです。

北極圏への長い旅路

北極圏への旅は約3か月かかりました。

座るスペースがないどころか体の向きを変えることもできないほどぎゅうぎゅう詰めの貨車で、ダリアたちはまず運ばれました。

中継地点に到着して艀(はしけ)に乗って、アンガラ川へ。
そのあとはトラックでアンガラからレナ川まで、無人の森を通り抜けました。
レナ川に到着し、再度、艀(はしけ)に乗ってさらに北へ……。

艀(はしけ)って何?

はしけとは、本船~岸壁、岸壁~岸壁など、重い貨物を短距離移動させるときに使われる輸送船のことです。

河川・運河などの内陸水路や港湾内で航行します。
平底の船になっていて、エンジンがついていない場合もあります。
エンジンがない艀は自力で動けないので、タグボートにけん引してもらうことになります。

以下の都市・街を通り抜けて、ダリアたちリトアニア人はさらなる北へと連れていかれます。

  • ウスチ=クート(Ust-Kut)
  • キレンスク(Kirensk)
  • オリョークミンスク(Oliokminsk)
  • ヤクーツク(Yakutsk)
  • キュシュル(Kyusyur)
  • ストルバ(Stolba)……

『キュシュル(Kyusyur)』はかろうじて英語版Wikipediaが存在します。
対して『ストルバ(Stolba)』はロクに情報が出てきません……!
それだけめちゃくちゃ田舎でやばいほどの北極圏ってことですよね……。

旅が進むたびに木々が少しずつ減っていき、ついには一本もなくなってしまいます。
茂みさえいつしか姿を消しました。
集落はありません。

レナ川の河口、ラプテフ海へと一行はたどり着きました。

ダリアの目の前には無人島――トロフィモフスクだけが広がっていました。
家もテントも、花も草木も茂みさえありません。
かろうじてあるのは、氷と苔(こけ)だけ……。

到着は1942年8月末だったにもかかわらず、深秋のような寒さでした。

何人のリトアニア人が来た?

400人~500人のリトアニア人がトロフィモフスク島に入植させられました。
女性、子供、老人、あとは数人の男性……

じつはフィンランド人もいた!

ダリアの到着の一か月前、数百人のフィンランド人がトロフィモフスク島に入植させられています。

彼らはレニングラードから連れてこられていました。
太古の昔からずっと住んでいたにもかかわらず、リトアニア人と同じようにソ連の気まぐれでレニングラードを追放されたのでした。

レニングラード包囲戦は1941年9月8日~1944年1月27日におこなわれています。
リトアニア人とフィンランド人がトロフィモフスク島に入植して間もなくのことです。

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トロフィモフスクの地獄。強制移送された人々の半数が命を落とす……!

ソ連に強制移住させられたリトアニア人、トロフィモフスクの地獄。これはバイカル湖だが、トロフィモフスクははるかに北なので、もっと厳しい風景が広がっているのだろう……
この画像はバイカル湖の様子。
トロフィモフスクはバイカル湖よりはるかに北なので、もっと厳しい風景が広がっているのだろう……

レナ川の三角州に浮かぶ無人島、ラプテフ海を臨むトロフィモフスク島で地獄のような生活が始まりました。

ここでの死亡率はなんと50%。
最初の冬で、連れてこられた人の半分が亡くなりました。

兵糧攻めで有名な『レニングラード包囲戦(1941年9月8日~1944年1月27日)』の死亡率は【25%】といわれています!
ここで亡くなった市民の97%は餓死です……。
残りの3%はドイツ軍からの砲撃で亡くなった人たちです。

トロフィモフスク島で何が起こったのか?
その詳細はこちらのエントリーにまとめています。

ダリアは、島の監督者のことを「サイコパスだ」といい残しています。
駐留するNKVDたちに優しさや慈悲はいっさいありませんでした。

「絶対に生き残る」と固く決意していたダリアは、飢えと病に苦しむ母を助けながらトロフィモフスク島ではたらきます。

ふつうの少女には無理だとしか思えない、ロープにつないだ重い丸太を険しく凍った海岸で運ぶ日々……。

ロープによって傷を負い、凍傷を負い、手はいつも激痛にさいなまれます。
足は凍りつき、動かすのもやっとです。

手づくりの住居の中はいつも氷点下。
入浴なんてできませんから、体中をシラミに食われます。

寝たきりの人々の顔の上を、シラミは我が物顔で歩きまわっていました。

動けなくなった人から死んでいくことを、ダリアは知っていました。
彼女は生き残るため、労働に参加しつづけます。

ストーブの燃料にする木々を得ようとNKVDから資材を盗むことさえ、ダリアはいといませんでした。

必死にはたらいてやっと得られるのは配給のわずかなパン。

母プラネはみずからの食糧を、愛しいわが子たちに分け与えます。
その結果、ますますの飢えと疲労により、とうとう寝たきり状態に……。

いっぽう兄ユオザスはほかの人々とともに海で魚釣りをさせられていました。

お察しのとおり、魚はすべてNKVD専用ですよ!

あるとき、資材の盗みがNKVDにばれたダリアは裁判にかけられたこともありました。

この裁判は簡易、略式のものです。
その場の監督者の気まぐれで判決がすぐに出されます。

そんな絶望の日々の中で、彼女は生きることを放棄せずに若い感受性を持ちつづけました。

Yet what splendor above. The Northern Lights are a magnificent web of color. We are surrounded by grandeur: the immense tundra, as ruthless and infinite as the sea; the vast Lena estuary backed up with ice; the colossal, hundred-meter pillar caves on the shores of Stolby; and the Aurora Borealis. Against a background of such majesty, we are the pitiful things here—starved and infested like dogs and nearly done rotting in our befouled and stinking ice caves.

The Trial by Dalia Grinkevičiūtė – Words Without Borders

グーグル翻訳すると以下のとおりです。

しかし、その素晴らしさ。
オーロラは壮大な色の網です。
私たちは壮大さに囲まれています。
海のように冷酷で無限の巨大なツンドラです。
氷でバックアップされた広大なレナ河口。
ストルビの海岸にある巨大な100メートルの柱の洞窟。
そしてオーロラ。
そのような威厳を背景に、私たちはここでは哀れな存在です。
犬のように飢え、蔓延し、汚されて悪臭を放つ氷の洞窟で腐敗しそうになっています。

上の翻訳では読みやすいように改行を入れています。

地獄のような生活の中で、ダリアはオーロラを見て「すばらしい」と思える女性だったのです。

「人を最後に救うのは感受性である」と、みずからも絶滅収容所に入れられたユダヤ人心理学者 フランクルもいっていたような気がします……!

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ヤクーツクの大学に入学許可!ダリアは母を密航させて連れていくが失敗してしまい……

母プラネとともに北極圏を脱出するダリア

母プラネの死期が迫っていました。
寝たきりになったプラネは「せめてリトアニアで死にたい」と願っていました。

1948年、ダリアはソ連当局からヤクーツクの大学に通うことを許されます。
ところが、将校コーセンコフ(Kosenkov)は、プラネには北極圏に残ることを命じます。

都市ヤクーツクもずいぶん寒い場所ですが、北極圏のレナデルタの島々よりは”まし”な気候なのです。
さらに、大学があるほどの”まともな街”でもあります。

ダリアは、ひそかに母を連れ出すことを決意します。

北極圏にやってきた蒸気船に、プラネといっしょに乗り込むダリア。
ダリアは船内に母を隠します。
息をひそめて2時間後、母子を乗せた船は出航します。

ところが、その行動はすぐにソ連当局にばれてしまうのでした。

ダリアは厳しい叱責を受けました。
ヤクーツクでの大学入学は取り消されます。
それどころか、罰として炭鉱に送られることが決まったのです。

母プラネに別れさえ告げられぬまま、ダリアはハンガラの炭鉱(Khangalas coal mine)に連れていかれます。

このとき、ダリアとプラネは当局に身分証明書を奪われたようです!

罰として炭鉱に送られたダリア

ダリアが送られた炭鉱では掘削機などの機械がまったくありませんでした。

北極圏とは違った最低最悪の労働条件の中、多くのリトアニア人がはたらかされていました。

労働者たちはまるで18世紀か19世紀のように、つるはしを振るって石炭を掘っています。
採掘した石炭は手押し車に入れられます。
石炭が満載の車を押し、狭い板でつくられた暗い通路を通らねばならないのです。
便利なワゴンはなく、補助や手助けもありません。

文字どおりの”重”労働収容所だったのです!

ダリアは炭鉱労働を耐え抜きます。

冬になって海が凍りつくと石炭を運び出せなくなりました。
こうして、ハンガラの炭鉱での採掘作業は終了しました。

ダリアは都市ヤクーツクに戻ることを許されます。

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母親と再会。21歳のダリア・グリンケヴィチウテはソ連を脱出する!

なんとか命をつないでいた母プラネは「リトアニアで死にたい」と願いつづけていました。
「せめてリトアニアの大地に埋葬されたい」と望んでいたのです。

都市ヤクーツクでダリアとプラネの母子は再会します。

このとき21歳になっていたダリア。

病気の母を連れたダリアは、ソ連から逃亡することを選びます。

どうやって逃げたの!?

ふたりは飛行機に乗り込み、まずはモスクワへと飛びました。
そこからは列車でリトアニア、カウナスをめざしたのです。

空港、飛行機、駅、列車――すべての場所で「ソビエト市民」の目が光っています。
秘密警察KGBだっているでしょう。

炭鉱に送られる前、ダリアは身分証明書を没収されていました。
もちろんプラネも自分の証明書を持っていません。

信じられないほどの危険な旅です!

そして旅は成功しました。

ダリアとプラネは、リトアニアに帰ってくることができたのです!!

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リトアニアでの潜伏生活の末、KGBに見つかってしまい……!?

母プラネの願いをかなえたダリア

母子の潜伏生活

シベリア送りの生還者、波乱に満ちた女性ダリア・グリンケヴィチウテは手書きの回顧録を残している。
シベリア送りの生還者、波乱に満ちた女性ダリア・グリンケヴィチウテは手書きの回顧録を残している。
※この画像はイメージ。

リトアニアにたどり着いたダリアとプラネは、友人や親戚の家にかくまわれました。

「あの家、だれか人がいるんじゃない……?」

近所の人たちが不審に思いだすと、ふたりはすぐに潜伏場所を変更しました。

シベリアでは死を待つばかりだった母プラネでしたが、リトアニアに帰還後、その病状はいちじるしく快方に向かいました。

リトアニアの生活が何よりの治療

プラネはまず、栄養状態が改善しました。
シベリアでは口にすることのなかった野菜・果物を食べることができたのです。

さらに医師の治療を受けられました。
潜伏生活のふたりでしたが、協力者がいたのです。

プラネは、シベリアで何年も目にすることができなかった太陽の光・草木・葉・花のすべてに喜びを感じていました。

何時間も茂みに寄り添って、ベリーを摘んだり、ただその場の自然音を聞いて過ごしていました。

しかし8か月後……プラネの病状はふたたび悪化します。

1950年の春、プラネは「カウナスの家に帰りたい」とダリアに願います。

リトアニア、カウナスの家は、かつて父ユオザスが建てた家です……!

ダリアは危険を冒し、母を連れてカウナスの実家に帰宅しました。

そうして1950年5月5日。
プラネ・グリンケヴィチエネは息を引き取ります。
「リトアニアで死にたい」、その願いをかなえて……。

しかし同時に「わたしを埋葬できる場所はないだろう」――彼女はそれも知っていました。

母の日のプレゼントはリトアニアでの埋葬

「どこにお母さんを埋葬したらいいの?」

ダリアは問題に直面しました。

いまはソ連から逃げつづける生活。
身分証明書などないのです。

ダリアの潜伏生活に協力した司祭は、プラネの埋葬場所を提案しました。

カウナスから18km離れた村の墓地に書類なし・仮名で埋葬すること。

ただしこれには問題がいくつもあります。

  • どうやって母の遺体を運ぶ?
  • 街からどうやって移動する?
  • 棺の運搬を見た人はおどろいて騒ぎになるに違いないのに?

どれも無謀すぎます!!

「実家の庭、果樹の下に埋めるべきなの?」

しかしこれにも問題があります。

いまは5月。
5月の夜は明るく、だれにも気づかれずに穴を掘ることは不可能なのです。

「この家の地下室に埋葬しよう」

ダリアは決意しました。

訪ねてきた叔母(プラネの姉妹)と協力して、作業に取り掛かります。

タンスを真っ二つに切って棺をつくりました。
手斧とつるはしで、地下室のコンクリートの床を壊しました。

作業のときは外から気づかれないよう、ろうそくであたりを照らします。
だれかの足音が聞こえると、すぐに作業は中断です。

2日目の夜、ダリアは仕事を終えました。

次の日は5月の第一日曜日。
母の日でした。

「これがママへの最後のプレゼント」

協力者が来ました。
この人物はパウクシュティス宣教師(Father Paukštis)の兄弟だったそうです。

パウクシュティス宣教師は当時リトアニアで有名だったそうです。

宣教師の兄弟は、プラネを抱き上げて棺に納めました。
そうして棺は無事に安置されました。

翌週、ダリアは穴を掘ったときに出たコンクリート・粘土を地下室から運び出しました。
なんとか調達したセメントで、床をふたたび平らに戻します。

墓は跡形もなく消え去りました。

瓶詰めの回顧録を庭に埋める

シベリアから逃亡したダリア・グリンケヴィチウテは母の世話をするかたわら、あらゆるものを使ってシベリアでのことを書き残した。
シベリアから逃亡したダリア・グリンケヴィチウテは母の世話をするかたわら、あらゆるものを使ってシベリアでのことを書き残した。
※この画像はイメージ。

母プラネの世話をするかたわら、ダリアはシベリアでの出来事を書き残しました。

インクや鉛筆のほか、手持ちのさまざまなものを使って、ダリアは少しずつ書き進めます。

書きながら当時のことを思いだしたダリアは冷静ではいられなかったようです。
あるページでは大きな文字、別のページでは小さな文字で書かれた原稿。
乱れた筆跡そのものからもそれは知ることができます。

実際の原稿は以下の『リトアニア国営ラジオとテレビ(英語:Lithuanian National Radio and Television/リトアニア語:Lietuvos nacionalinis radijas ir televizija)』のウェブサイトで見られますよ。
※リトアニア語のサイトです。

この最初の回顧録は、1941年(強制移送されたとき)~1943年について書かれています。
その中でメインになっているのは、1942年~1943年の冬の出来事です。

トロフィモフスク島で半分の人が亡くなった、あの最初の冬のことです……。

回顧録の中身は衝撃的なもの

この最初の回顧録で書かれていた内容は衝撃的なものでした。

  • 最初の冬にほとんどの人が飢餓で亡くなったこと
  • 亡くなった人々をすぐには埋葬できなかったこと
  • 永久凍土の上でご遺体がひたすらに積み上げられていたこと

だれがどこでどのように亡くなったのか?

人々の死の事実を、ダリアはみずからの知る限り書き留めました。

この回顧録がリトアニアで出版されるのは1996年のことです。
ダリアが亡くなり(1987年)、リトアニアは独立し(1990年)、ソ連が崩壊(1991年)したあとのことです。

「ソ連の秘密警察はいまもわたしたちを捜している。
ここにいることが見つかれば逮捕されるに違いない」

潜伏生活の中でそれをよくわかっていたダリアは、書き上げた回顧録を隠すことにします。

瓶に入れて庭に埋めたのです。

シベリア送りの生還者ダリア・グリンケヴィチウテは書き残した回顧録を生家の庭に埋めた
シベリア送りの生還者ダリア・グリンケヴィチウテは、書き残した回顧録を生家の庭に埋めた。
ソ連・KGBからの逮捕を恐れていたからだ。

ダリアの予想は当たりました。
1951年10月、彼女は逮捕されたのです。

逮捕され、尋問の日々が始まる

逮捕されたダリアは、まずリトアニア・カウナスの尋問刑務所に閉じ込められました。

罪状は刑法第82条(追放からの逃亡)です。

「プラネも生きているんだろう!?
プラネはどこにいる!?
いったいだれがおまえたちをかくまっていた!?」

ダリアは答えます。

「わたしは本当のことはいいません。
だけど、嘘をつきたくはありません。
母は1950年5月5日に亡くなりました」

尋問者はダリアを信じません。

「プラネの主治医はだれだ!?
死んだのが本当ならその墓はどこだ!?
埋葬に使った偽名をいえ!」

「回答を拒否します!」

KGBは1950年5月5日のリトアニアでの死亡記録を調査しました。
秘密裏のまま亡くなったので、その記録にはプラネのことは記載されていません。

「だからプラネは生きているはずだ!」

KGBはプラネの行方を捜しつづけます。
……なんと、1953年まで捜索していました。

無駄すぎるし、執念深すぎて怖い……!

ダリアは厳しい尋問を何週間も耐えました。
逃亡生活を助けてくれた人々の名前はまったくいいませんでした。

母子を助けた支援者たちが、ソ連KGBに逮捕されることはありませんでした。

尋問方法はどんなの?

「寝不足にして責められる」という陰湿な尋問をダリアは受けました。

夜に寝入ったころ、たたき起こされて尋問されるのです。
それに耐えていったん独房に戻されても、朝6時には起床せねばなりません。

日中は座らされましたが、居眠りすることは許されません。
もしも眠ってしまえば、厳しい罰が待っていました。

「眠ることをろくに許されない」――寝不足がダリアを苦しめました。

イケメンKGBを使って誘惑!?

ある秋、KGBはダリアに卑怯な尋問をおこないました。

夕方、27~28歳くらいのイケメンKGB職員にダリアをエスコートさせたのです。
ふたりはカウナスの通りや公園を散歩します。

ずっとシベリアに送られ、リトアニアに帰ってきてからも潜伏生活だったダリアにとって、外を堂々と歩けることは感動的な時間でした。

イケメンKGBはダリアに尋ねます。
「合法的にカウナスに住んで、勉強したくないかい?」

ダリアは取引の内容をすぐに悟ってハッとしました。

「きみが望むなら、すぐにでも刑務所から釈放してあげるよ――。
その代わり、逃亡生活を助けた友人の家に数軒、いっしょに行ってくれるよね?」

もしもこのイケメンKGBを案内すれば、助けてくれた友達がシベリアに送られることになる……!

「わたしを刑務所に帰らせてちょうだい」

ダリアはイケメンKGBの誘惑を振り切りました。

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刑務所をいくつも経由、再度のシベリア送り

イケメンKGBによる卑怯な誘惑を振り切って半年がたったころ、モスクワの特別委員会からダリアに評決が下されました。

「逃亡の罪のため、収容所で3年を過ごすこと。
そのあとは都市ヤクーツクに戻れ!」

ダリアはこの判決に対する署名をなんと拒否!!

「判決には法的根拠がありません。
追放は罰です。
子供のころ、犯罪をしたり裁判を受けたりせずにわたしは追放されました。
わたしがグリンケヴィチウス家に生まれたというだけで……。
したがって、都市ヤクーツクを離れたことをわたしは犯罪とは考えません!
判決は認めません!」

「われわれはおまえに署名を強制する」

追放者が署名を拒否したことに対する文書を作成したKGBは、ダリアをシベリア送りにします。

まずは刑務所送り……

ダリアはまずソ連の刑務所に送られました。

ヴィリニュスとモスクワの刑務所を経由して、ゴーリキー州のウンジュラーク刑務所(Unžlag prison camp)に入れられたのです。

この刑務所で、ダリアはさまざまな知識人と出会いました。

科学者、エンジニア、俳優、教師、医師、学生……

1941年~1945年の間に射殺された人々が埋葬されている一角では、ほかに類を見ないほどうつくしい草花が生い茂っていました。
静かで平和で、ときどき鳥さえもやってきたのです。

ダリアは「その花や草の葉のひとつひとつが神聖なものに見えた」ことをのちの回顧録で書き残しています。

ゴーリキー(Gorky)地方は現在のニジニ・ノヴゴロド州(Nizhny Novgorod Oblast)のことです。
ニジェゴロド州の表記ゆれもあります。

1953年、刑務所に入れられていたダリアは当時ソ連の内務大臣だった政治家ラヴレンチー・ベリヤに手紙を書きました。
自分では投函しに行けないので、看守を説き伏せて手紙を出してもらいました。

手紙は「医学を学ぶことのできる都市に住まわせてほしい」と願うものでした。

レーニン主義、レーニンの名言のひとつである「学べ、学べ、なお学べ」を利用して、ダリアは「わたしは学びたい」とベリヤに訴えたのです。

学べ、学べ、なお学べ

「学べ、学べ、なお学べ」はロシアの革命家・ソ連の最初の指導者レーニンの名言です。
レーニン主義者の唱えるフレーズのひとつ。

ロシア語では『Учиться, учиться и учиться』。
英語では『Learn, learn, learn』。

1899年の終わりごろに書かれた著作『Попятное направление русской социал-демократии(直訳:ロシア社会民主主義の後退)』がこの名言の初出だといわれています。
著作『ロシア社会民主主義の後退』は、1924年に雑誌『プロレタリア革命(Пролетарская революция)』第8号に掲載されました。

1899年の著作以外でもレーニンは、同様のことを訴える文章を書きつづけています。

1953年の夏、ダリアは都市ヤクーツクに解放されました。

同年のダリアの写真が残っています。

このときのダリアは26歳くらいです。

ヤクート(※現在のサハ共和国。シベリア)での撮影らしいので、二度目のシベリア送りのときに撮られたものでしょう。

上の写真では見切れてしまっていますが、首にメダルのペンダントを下げています。
このペンダントはロケットになっていて、母プラネの髪の房が入っていたようです。

上のダリアの写真についての『LGGRTC(リトアニアのジェノサイドとレジスタンス研究センター)』の説明文を翻訳すると『母の髪の房』と出てきます。

ダリアの写真が掲載されているPDF。

『LGGRTC(リトアニアのジェノサイドとレジスタンス研究センター。英語:Genocide and Resistance Research Centre of Lithuania/リトアニア語:Lietuvos gyventojų genocido ir rezistencijos tyrimo centras)』のウェブサイト。

1953年9月、ひとまず拘束から解放されたダリアはソ連国内ではたらきはじめます。

この半年前である1953年3月5日にスターリンが亡くなっています。
後継となったフルシチョフによって、ソ連の抑圧は一時的に『雪解け』しつつありました。

翌1954年7月、ヤクーツクの内務省が突然ダリアを呼び出します。

彼らが訊いたのはなんと……、

「ベリヤに手紙を書いたことがあるか?」

べリヤはこの時点ですでに亡くなっています!
1953年12月23日に銃殺刑にされています。

ベリヤを銃殺刑にしたソ連当局は、彼の身辺を徹底的に洗っていたんですね。

一年前のことをいきなり尋ねられておどろいたダリアでしたが、1時間後、無事に解放されました。
さらに、なんと、都市オムスクにある医学部の受験許可を得られたのでした!

「試験に落ちたらヤクーツクに送り返す!」

ソ連当局はそういいましたが、ダリアはオムスクの医学大学の入試に見事合格します。

試験の前日、ダリアは劇場で『椿姫』を観ていました。
父ユオザスとともに何度も見た舞台。
もう帰ってこない時間……。

ダリアは泣きました。

そのときの気持ちをダリアは『ラプテフ海のリトアニア人』で書き残しています。

l had seen it many times in Lithuania, but now after so many years, deaths, and losses, everything had resounded a new meaning, an extraordinarily shocking one. Everything rose up before me which l had tried to repress and forget so that l could live. And l cried. But at the same time l gained new strength and prepared for the exams as though for an attack.

Lithuanians by the Laptev Sea: Siberian Memoirs of Dalia Grinkeviciute

グーグル翻訳すると以下のようになります。

私はリトアニアで何度もそれを見てきましたが、何年もの間、死と喪失を経て、すべてが新しい意味、非常に衝撃的な意味で響き渡っていました。
私が生きられるように抑圧し、忘れようとしたすべてが私の前に現れました。
そして私は泣きました。
しかし同時に、私は新たな力を得て、まるで攻撃のように試験の準備をしました。

読みやすいように改行を入れています。

観劇によって力を得たダリアは、見事に合格を勝ち取ったのです。
ダリアが試験のために都市オムスクに到着したのは、試験のわずか9日前でした。

合格できたとしても、ソ連当局の胸先三寸でそれが取り消されることを彼女は知っていました。

ダリアの心配は杞憂に終わりました。
当局はダリアの合格を取り消すことなく、入学を許可したのです。

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リトアニアに帰国後、医師としてはたらくが迫害はつづく……!

2020年9月20日のリトアニア、カウナスの様子。
2020年9月20日のリトアニア、カウナスの様子。
1956年にダリアはソ連・シベリアから正式に解放された。

就職と生活、反体制派との結びつき

1956年、ダリアはソ連から正式に解放されました。

リトアニアに帰還した彼女は、カウナス医科大学で勉強をつづけます。
卒業したのは33歳のとき。
1960年のことです。

くしくもこの年(1960年)、フルシチョフによってソ連の強制収容所が閉鎖されました!

ダリアはリトアニアのシラレ地区の街ラウクヴァの病院で医師としてはたらきます。

ところが、ソ連KGBの監視は終わりません。

「シベリアでの出来事を誰かにしゃべったら、また送り返してやる!!」

KGBはダリアが怪しい行動をしないかどうかを見張っていたのです。

1974年、ダリアはソ連当局の要請により、職場を不当に解雇されます。
さらに、住んでいた家まで追い出されてしまいます。

仕事と家を同時に失ったダリアは、友人アルドナ・シュルスキーテの世話になります。

ダリアは、かつてリトアニア、カウナスの実家の庭に埋めた回顧録を探しました。
しかし彼女は瓶詰めの回顧録をとうとう見つけることができませんでした。

ダリアの死後、回顧録が発見される

リトアニア、カウナスにあるヴィータウタス大公戦争博物館(Vytautas the Great War Museum)の2015年の様子。
リトアニア、カウナスにあるヴィータウタス大公戦争博物館(Vytautas the Great War Museum)の2015年の様子。
写真:Vytautas the Great war museum (photo by A. Užgalis)
ライセンス:CC 表示-継承 4.0(CC BY-SA 4.0)
Wikipedia『Vytautas the Great War Museum』より

ダリアがかつて書いた最初の回顧録は、彼女の死後に発見されました。

庭の花壇の植え替えをしていた人々が偶然に見つけ出したのです。

その日は1991年4月29日。
リトアニアが独立した翌年であり、12月にはソ連が崩壊する運命の年でもありました。

ダリアが亡くなり、4年のときが過ぎていました。
ダリアは1987年12月25日、ガンのため60歳で亡くなっています。

見つかった回顧録は『ヴィータウタス大公戦争博物館(Vytautas the Great War Museum)』によって解読されました。
リトアニアで出版されたのは1996年のことです。

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強制移送の生還者。ダリア・グリンケヴィチウテの人生年表

ダリア・グリンケヴィチウテとソ連、リトアニアの歴史をまとめた年表

歴史的な出来事も含め、ダリア・グリンケヴィチウテの人生を年表にまとめたのが以下のものです。

1721年エストニアとラトビアの大部分がロシア帝国に編入される。
1795年ポーランド・リトアニア共和国が解体され、リトアニアの大部分がロシア帝国領になる。
1914年第一次世界大戦がはじまる。
1917年ロシア革命が起こり、ソビエト政権が樹立。
1918年第一次世界大戦が終わる。
リトアニア、エストニア、ラトビアがロシアから独立を宣言する。
1922年12月30日世界初の社会主義国としてソビエト連邦が成立する。
1927年5月28日ダリア・グリンケヴィチウテがリトアニア、カウナスで生まれる。
1933年ヒトラーとナチスがドイツで実権を握る。
1938年ヒトラーがオーストリアを併合し、チェコスロバキアを解体する。
1939年8月ナチスドイツとソ連が『独ソ不可侵条約』を結ぶ。
ここにあった秘密議定書で、バルト三国と東欧の分割支配を両国は約束する。
同年(1939年)9月ナチスドイツがポーランド侵攻し、第二次世界大戦がはじまる。
バルト三国は中立を宣言する。
1940年4月~6月ナチスドイツがデンマーク、ノルウェー、ルクセンブルク、ベルギー、オランダ、フランスを占領する。
同年(1940年)6月ソ連がバルト三国(リトアニア、エストニア、ラトビア)を併合する。
日本領事館の杉原千畝が独断でユダヤ人たちにビザを発行する(『6000人の命のビザ』)。
1940年9月『バトル・オブ・ブリテン』でイギリスがヒトラーの攻撃をしりぞける。
1941年6月14日
~6月16日
ソ連がシベリアにバルト三国の国民を大量に強制移送する。
6月14日深夜、満14歳のダリア・グリンケヴィチウテとその家族がシベリアに送られる。
1941年6月22日ナチスドイツがソ連に侵攻し、バルト三国を占領する。
同年(1941年)12月8日大日本帝国が真珠湾攻撃をおこなう。
アメリカが第二次世界大戦に参戦する。
1942年の夏ダリアと家族がシベリア極北の地、ラプテフ海の島々(トロフィモフスク島を含む)に移送される。
8月、トロフィモフスク島に到着する。
同年(1942年)
~1943年の冬
トロフィモフスクの”囚人”たちのおよそ半分が劣悪な環境により死亡する。
1943年2月トロフィモフスクの強制労働収容所にサモデュロフ医師が到着する。
1943年3月サモデュロフ医師がトロフィモフスクから出発する。
同年(1943年)4月トロフィモフスクのNKVDが死者の遺体を片づけるため、ストルバ収容所から健康な囚人たちを連れてくる。
同年(1943年)春ダリア、母プラネ(兄も?)がボブロフスク(Bobrovsk)に移送される。
1943年10月10日ダリアの父ユオザス・グリンケヴィチウス(Juozas Grinkevičius)が北ウラルの強制収容所で拷問の末に餓死する。
同年(1943年)7月ソ連がナチスドイツの侵攻を撃退しはじめる。
1944年6月連合軍がフランス北部に上陸する。
1944年ソ連がバルト三国の支配権を取り戻す(※バルト三国は独立したわけではない!)。
1945年5月ナチスドイツが降伏する。
同年(1945年)ソ連がリトアニアから国民をシベリアに大量強制移送する。
第二次世界大戦が終わる。
1947年1948年にかけて、追放者の一部がキウシウル(Kiusiur)とヤクーツク(Yakutsk)に移動させられる。
1948年ソ連がリトアニアから国民をシベリアに大量強制移送する。
ダリアはヤクーツクの大学に通うことを許される。
ダリアは、移動が許されなかった母親を秘密裏に連れて北極圏を出発する。
母親を連れていることが見つかったダリアは、罰としてハンガラの炭鉱(Khangalas coal mine)に送られる。
冬になって閉山になり、ダリアはヤクーツクに戻ることを許される。
1949年ソ連がリトアニアから国民をシベリアに大量強制移送する。
最後の”囚人”が移送され、魚資源の枯渇したトロフィモフスクが無人島になる。
※生き残った兄とはここで別れた?
2月、ダリア・グリンケヴィチウテが母プラネ・グリンケヴィチエネ(Pranė Grinkevičienė)とともにシベリアを脱出する。
リトアニアに帰ったダリアはシベリア回顧録(のちの『Shadows on the Tundra』)の執筆を開始する。
1950年5月5日、ダリアの母プラネ・グリンケヴィチエネがリトアニア、カウナスで死去する。
5月の母の日、ダリアは母を地下室の一角に埋葬する。
ダリアは執筆したシベリア回顧録(のちの『Shadows on the Tundra』)を瓶に入れて庭に埋める。
1951年10月逃亡生活をしていたダリアが捕らえられる。
ダリアの母プラネの死を信じないKGBが彼女を捜索する(~1953年まで)。
1953年3月5日、ソ連の最高指導者スターリンが死亡する。
※スターリンは何千万人もの人々を共産主義の名のもとに死に追いやった。
後継となったフルシチョフがスターリン批判をおこない、言論抑圧が一時的に『雪解け』する。
強制収容所の規模縮小がはじまる。
夏、ダリアがヤクート(シベリア)に送られる。
内務大臣ラヴレンチー・ベリヤ(当時)に「追放先を変更して、シベリアの医学部のある都市に住まわせてほしい」と手紙を書く。
9月、現地で解放されたダリアがはたらきはじめる。
1954年7月ヤクーツクの内務省がダリアを呼び出し、「ベリヤに手紙を書いたことがあるか」尋ねる。
オムスクで医学を学ぶことを許される。
1956年ダリア・グリンケヴィチウテは追放から許され、リトアニアに帰還する。
1950年代半ば北極圏のレナデルタの無人島トロフィモフスクが正式に放棄される。
1960年フルシチョフにより、ソ連の強制収容所が閉鎖される。
ダリアがリトアニア、カウナス医科大学を卒業する(33歳)。
ダリアはリトアニアのシラレ(Šilalė)地区の街ラウクヴァ(Laukuva)で医師としてはたらきはじめる。
1964年10月フルシチョフが失脚する。
1960年代トロフィモフスクの廃墟が釣りに来ていた観光客によって焼かれる。
1974年ダリアはソ連当局により仕事を解雇され、住居を追い出される。
仕事と住居の両方を失ったダリアは友人アルドナ・シュルスキーテ(Aldona Šulskytė)の家の世話になる。
シベリア移送の二度目の回顧録を執筆開始《この回顧録はロシア語で書かれた》。
1976年7月、ダリアの二度目の回顧録が完成する。
完成した回顧録を、ロシアの反体制派にひそかにわたす。
1979年ダリアが執筆した二度目の回顧録(1974年執筆開始のもの)がソ連の反体制派サミズダート(Samizdat)の出版物パミヤット(Pamyat、Память)に掲載される。
1980年アメリカに離散していたリトアニア人によってダリアが執筆した二度目の回顧録が発行される。
1987年12月25日ダリア・グリンケヴィチウテがガンのため死去(享年60歳)。
リトアニア、カウナスのエイグリアイ(Eiguliai)墓地に埋葬される。
1989年リトアニアから出発した遠征隊がトロフィモフスクの犠牲者埋葬地に記念碑を建立する。
1990年3月リトアニアがソ連からの独立を宣言する。
1991年4月29日、ダリア・グリンケヴィチウテの庭に埋めた最初の回顧録がリトアニア、カウナスで発見される。
8月、エストニアとラトビアがソ連からの独立を宣言する。
12月、ソ連が崩壊する。
1996年リトアニアのヴィータウタス大公戦争博物館(Vytautas the Great War Museum)が最初の回顧録を解読して出版する。
2014年トロフィモフスクの記念碑が島ごと海に沈んだことが調査で明らかになる。
2018年ダリアの回顧録『Shadows on the Tundra』が英語で出版される。

複数の回顧録を残したダリア・グリンケヴィチウテ。その著作リスト

ダリア・グリンケヴィチウテは複数の回顧録を残しています。

もっとも有名なのは瓶詰めにして庭に埋められ、彼女の死後に偶然発見された一度目の回顧録です。

これは英語で『Shadows on the Tundra(ツンドラの影)』として出版されています。
リトアニアでは『Lietuviai prie Laptevų jūros(ラプテフ海のリトアニア人)』ともいわれます。

ダリアの残した回顧録リストは以下のとおりです。

  • 瓶詰めにして庭に埋めた、一度目の回顧録。
  • 1974年に執筆を開始した二度目の回顧録。
  • 執筆開始時期不明、1987年にヴィリニュスで作家に手渡された三度目の回顧録。
  • 解放後の生活や、ソ連を支持したリトアニア人についてまとめた回顧録『Gimtojoj žemėje(「故郷で」。ネイティブランド)』

埋められた、一度目の回顧録

シベリアから母プラネといっしょに逃げ出し、リトアニアに潜伏していたころに執筆。
瓶詰めにして庭に埋めたもの。

ダリアの死後、1991年に発見される。

2022年現在、英語で『Shadows on the Tundra(ツンドラの影)』として発売中。

1974年、二度目の回顧録

シベリアから正式に開放されて帰還したあとに執筆。
ロシア語で書かれている。

完成後、ソ連の反体制派に手渡されて出版された。

1987年完成、三度目の回顧録

執筆開始時期不明。
1987年には完成していることがわかっている。

ダリアが亡くなった翌1988年、リトアニアで『Lietuviai prie Laptevų jūros(ラプテフ海のリトアニア人)』として出版。
国中に衝撃を与えた。

帰還後の迫害を記した回顧録

瓶詰めにして埋められた一度目の回顧録があまりに有名なため、ほとんど言及されない回顧録。
タイトルは『Gimtojoj žemėje(「故郷で」。ネイティブランド)』。

ここには、シベリアから正式にリトアニアに帰還後、ソ連・KGBから迫害されてつづけたダリアの生活が記されている。
1954年~1979年にわたっての記録。

当時のリトアニアでソ連を支持した人々についても記載されている。

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不屈で力強いダリア・グリンケヴィチウテの生きざま

何があってもあきらめずに「生きたい」と願いつづけ、そのとおりに行動したダリア・グリンケヴィチウテ。

脱出したこともすごいですが、再度のシベリア送りにもめげずに務めを果たしてリトアニアに帰還を果たしたこともすごいです。

逆境を生き抜くにはだれかまかせではなくて、自分自身の「生きる」強い意志が必要なのですね。
強烈な生命力に彩られたパワフルな人生を送った女性がダリア・グリンケヴィチウテなのです!

しかもリトアニアに正式に帰還してからも学校で医学の勉強をつづけ、お医者さんになっているという……!

ヒトコト

ダリア・グリンケヴィチウテの持つ不屈の生命力には圧倒されずにはいられません。

彼女の人生を見ていると、ある夢を一度あきらめた過去の自分に対して「もっと執着を持ってしがみつける方法があったのでは?」――そんな思いがよぎります。

ダリア・グリンケヴィチウテの存在を過去の自分がもし知っていたら?
いまと違う人生の道を選んでいたかもしれない……。

そう思わせるほど、現代にも力強い光を放つ女性のひとりがダリア・グリンケヴィチウテです。

今後、その著作を日本語にも翻訳して出版してほしいですね!
彼女の人生と生きざまを知ることで人生観が変わる人はきっと多いでしょう。

どこかの出版社さん、ぜひお願いします!!

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ダリア・グリンケヴィチウテについての参考文献など

『ツンドラの影』

瓶詰にして埋められ、ダリアの死後に発見された、シベリア送りの回顧録『Shadows on the Tundra(ツンドラの影)』。

英語の本です。

『ラプテフ海のリトアニア人』

ダリアが執筆した回顧録『Lithuanians by the Laptev Sea(ラプテフ海のリトアニア人)』。
『Lituanus Foundation, Inc.(リトゥアヌス財団)』運営のウェブサイト『LITUANUS(リトゥアヌス)』に掲載。

英語のサイトです。

新聞『リトアニアのこだま』のウェブサイト

ダリア・グリンケヴィチウテについてのウェブ記事があります。
1917年9月6日に設立した、リトアニアの新聞『Lietuvos aidas(リエトゥヴォス・アイーダス。リトアニアのこだま)』のウェブサイト。

リトアニア語のサイトです。

『リトアニア国営ラジオとテレビ』のウェブサイト

ダリアが執筆した複数の回顧録、その出版についてのウェブ記事があります。
1926年のラジオ放送からはじまった『リトアニア国営ラジオとテレビ(英語:Lithuanian National Radio and Television/リトアニア語:Lietuvos nacionalinis radijas ir televizija)』のウェブサイト。

リトアニア語のサイトです。