アッツ島の守備隊に打電せよ

また、太平洋戦争中の1942年(昭和18年)、米国のアリューシャン列島の小さな島、アッツ島(日本名:熱田島)の守備についていた山崎保代部隊長から大本営宛てに、米軍との激戦で、玉砕を目の前にした次のような悲壮な電報が打電されました。

「自分は、アッツ島守備の陛下の大命を拝し、守備に当たって参りましたが、アメリカの海兵隊三個師団の上陸を許し、任務を全うできなくなってしまい、誠に申し訳ございません。明朝を期して全軍で突入するつもりですが、それと同時に一切の我が方の通信機器を破壊し、暗号書も全て焼却します。皇国の天壌無窮を心よりお祈りしております」

 翌日の朝、天皇陛下は、この報告を静かに聞かれ、いくつかの質問をされた後、最後に、

「アッツ島の山崎部隊長に電報を打て」と命じた。そして、

「アッツ島の守備隊は、最期まで非常によくやった。そう私が言っていたと打電せよ」と。

 しかし、その時点では、山崎部隊は、アッツ桜となって全て散った(玉砕した)後で、この世にいるはずはなく、また、たとえ電報を打ったとしても、通信機器類も破壊されているので、絶対に届くはずがないのです。

陛下のお言葉に疑問をていした報告者は、恐れながらも、陛下のそのように申し上げて顔色を伺うと、陛下は、こうおっしやいました。

「届かなくてもいいから、電報を打ってやれ」と。

天皇陛下の仁徳(仁慈)の御心に触れた報告者は、はっとした瞬間に止めどなく涙があふれてきて陛下のお言葉を書き写すことさえもできなくなったと言われています。 

 
【天皇陛下の人徳】 より

https://open.mixi.jp/user/58068507/diary/1936425019

今村均大将。 マッカーサーをも感動させた「責任をとる」生き方

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伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』より

・今村均将軍は、インドネシアでは民族独立を支援してスカルノに信頼され、
敗戦後は戦犯として捕まった部下を救うために自ら収容所行きを志願して、マッカーサーを感動させた。

・今村は、まさに徹頭徹尾、見事に自らの責任を果たした人である。
インドネシアでは、民族独立を目指すスカルノとの友情を貫いた。
ラバウルでは陸軍7万人の兵を統率して、米軍の攻撃をものともせずに、
玉砕も飢えもさせずに敗戦まで持ちこたえ、無事に帰国させた。

・その後も、戦犯として捕まった部下を救うために、自ら最高責任者として収容所に乗り込み、一人でも多くの部下をすくうべく奮闘した。
帰国後は、部下や遺族の生活のために奔走した。

・マッカーサーを諦めさせた堅固な要塞。8か月のジャワでの軍政のあと、1942年11月、今村は第八方面軍司令官としてラバウルに向かった。

・今村は日本からの海上補給はいつまでも続かないと判断し、現地で自活しつつ、持久戦を展開する方針を立てた。

国内から農事指導班、農具修理班を呼び、陸稲や野菜の種子を持ち込み、

中国人、インド人、インドネシア人などの労務者4,000人を集めた。

今村自ら率先して開墾作業に従事し、陸軍将兵7万人の完全な自給自足体制が出来上がった。

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・昭和18年10月からは、連日400機以上の大編隊の空襲にさらされる。
今村は空襲に耐えうる地下大要塞の建設に着手する。
昭和20年に入ってからも猛爆撃が続いたが、地下要塞内は、ほとんど被害を受けなかった。

・敗戦後のご奉公。
1945年8月16日、今村は電報で受け取った終戦の証書を、
部隊長ら約60名に読んで聞かせ、こう付け加えた。
「諸君よ、どうか部下の若人たちが、失望、落胆しないように導いてくれ給え。7万の将兵が汗とあぶらとでこのような地下要塞を建設し、
原始密林を拓いて7,000町歩の自活農園までつくった。 この経験、この自信を終始忘れずに祖国の復興、各自の発展に活用するよう促してもらいたい」

・敗戦のどさくさで、耕地のことなど忘れていた将兵に
すかさず今村から新しい指令が出た。
「ラバウル将兵は今後も現地自活を続け、
将来日本が賠償すべき金額を幾分なりとも軽減することをはかる。
これは我々の外地における最後のご奉公である」
敗戦後に今さら自活もあるまい、
と思ったけれども、今村が一人黙々と畑に立つ様子を見ると、
誰も何も言うことはできなかった。

・祖国の復興に役立つ社会人とするために。
・日本政府の海外部隊引き揚げの案が、
ラジオのニュースで伝わってきた。
ラバウル部隊の引き揚げ完了は、
なんと3年半後の昭和24(1949)年春になるとのこと。

・この3年半を兵士らの教育に使おうと今村は考えた。
規律ある生活を維持するためには、目標が必要である。
また帰国後も生計を立てて、 祖国の復興に役立つ社会人となってもらうためには、兵士たちの知識、教養面の低さが障害になると考えた。

・兵士の多くは小学校卒業であり、
さし当り中学程度の学識を与えることを目標とした。

・軍の中の教職経験者を集めて、英語や数学などの教師として、教科書も作成させた。
和歌や俳句、漢詩などの教養講座も設けた。
さらに「かがみ」という謄写版刷り60ページもの雑誌を発行し、
将兵の創作した小説や和歌、俳句、世界情勢解説や英語講座などを掲載した。

・当時、将兵たちはオーストラリア軍の捕虜となり、無報酬で作業をさせられていた。これは明確な国際法違反なののだが、
将兵たちは不満も忘れ、作業の合間に教科書や雑誌に読みふけった。

・マッカーサーは、次のように言ったといわれる。
「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に
服役するためマヌス島行きを希望していると聞き、
日本に来て以来、初めて真の武士道に触れた思いだった。
私はすぐ許可するよう命じた」

・帰国後、今村は軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら、
膨大な回想録を出版した。
その印税はすべて、戦死者や戦犯刑死者の遺族のために使われたという。

http://blog.jog-net.jp/201705/article_10.html

漫画家の水木しげる氏は、兵役でラバウルにいたときに視察に来た今村から言葉をかけられたことがあるそうです。
その時の印象について水木しげる氏は、
「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と書いています。
(水木しげる「カランコロン漂泊記」小学館文庫)

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2613.html

imperialjapan-armyandnavy:

“229: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/12/02(金) 03:17:14.87 ID:cmMZLHdr0特攻基地のあった知覧での、ある話 鳥濱トメは知覧で「富屋食堂」を営み、戦時中に陸軍の指定食堂なったため特攻作戦が始まってからは多くの特攻隊員が訪れることとなった。 隊員達を我が子のようにかわいがり、家財を投げ打ってでももてなした。特攻隊員はこのトメを実の母のように慕っており、いつしかお母さんと呼ぶようになった。 出撃前のある特攻隊員はこう言った。「小母ちゃん、おれ、心残りのことはなんにもないけれど、死んだらまた小母ちゃんのところに帰ってきたい。 そうだ、この蛍だ。おれ、この蛍になって帰ってくるよ。9時だ。じゃあ明日の晩の今頃に帰ってくることにするよ。店の正面の引き戸を少し開けておいてくれよ。俺が帰ってきたら、みんなで「同期の桜」を歌ってくれよ。それじゃ、小母ちゃん。お元気で。」 翌日、ラジオが9時を告げて、ニュースが始まった。その時、わずかに開いた表戸の隙間から、一匹の大きな源氏蛍が光る尾を引きながら、すーと店に入ってきた。皆がその蛍を見上げ、誰かが「歌おう」と言った。トメや隊員達は泣きじゃくりながら、「同期の桜」を歌ったという。 特攻隊員とトメ。現在、かつての食堂は「ホタル館」として復元され、特攻隊員の記念館となっている。”

大日本帝国の逸話と画像を貼っていく:哲学ニュースnwk (via bochinohito)

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(via imperialjapan-armyandnavy)

hachikenyakaiwai:

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【かいわいの時】昭和二十年(1945)3月13日-14日:木造家屋を焼き払うために開発されたナパーム弾攻撃によって、大阪市民は「想像を絶する炎熱地獄」にたたき込まれた(『新修大阪市史』)

第一次大阪空襲に当たっては、第二一爆撃機軍団は、東京(三月十日未明)、名古屋(三月十二日未明)の場合と同じく、先導機洋にM47A2焼夷弾を、主力部隊用にはM69焼夷弾を使用した《略》先導機用のM47A2というのは、一〇〇ポンド炸裂型・油脂(ナパーム)焼夷弾である。先導機がまずM47を投下するのは、爆発すると即座に大きな火災が発生し、後続機に目標を示すとともに、日本側の消火活動を混乱状態に陥らせることができるからであった。

主力部隊用のM69は、六ポンド(二・七キロ)の尾部噴射・油脂焼夷弾である。先導機のM47で消化不能の大火災を発生させた後、主力部隊が小型のM69を濃い密度で大量に投下し、目標地域にさらに大きな火災を誘発し、日本軍の対空砲火も減少させるという作戦であった。

ザァーという恐怖の音、身の毛がよだつ恐怖の焼夷弾落下音がおおいかぶさってくる。強大な火の群れが、あちこちで爆発する。火の玉・火の粉が降ってくる。焼夷弾が屋根を突き抜いて、ゴーッという音とともに火を噴く。何発も落ちてくる。あちらでも、こちらでも、壁にも、塀にも、格子にも、畳にも、ハガキ大の碑のかたまりがペタペタとくっついて燃える。くっついたら離れない。身体に着いたら大変である。M69焼夷弾のナパーム剤(油脂)が小片となって噴射され、付着した場所で燃焼しているのだ。アメリカ軍が日本の木造家屋を焼き払うために開発した兵器が、みごとに威力を発揮しているのである。軒先をはうように、紅蓮の炎が流れる。道路や防空壕に突きささっている焼夷弾もある。半鐘も鳴り響いている。「敵機来襲」、「退避」の警鐘は一点と七点斑打の連打であり、斑打の各点に時間間隔を置かないで早打ちする。敵機は次から次へと来襲する、半鐘は乱打の連続となる。日頃の防空訓練は、何の役にも立たない。天空高く、何千メートルも立ち上る火と煙、想像を絶する炎熱地獄の中に何十万もの市民がたたき込まれた。

同日午後四時三十分の大本営発表は次のとおりであった。

昨三月十三日夜半より本十四日未明に亘り大阪地区に来襲せる敵機の邀撃戦果次の如し。 撃墜十一機、損害を与へたるもの約六十機。

日本の大本営発表の数字のすべては、アメリカの第二二爆撃機軍団の報告書記載のものとあまりにも違いが大きすぎた。撃墜一一機と損害を与えた約六○機を合計して、日本の新聞は「九十機中七十一機屠る」と見出しを付けた(『毎日新聞』昭和20・3・15*)。アメリカ軍側によると「爆撃機数二七四機、損失二機、損傷一〇機」であった。『新修大阪市史 第七巻』第三章第四節より抜粋して編集。表記はママ。

(写真)毎日新聞1945年3月15日

1945年3月13日深夜から14日未明、米軍のB29爆撃機274機が3時間半にわたり、大阪市浪速区や西区、南区などに焼夷弾を集中投下した。当時の府警察局のまとめでは、死者3987人、行方不明者678人、重軽傷者8500人。約50万人が家を失った。大阪府内は計50回以上の空襲にさらされ、全空襲での死者・行方不明者は約1万5000人(毎日新聞2015年3月13日大阪朝刊)

mavitpzv:

-THE TOKYO FIRE RAIDS- March 9-10, 1945 -東京 大 空襲-

On March 9-10, 1945, over 300 B-29 Bombers Attacked Tokyo, focusing on Asakusa. A successful incendiary raid required ideal weather That included significant dry air and wind. Weather reports predicted These conditions over Tokyo on the night of March 9-10, 1945. A force of 334 B-29s was unleashed - each plane stripped of ammunition for machine guns ITS to allow it to carry more fire-bombs. The attackers arrived lead over the city just after dark and were Followed by a procession of death That Lasted until dawn. The fires started by the initial raiders could be seen from 150 miles away. The results were devastating: almost 17 square miles of the city were reduced to ashes. Estimates of the number killed range between 80,000 and 200,000, a higher death toll than That produced by the dropping of the Atomic Bomb on Hiroshima or Nagasaki six months later.

Fire bombs were M47  “napalm”, a substance developed by DuPont and Standard Oil chemical companies. It is a compound of jellied gasoline containing magnesium, Which makes it stick to almost anything. If it sticks to your bare flesh, it will burn quickly down to your bones. It is very painful, and almost impossible to dislodge from off your body.

(via imperialjapan-armyandnavy)

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“ 昭和二十年三月十日の(東京)大空襲から三日目か、四日目であったか、 私の脳裏に鮮明に残っている一つの情景がある。  永代橋から深川木場方面の死体取り片付け作業に従事していた私は、 無数とも思われる程の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、 初めに感じていた異臭にも、焼けただれた皮膚の無惨さにも、 さして驚くこともなくなっていた。 午後も夕方近く、路地と見られる所で発見した遺体の異様な姿態に不審を覚えた。  頭髪が焼けこげ、着物が焼けて火傷の皮膚があらわなことはいずれとも変りはなかったが、 倒壊物の下敷きになった方の他はうつ伏せか、横かがみ、仰向きがすべてであったのに、 その遺体のみは、地面に顔をつけてうずくまっていた。 着衣から女性と見分けられたが、なぜこうした形で死んだのか。  その人は赤ちゃんを抱えていた。 さらに、その下には大きな穴が掘られていた。 母と思われる人の十本の指には血と泥がこびりつき、つめは一つもなかった。 どこからか来て、もはやと覚悟して、指で固い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、 その上におおいかぶさって、火を防ぎ、わが子の生命を守ろうとしたのであろう。  赤ちゃんの着物はすこしも焼けていなかった。 小さなかわいいきれいな両手が母の乳房の一つをつかんでいた。 だが、煙のためかその赤ちゃんもすでに息をしていなかった。  わたしの周囲には十人余りの友人がいたが、だれも無言であった。 どの顔も涙で汚れゆがんでいた。 一人がそっとその場をはなれ、 地面にはう破裂した水道管からちょろちょろこぼれるような水で手ぬぐいをぬらしてきて、 母親の黒ずんだ顔を丁寧にふいた。 若い顔がそこに現れた。 ひどい火傷を負いながらも、息の出来ない煙に巻かれながらも、 苦痛の表情は見られなかった。  これは、いったいなぜだろう。美しい顔であった。 人間の愛を表現する顔であったのか。  だれかがいった。  「花があったらなあ――」  あたりは、はるか彼方まで、焼け野原が続いていた。 私たちは、数え十九才の学徒兵であった。”

「花があったら」-『写真版 東京大空襲の記録』から見えてくるもの

http://ihope.jp/tokyo-bomb.htm

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