「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

「ピアノ協奏曲」よ、さらば

2020年09月21日 | 音楽談義

振り返ってみると今年の夏はメチャ暑かったが、世界的に見てもそうだったようで、権威ある気象機関が過去最高の夏の気温だったと発表していた。

一日千秋の思いで「早く涼しい秋がやって来ないかなあ」と、願ううちに何と本日(21日)の起き抜けの室内温度は22度と、秋がもう目の前に忍び寄ってきた。

これから「音楽とオーディオ、そして読書」を思う存分楽しめる時間がやってくるかと思うとつい心が弾む。


そこで、ふと無類の音楽好きだったかっての仲間(県内)を思い出した。

久しぶりに「どうしてますか~、相変わらず音楽を聴いてますか?」と、電話でご様子を伺ってみると「やあ、久しぶり~。体調はイマイチだけど今年の夏はエアコンをかけっぱなしで毎日飽きもせずに聴いてたよ。音楽を聴いていると、不思議にお腹(なか)がいっぱいになって”うまいものを食べたい”という気にならないんだ。一石二鳥だよ」

この方はバッハからベートーヴェン、モーツァルト、マーラー、ブルックナー、ショスタコーヴィッチまで、クラシックなら何でもござれで、まさに音楽が「精神的なご飯」になっている稀有の方である。

しかし、オーディオの方は達観されていて、イギリス製のSPをずっと愛用されているが、「いじり出すとキリがない世界。そんな時間があったら音楽を聴いていた方がいい」というのがその理由。

まことに、ごもっともです(笑)。


とはいえ、いくら音楽好きといっても例外もあってそれがショパンの作品。以前から「耳あたりはいいんだけれど、彼の作品はさっぱり後に残らないね~。」とおっしゃる。

「クラシックの森」に奥深く踏み込めば踏み込むほど好きな曲目が変遷していくのは自分にも心当たりがある。

たとえば若年の頃にあれほど聴きまくった「ピアノ協奏曲」が近年ではまったく聴く気にならないのが不思議。ショパンはもちろんのこと、モーツァルトやベートーヴェンといった大家の作品もけっして例外ではない。


どんなに名曲とされるピアノ協奏曲にもどうも気分が乗らないのである。

おかしいなあ、あれほど好きだったのにね~。一方、ピアノ・ソナタの作品群に対してはまったくそういうことがないのでピアノという楽器が嫌いになったというわけでもないようだ。


これはいったいどうしたことか?

以下、自分なりに分析してみたものの、どうせ素人の「たわ言」に過ぎないので、あまり真に受けないようにね(笑)。


平たく言えば協奏曲とは「単独楽器をオーケストラで支える音楽」である。単独楽器にもいろいろあって、誰もが思いつくのがピアノをはじめ、ヴァイオリン、クラリネット、オーボエ、フルートといったところ。(これらの楽器にはすべて「〇〇協奏曲」という作品がある。)

この中で、音域的かつ和音的にオーケストラと、ある程度対等に渡り合える楽器はピアノだけである。ちなみに各楽器のおよその周波数範囲(基音+倍音)を記してみよう。

 ピアノ 40~6000ヘルツ

 ヴァイオリン 180~1万ヘルツ以上

 クラリネット 150~1万ヘルツ以上

 オーボエ 300~1万ヘルツ以上

 フルート 300~1万ヘルツ以上

 男性歌手 100~8千ヘルツ

☆ 女性歌手 180~1万ヘルツ

ピアノだけが群を抜いていて40ヘルツ付近の低音域の周波数をきちんと出せることに気付く。

一方、ヴァイオリンなどの楽器はせいぜい200ヘルツ前後から上の周波数しか出せない。その代り、ピアノと比べて高域の伸びには目を見張るものがある。


そういうわけで、これらの楽器群は低音域が絶対的に不足しているのでオーケストラでこの辺りの音域をきちんとカバーしてもらうと全体的にバランスのとれた姿になるので、比較的、協奏曲に向いた楽器といえる。それに「主」(単独楽器)と「従」(オーケストラ)の役割がはっきりするのも利点。

そういえば、音域のバランスという点ではたとえば「ヴィオリン・ソナタ」(モーツァルト)の場合でも、わざわざ「ソナタ」と銘打っておきながらピアノが伴奏して低音域部分をきちんと支えているし、歌手の伴奏にもピアノが活躍したりするがまったく違和感がない。

しかし、ピアノに限ってはオーケストラのカバー(支え)は要らないほど、単独で音域的に十分な表現力を備えているのに、なぜピアノ協奏曲というジャンルがあるのか、その必然性がどうもいまひとつ理解できない。

それに、ピアノ協奏曲というのはオーケストラとピアノのどちらが主役なのかよく分からないところがあって、映画でいえば、どっちつかずの主役が2人いるようなもので、いったいどちらに花を持たせるのか、聴けば聴くほど散漫になって、曲全体がただ華やかだけで表層的に流れていく印象を受ける。

この点ではピアノ・ソナタの方がはるかにピタリとフォーカスが決まって作曲家の思想がきちんと伝わってくる(ような気がする)。

べートーヴェンの後期ソナタやモーツァルトの珠玉のソナタ全集然り、この辺に自分がピアノ協奏曲から遠ざかった理由が見い出せるような気がする。

とまあ、いくら大上段に振りかぶってみたところで、世の中、ピアノ協奏曲の愛好家が”ごまん”といるんだから、さぞや反対意見も多いことだろう。

ここで、関連してふと思い付いたのだが、オーディオシステムも似たり寄ったりで、音楽を聴く上でスピード感と量感が程よくマッチした低音域の支えが音域バランスを整える上で一番難しいポイントだと思っているがどうだろうか。

つまり、300ヘルツあたりまでの情報量が音楽全体を支配している!


ともあれ、こうして以上のような小理屈を述べてみたものの、それほど(書いた内容に)責任を持てるわけでもなし、改めて確認の意味で久しぶりに(数あるピアノ協奏曲の中でも)白眉とされるクララ・ハスキルの20番(モーツァルト)でも聴いて確認してみるとしよう~。

                    

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