今回はいつもの経済問題から離れて“安楽死”の問題に触れてみたい。
たまたまネットサイトで元TBSアナウンサーの鈴木史朗氏が安楽死の合法化を望むという記事を見つけたので紹介する。

『鈴木史朗アナが考える人生120年時代「安楽死を合法にしてもらいたい」』
https://www.news-postseven.com/archives/20220421_1745954.html?DETAIL
「早いもので、今年の2月で84歳になりました。日本人の平均寿命は男性が81歳、女性が87歳だから、そろそろ“逝ける”かなと思っていたのに、人生120年時代? 冗談じゃないですよ(苦笑)。
 いくら医療が進化するといっても、年老いて脳や身体の機能が衰えたら自立した生活が難しくなり、妻や娘を頼らざるを得なくなります。運よく健康で長生きできたとしても、自宅の修繕や老人ホームの入居には結構なお金がかかります。そう考えると120歳までの残りの人生なんて、まるで“生き地獄”のようなものです。
 以前、NHKのドキュメンタリーで、神経系の難病を患った日本人女性が、安楽死が合法化されているスイスに渡るという番組を見たんです。彼女は耐え難い苦痛と戦い抜いた末に、「自分らしさを保ったまま死にたい」と望んで安楽死を選びました。
 もちろん安楽死は自殺行為であり、誰かを“手伝う”と自殺幇助になりかねません。そもそも日本では法的に認められておらず、この国の風潮からすれば、本人が自由意思で安楽死を選ぶのではなく、「そろそろお父さんも安楽死してもらわないと」という圧力に転じてしまう恐れもあります。
 それでも私はNHKの番組を見て、安楽死は「一つの救いではないか」と思いました。痛みや苦しみを抱えてまで生きたくない、「いっそ殺してくれ」という壮絶な状況に陥った際、安楽死という選択ができるのであれば、その人の人生の最後の望みが叶うと思ったのです。(略)
認知症をすごく恐れているわけではないけれど、仮に自分が認知症を発症したら、進行させないよう意地になり、いろんな治療法にトライするでしょうね。目の前の苦難に抗ってこその人生なので、毎日毎日、自分との戦いを繰り返すはずです。
 とはいえ私自身、私自身、人生にやり残したことや悔いはありません。ここまで来たら、「ちょっと昼寝でもしてくるわ。失礼します」と家族に伝えてそっと目を閉じ、健康なまま寝入るように死んでしまうのが理想です。
 逆にどうしても避けたいのが、周りに迷惑をかけながら生き永らえることです。それは私にとって「人生最大の屈辱」です。だからこそ、不測の事態が生じてある日突然、自分が寝たきりになってしまったら、安楽死することを本気で望みます。(略)」

筆者自身は安楽死や尊厳死を肯定する立場であり、ずいぶん以前に拙ブログでもそれについて論じたことがあるが、鈴木氏のインタビューを読み、改めて安楽死制度の合法化を望みたいと思う。

安楽死が認められている国は世界に9か国あるとされているが、実際には様々な適用要件の違いもあり、一般人がイメージするほど安楽死の選択は容易ではなさそうだ。

安楽死や尊厳死に対しては、当然反対する声が大きく、我が国では議論の糸口すら掴めないのが実情だ。

「何があろうと、この世に生を受けた以上天命を全うすべき」
「どんな事情があろうとも、親からいただいた命を粗末にするのはけしからん」
という素朴な感情が邪魔をするのか、安楽死とか尊厳死という言葉を発することすら躊躇われる雰囲気があり、なかなか議論が進まない。(この辺りは核武装論の議論が忌避されるのと同じか…)

安楽死や尊厳死に対する賛否の意見を挙げてみると、こんなところか。
【賛成】
・難病や終末医療などの身体的苦痛からの解放される
・精神的苦痛からの解放される
・重度の認知症など人としての尊厳を保てない状態で生きることを拒絶できる
・苦痛を伴う自殺以外の方法で生命を終わらせるという選択肢を持てる
・周囲に迷惑や混乱をもたらす方法での自殺を減らすことができる
【反対】
・安易に死を選択するケースが増える
・生命を粗末にする風潮が蔓延する
・本人の意思をきちんと確認できないリスクを排除できない

双方の意見には聞くべき点が多々あり、いずれか一方だけが100%正しいということはない。
であれば、せめて安楽死の法制化に向けて具体的に議論し、賛否両方の立場から喧々諤々の意見交換をすべきだろう。
そして、その先の妥協点を見出せばよい。

これまでタブー視されてきた問題を議論するとなると、悪意ある人間に悪用されるのではないか?といったデメリットばかりを喧伝する声が大きくなりがちだが、現状肯定に噛り付くしか能がないネガティブな発想が社会問題の解決を困難にしてしまう。

こうした問題を議論するにあたっては、悪意に満ちた人間ではなく「標準的な常識人」をモデルにして、どういったメリットが生じるのか、逆にどんなデメリットが想定されるのか、を話し合うべきだろう。

最後の最後まで生命を全うするのは、言葉だけ聞けば美しいロールモデルにしか見えないが、その過程で積み重なる肉体的苦痛や精神的苦痛の重さを、倫理という美名の下に覆い隠している側面もある。

“生”というものは、極論すれば個々人に帰結するものである以上、人生の幕引きや生命の終焉を自らの判断で選択するという権利は当然認められるべきだろう。

筆者は、鈴木氏の「私はNHKの番組を見て、安楽死は「一つの救いではないか」と思いました。痛みや苦しみを抱えてまで生きたくない、「いっそ殺してくれ」という壮絶な状況に陥った際、安楽死という選択ができるのであれば、その人の人生の最後の望みが叶うと思ったのです」という言葉に共感する。


世の中には、「生きねばならぬことが、死ぬことよりも遥かに辛く苦痛な人が、想像以上に多くいる」という事実を直視してもらいたい。
呼吸をし目覚めている時間、常に苦痛との闘いに苛まれる方がおり、睡眠中ですらも悪夢にうなされ続けている方が実際におり、そういう方々にとっては“生きていることは、四六時中拷問を受け続けるにも等しい生き地獄だ”というのが紛れもない現実なのだ。

鈴木氏は、「痛みや苦しみを抱えて耐え切れなくなっている人々にとって、安楽死という選択肢があることが一つの救いだ」という趣旨のことを述べているが、まったくそのとおりだと思う。

人生において何らかの選択肢が存在すれば、それだけで苦痛や悩みが軽減される。
いざとなったら、肉体的苦痛もなく他人に迷惑をかけずに人生に幕を下ろせるという選択肢があるというだけで心がスッと軽くなる方も多いだろうし、もう少し生きてみようかと背中を押される動機付けにもなるだろう。

人生100年時代と言われるいま、尊厳ある人生の終焉を選択できる法制度を整えるのは、現代を生きる我々だけでなく、後世の日本人にとって非常に大切なことだと思う。