1月19日(木)晴れ 13℃〜30℃
23:54 Villa Cero Castillo
今日も忙しない日だった。
8時起床10時出発。川原で馬術の練習をする親子を見てから出ていった。馬のスライド移動、READ DEAD REDEMPTITIONで見たやつだ。
Coyaikeには12時半ごろ着き、MovistarのSIMカード購入も前回とは違って何事もなく済んだ。
この街だが、どうやら街の中心部の五角形に造られたエリアが有名店などのテナントが集まった主要な場所のようだ。街のちょっと外れに行くと雰囲気がガラッと変わって、治安の悪そうな場所もちらほら見かけた。とても近所とは思えないほど、このエリアだけ綺麗に造られていた。
ガソリンも満タンにしてスーパーで食糧も補充して出発。しかし60km走った後で気づいた。現金を下ろすのを忘れていた。あれだけミゲルが丁寧に教えてくれたってのに何やってんだ。手元の現金は約5万。アルゼンチンでは3週間は過ごす予定だ。余裕持って一日3千円と計算して…うん、心許ない。
数分迷った末、結局60kmを引き返して三度目のCoyaike訪問。不安を抱えてアルゼンチンを走り続けるよりは遥かにマシだからな。
街に戻り十分に現金を手に入れて、他にも忘れていることがないかしっかり腰を据えて確認した。バイクは問題なし。オイル交換のタイミングは問題なく国境を越えられたらウシュアイアでジャスト3000kmになる。チェーンの癖が気になるが、これまで走れているし大丈夫だろう。食糧も途中の街で手に入る。独り言で脳を活性化させた。
ついでだし先程買えなかった果物類をスーパーで買ってバイクに積んでいたら、フェリーで話した三人組の若いライダー達が道路上から声を掛けてきて手を振って走り去っていった。アウストラル街道は一本道だからこういう再会はたくさんあるのだろう。チャリダーのおばちゃんとなんて3回は会っている。
色んなもんが売ってるお店。さすがはアウストラルで一番デカい街。
麦わら海賊団の傘下が居るらしい。
サザエさんのアレ。
初めて使った銀行だが、ちゃんとRevolutが使えて助かった。いつも使ってるBranco de Chileが閉まってたから、また一泊しないといけないのかと冷や汗かいた。
Puconで飲んだやつ。前のより粒々が固かった。やっぱあのお店のは美味しかったんだな。
たぶんここまでのとんでもない距離表示は人生初。北海道で最長何kmだっけ?
物凄いとこに集落がある。
この辺りから紫の花がたくさん川沿いに咲いていてとても美しかった。
凄まじい山達。悪魔城ドラキュラやらゴジラの背中やら連想する。
そしてまた同じ道を戻って、やっと先に進んで今夜はキャンプ場で寝ることにした。キャンプ場外から薪拾ってきて、スーパーでちょっと贅沢して買ったソーセージと、パンをカリッと焼いてホットドッグのイタリアーノを4つ作って腹一杯食って、熱いシャワーも浴びて髭も剃ってスッキリだ。髭を剃ると10歳は若返るから面白い。国境越えの際は身だしなみもきちんとしてから行こう。
整備されたキャンプ場は薪も拾えなくてたまに苦労する。そんなとき帆布にはいつも助けられている。
雑だがめちゃくちゃ美味い。金出してお店で食えなくなる美味さ。
キャンプ場からの絶景。つっても見慣れてしまってるのだが。
先程のことだが、日本時間で来週水曜、1月25日の9時半からモーニングジャムでzoom会議を通して参加することになった。そろそろ何かしたいなと思って担当さんに近況報告したばかりだからな。上手くいったぜ、フフ。ナカジーさんとコハマさんと初の顔合わせになるのだろうか。楽しみだな。その日くらいは通信環境の良い街中のホステルに泊まっても良いかもな。
そして今スマホ見て思い出したのだが、「脱システムを謳う割にはスマホに依存しすぎで違和感を覚える」と吉田さんからコメントが来ていた。
全くこういうコメントにはどう返せば良いのやら!!あー言ってもこー言っても言い訳にしかならんけんさ。
脱システムは、実は日本を出る前からもうどうでも良くなっていた。旅が始まってからそれは確信となり、今のスタイルを確立するに至った。
理由を挙げれば沢山あるが、一つだけ。脱システムを模索するより、スマホを使うことで得られる体験の方が残す価値があるし、面白いと判断した。面白いならそれが俺にとっては正義だ。
そして間違ってはいけないのが、手綱を握るのは、俺だ。スマホではない、俺の方だ。
最後に一つ。
今日Movistarで順番を待っている時にお母からLINEが来ていたのを確認した。
お父が肺ガンで余命わずからしい。マジかよ。
知った瞬間、俺は何を考えたっけ。ああたぶん、帰るべきかどうかだな。走ってる間もスーパーで買い物している間もずっとお父のことを考えていた。俺は何をすべきか。
帰るのは、ない。そういう覚悟をして出て行ったからだ。これがお父ではなくお母や姉ちゃん、光生であっても、親友であっても同じだ。そういう覚悟をしてきた。
帰って一度旅を中断したら、また再開できるほどのエネルギーが湧く自信も余り無い。その時、俺はお父を恨むかもしれない。
そして何より、俺が帰ることをお父が望んでいるとは思えない。俺の勝手な考えだが。俺が父親の立場でも同じだろうと判断した。
そのためには、親族やお父の友人知人に後ろ指を刺されることも覚悟しなければならない。いよいよ合わせる顔がないな、田中さんや中島さんさん達には。
あと俺がやるべきは、俺が思っていることをお父にちゃんと伝えることだ。
お父に対して何を思っているか、思って来たか。それもバイクで走りながらずっと考えていた。たぶん出て行く前に書いた遺書にそういうことは書いてあるが、今、ここに生きている俺の言葉で届けなければならない。
俺の人としての在り方の多くは、お父から教えられたりお父のそういう姿を近くで見て学んだことで出来ている。それを伝えないといけない。
それにお母と姉ちゃんが俺のいない分も頑張ってくれているから、二人にも何かしなければならない。
今は大きな感情の動きもなく万年筆を淡々と動かしているが、報せを受けてしばらくは、メットの中で泣いた。まだ生きてるってのにな。
俺はいつも間に合わない。帰ってから旅の話を聞いて欲しい人たちに限って、俺の前から居なくなっていく。
できる限りのことをしよう。
走行距離 257km
金 SIM1,088 ガス2,434 食糧3,803 キャンプ場938 コーラ189