摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ:和歌山市伊太祁曽)~「磐」が偲ばせる五十猛命と出雲との関わり

2023年01月14日 | 和歌山・紀伊

 

久しぶりに紀伊国を訪れて、以前参拝した日前・国懸神宮大屋都姫神社と関りの深そうな当社を参拝しました。町から離れた山間に勇壮な社殿を構えるゆとりある境内にとても落ち着いた気分になれました。毎年4月の「木祭り」で、チェーンソー・カービング(チェーンソーで丸太を彫刻するアート)の世界チャンピオン城所啓二氏が、その技を実演・奉納されており、現在も時代に合わせた新たな形で林業関係者に崇敬されています。参拝後は、紀伊風土記の丘資料館に立ち寄り、2019年に今城塚歴史博物館の特別展で展示されていた、全国で唯一という両面に顔のある頭部埴輪や、ふっくらした同体とキュートなお顔が印象的な翼を広げた鳥の埴輪(いずれも、岩橋千塚古墳群の大日山35号墳の造り出しから出土)に再会できました。

 

・一の鳥居

・右向いて二の鳥居

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、中央に五十猛命(イタケルノミコト)、向かって右に大屋津比売(オオヤツヒメ)、同じく左に都麻津比売(ツマツヒメ)が三殿並んで祀られています。神社は、゛イソタケルノミコト゛という読み方は誤りだと、特に説明されています。

 

・神池を渡ります

 

ご由緒は、「日本書紀」神代上の八岐大蛇の件の一書に伝えが載ります。第4の一書で、高天原を追放された素戔嗚命は、息子の五十猛命を率いて、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)の地に天降り、その後に出雲に渡り大蛇を斬ります。そして、”はじめ五十猛神が天降られるときに、たくさんの樹の種をもって下られた。けれども韓地に植えないで、すべて持ち帰って、筑紫からはじめて、大八州の国の中に播きふやして、全部青山にしてしまわれた。このため五十猛命を名づけて、有功の神とする。紀伊国においでになる大神はこの神である”とあります。

また、第5の一書では、゛この素戔嗚命の子を名付けて五十猛命という。妹の大屋津姫命。次に抓都姫命。この三柱がよく種子をまいた。紀伊国にお祀りしてある゛とも説明されて、いずれも当社と関連すると理解されています。

 

・長大な割拝殿

 

【神階・幣帛等】

当社は古代、高い神位を誇っていました。806年に神封五十四戸を充てられた事(「新抄格勅符抄」)を最初に、850年に従五位下(「文徳実録」)、859年従四位下、877年従四位上(「三代実録」)、906年正四位上(「日本紀略」)と着実に昇叙され続けた事が見えています。「延喜式」神名帳では、名草郡の項に、あの日前神社・国懸神社に続いて、「伊太祁曽神社 名神大月次相嘗新嘗」とあります。中世には、「紀州一宮伊太祁曽神社」と記された事もあり、日前・国懸神宮と一の宮論争をする程の神威が有ったことがわかります。明治以降は、旧官幣中社でした。

 

・割拝殿より望む拝所の中門。天皇から幣帛を受けています

 

【祭祀氏族】

「日本の神々 紀伊」で松前健氏は、「日本書紀」の一書の木種分布の神話は、おそらく古代木の国の林業関係者たちが伝えていたものだろう、と考えられます。古曳などの林業者たちの山の神は、一年の定められた日に山めぐりをして木種を撒くと信じられ、その日の山入りはタブーなのだそうです。当社には今も、材木業者が参加する「木祭」が有ります。

 

・本殿。手前の小社殿は大屋津比売。いずれも流造

 

また、松前氏は、伊太祁曽の地が古くは紀伊忌部の居住地で、「古語拾遺」にある、忌部氏の祖である天富命の子孫が紀伊名草郡の御木、麁香の二郷にいるとの記述に留意されます。この伝承は大和朝廷の宮殿建築の用材を伐採して造営を行う工人の部曲が、忌部氏の配下として古くからこの地に居住していた事を示しているという事です。

 

・本殿。こちら側の手前が都麻津比売

 

さらに、イタケル神がスサノオと新羅に天降り、そこから渡来した「日本書紀」の伝承は、この神を奉じる紀氏一族の朝鮮半島との交流を物語るとも言われます。「日本書紀」によれば、紀氏一族が5~6世紀にかけて百済、新羅などの朝鮮半島に派遣され、軍事や外交にたずさわっていたことが見えるからです。

 

・境内。向こうに境内社が鎮座します。垣の前の杉の高木が特徴です

 

「日本古代氏族事典」では、紀氏としては、武内宿祢後裔氏族の一氏としての紀朝臣氏と、「新抄格勅符抄」河内国神別に゛神魂命五世孫天道根命後也゛などとある紀直氏、つまり紀伊国造家の二つの系譜に分けて説明されています。ただし、「古事記」では、武内宿禰の母・山下陰姫は紀伊国造の祖先の宇豆比古の妹と説明されているので、そもそも一緒のようにも見えます。

ただ現在、伊太祁曽神社は紀伊国造家とは全く無縁な神社であり、関係が有りそうな日前・国懸神宮とも関係はないようです。

 

・蛭子神社。明治時代に近隣の二十二の神社が合祀されたもの

 

【鎮座地】

ご祭神の三柱は、当社の古縁起によると、最初は今の日前・国懸神宮の神域である宮郷で一所に祀られていました。その後、垂仁天皇十六年に日前大神がその地へ遷座する事になったので、山東庄(「亥の森」)に移り、そこから和銅六年(713年)現在地に遷座したといいます。一方、「続日本紀」では、大宝二年(702年)の条に、゛この日、伊太祁曽、大屋津比売、都麻津比売の三社の社を分かち遷す゛と書かれていて、これが現在地への遷座の正しい年代と、松前氏は考えられます。

 

・霊石おさる石

 

「延喜式」神名帳では伊太祁曽神社の後に、「大屋都比売神社 名神大月次新嘗」、「都麻津比売神社 名神大月次新嘗」が個別に記されていますが、この二社は、今もそれぞれ宇田森(大屋都比売神社)と平尾に分かれて鎮座します。松前氏は、この二殿は後世に改めて追加されただろうと推定されていました。

この遷座のご由緒が、何らかの史実を反映しているのではないかとの議論もあり、例えば、当社は古い土地の樹木神イダキソの神を奉じる集団の神社であり、そこに日前大神を奉じて乗り込んできた支配者集団との争いがあったとする考えも有るようです。

 

・社殿向かって左の氣生神社。五十猛命の荒御霊を祀ります

 

【中世の信仰から読み取るイタキソ神】

松前氏は、当社の持つ「日本紀伊国伊太祁曽明神御縁起事」という中世の縁起絵巻に、イタキソ神が「日出貴(ヒダキ)大明神」や「居出貴孫(イダキソ)大明神」と呼ばれて、日輪もしくは日の御子を抱く一種の母神的存在として描かれている事から論考されています。日本の古い太陽信仰は母子神の形をとるものが多く、対馬の天道法師とその母(照日の采(サイ)の女)や、鹿児島神社のオオヒルメとその子を、松前氏は例に出されます(大和岩雄氏も取り上げていました)。共に母が朝日で懐妊し、母子共にウツボ舟で鎮座地に漂着する話です。

 

・厄難除け木の俣くぐり

 

イタキソの旧地が日前神の神域であったとする由緒は、イタキソ神と日前大神が未分化だったころの記憶の名残であり、中世の縁起絵巻の母子神としての像は、このような原始信仰を中世密教が変容させたものだと、松前氏は考えられます。日前・国懸神宮の神も「船に乗る日神」と推定されていますが、もともと母と子の神で、本来は太陽神(子神)とならんで樹木の生成や田畑の豊穣をつかさどる原母神が祀られていたものが、片方が皇祖神と(無理に)同一視されると共に、もう一方は実体のない名だけの神格として国懸大神となり、それに伴って樹木生成および船の神という内性が独立して他に遷され、イタキソ神になったのではなかろうか、と松前氏は結論付けられていました。

 

・チェンソーカービングの干支。全部写っていません

 

【境内】

境内史跡として、蛭子神社の前の霊石「お猿石」が異彩を放ちます。この石を撫でると首より上の病に霊験あらたかと、神社は説明されています。さらに、本殿前にも有難いスポットがあります。一つは、「厄難除け木の俣くぐり」。「古事記」にある、大国主命が大屋比古神(五十猛命の別名)の元に逃れる説話にあやかり、人の通れる穴の開いた、かつてのご神木が゛設置゛されています。人が造ったものではなく、落雷などで煙突状になってしまって枯れたご神木を伐採したそうです。案内にある通り、中は立ち上がる事が出来る程の大きさでした。普通の体格に大人の方なら充分通り抜けられると思います。もう一つが、冒頭に触れたチェーンソー・カービングのチャンピオン城所啓二氏が奉納された、チェーンソーで彫刻された干支です。古式な神社の境内と今のアートが融合している取り組みが定着していることが、素晴らしいと思いました。

 

・祇園神社。駐車場の前に鎮座します

 

摂末社は、メインの境内外にもいくつか鎮座しています。駐車場の横にその一つ、祇園神社(ご祭神は五十猛命の父・須佐男神)が鎮座しますが、そこに至る参道に、「磐」が祀られています。これは、「古事記」に五十猛命が父とともに出雲国の鳥上峯に来たとある事と、「日本書紀」でその五十猛命が紀伊国に鎮まったとされる事から、その出雲の鳥上峯(船通山)の「磐」を(この地に持ってきて)祀って彼の地を遥拝する縁とした、説明板にありました。

 

・出雲の鳥上峯から移したという磐。祇園神社の前にあります

 

【伝承】

ご祭神の五十猛命は、イタキソ神のほか、射楯神・イタテ神とも呼ばれ、播磨の地を始め諸国に祀られています。東出雲王国伝承は、この神は、紀伊国造家のみならず、海部氏や尾張氏の始祖にもなる御方の別名だと主張しています。紀伊国造家の場合は高倉下がその御子にあたり、子孫には宇豆比古(珍彦)や、山下陰姫、そして武内宿禰がつながるというのです。記紀など一般の説明では、高倉下と「五十猛命」は同じ人のように語られているようですが、出雲伝承では違うと説明されます。

 

・御井神社鳥居。祠は切通の先です

・「いのちの水」の井戸。奥に祠があります

 

祇園神社前の「磐」が、特に出雲から持ってきて祀られている事は大変興味深いです。記紀の話を元に、五十猛命と出雲とを結びつけられたとの説明ですが、出雲伝承は、確かに五十猛命は出雲にいた事が有り(五十猛海岸や五十猛神社がある)、その子孫が紀伊国造になったと説明しています。ただ、海を渡って来たのは父親で、五十猛命自身は出雲で生まれたという説明です。この伊太祁曽地域にも出雲との関わりについて何か伝承があるのではないかと気になります。

この神様が兵庫県の射楯兵主神社など畿内要地にお祀りされるのは、弥生時代の大和や畿内が元々は「日本海系 五十猛・出雲連合王国」だった事を、大和周辺地からそれとなく語っているような気がしてなりません。

 

・紀伊風土記の丘資料館と再現された竪穴式住居。5世紀の鳴神・音浦遺跡のものを再現したそうです

・紀ノ川サービスエリアから和歌山市方面を望む

 

(参考文献:伊太祁曽神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、「角川日本地名大辞典」、「式内社調査報告」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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