摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

武蔵一宮 氷川神社(ひかわじんじゃ:さいたま市大宮区)~出雲民族の首長が奉じる神の力で鎮めた武蔵国の一之宮

2022年11月19日 | 関東

 

東京に少し滞在する機会を得て、それではと迷うことなくこちらの一宮に参拝をさせていただきました。大宮駅から歩いて、有名な長い参道をあるきましたが、休日という事もあり多くの市民の方々が行き交っていて、地域に親しまれている感じがしました。丁度、七五三の時期で、着飾った子供連れの家族が沢山参拝していて、さすが関東の一の宮です。

 

二の鳥居までの参道。見出し写真が実質上の入口である、二の鳥居と石標

三の鳥居

 

【ご祭神とその諸説】

ご祭神は、須佐之男命、稲田姫命、大己貴命がお祀りされています。1830年に完成した「新編武蔵風土記稿」によると、江戸時代には三の鳥居を入った正面の簸王子(ひのおうじ)社に大己貴命(一説に加具土命)を祀り、神池を渡った左の本宮・男体社に須佐之男命(相殿、日本武尊・大己貴命)を祀り、そして右の女体社に稲田姫命(相殿天照太神宮、伊邪那美命、三穂津姫命、橘媛命)が祀られるという風に、三神が別々に祀られていました。

 

神池までの広い境内スペース。ここから摂社、境内社が鎮座します。

 

1832年の「氷川大宮縁起」では、ご祭神を現在の三神としつつ、のちに日本武尊を合祀したとしていますが、「新編武蔵風土記稿」は本宮のご祭神について、杵築大社(出雲大社)を移した神社だから大己貴命ではないかと書いているようです。三神のうちどちらが主神であるかについて元禄期に、男体社の神主岩井駿河家、女体社の神主角井駿河家、簸王子社の神主角井監物家の間に論争があり、最終的に1699年に寺社奉行により、以降は三社同格との下知があったようです。

 

戦艦「武蔵」の碑が迎えてくれます。「大和」の方は、奈良県の大和神社に有りました。

 

「式内社調査報告」で鈴鹿千代乃氏は、男体社は大祝の岩井氏が奉仕し、例大祭は明らかに祇園御霊会の性格を持ち、縁起も祇園会の由来をのべているので、主神は男体社須佐之男命で、その后稲田姫を女体社とし、御子大己貴命を簸王子社と考えるのが穏当だと結論付けています。

また菱沼勇氏は「武蔵の古社」で、当社の東南4キロにある浦和市三室の氷川女体神社から、当社ご祭神を考察されています。氷川女体神社の別当寺に文殊院があり、そこに残された大般若経の゛元弘三年書゛の文言から、鎌倉時代またはそれ以前から文殊院及び氷川女体神社が存在していたと考えられます。となると、氷川女体神社が創建された時には、氷川神社のご祭神は須佐之男命一柱だったと推定され、后神として氷川女体神社を遠くない三室村宮本に祀っただろうという事です。もし、氷川神社が当時大己貴命を祀っていたとしたら、氷川女体神社は存在しないはず、という事です。

 

天津神社。ご祭神は少彦名命

六社。左から、住吉神社、神明神社、山祇神社、愛宕神社、雷神社、石上神社

松尾神社。ご祭神は、大山咋命

 

【祭祀氏族・神階・幣帛等】

当社を奉斎したのは武蔵国造だと理解されています。「先代旧事本紀」国造本紀には、成務朝に出雲臣の祖名二井宇迦諸忍之神狭命の十世孫の兄多毛比(えたもひ)命を无邪志国造に定めたとあり、また岐部国造の祖兄多毛比命の兄伊狭知直を胸刺国造に定めたともあります。ただ、「埼玉県の神社」での、无邪志国造任命以前からこの地に来住した出雲民族によって祭られた社との説もある事を、「出雲を原郷とする人たち」で岡本雅亨氏が紹介しています。

 

茂みの間から、神池の向こうに楼門が見えてきます

 

武蔵国造の初見は、「日本書紀」安閑天皇元年条に登場する武蔵国造笠原直使主とその同族小杵が国造の地位を争った話です。「日本古代氏族事典」によれば、この笠原氏は、天武天皇の皇子磯城親王の後裔氏族笠原真人とは別で、天穂日命の後裔で出雲国造と同祖です。「日本の神々 関東」で原島礼二氏は、兄多毛比命の子孫が正史に登場するのは、奈良時代になってからだと書かれます。つまり、「続日本紀」神護景雲元年(767年)条に、武蔵国足立郡の丈部直不破麻呂ら六人を武蔵宿禰に改賜姓し武蔵国造に任ぜられたことが見えます。

 

楼門

 

「延喜式」神名帳では武蔵国足立郡四座のなかに、゛氷川神社 名神大社゛として載ります。また、「三代実録」では、859年の従五位上から神階が上がり続け、878年に正四位上に叙せられています。対して、こちらも有名な秩父神社は862年に正四位上だったのが、878年に正四位下になっていますので、氷川神社が9世紀後半から10世紀前半にかけてその地位を不動にして、やがて武蔵一の宮として朝野の崇敬を受けることになったと、先の原島氏は書かれています。

 

舞殿を中心にした境内

 

【中世以降歴史】

「新編武蔵風土記稿」にある社記によれば、平将門の乱のとき平貞盛兄弟が当社に参籠、鏑矢を奉って祈願したところ、将門追悼に霊験があったため、神位一階を与えられ、1081年、1140年、1180年にも神位一階を進められた、との事です。この乱に関連する武蔵武芝は「将門記」だけでなく、「更級日記」にも竹芝寺縁起の主人公として姿を見せているようで、中世においても存在感があったようです。

 

社殿

拝殿

 

【鎮座地】

西角井正慶氏の「祭祀圏の問題」という文章によると、氷川神社と称する神社は、旧武蔵国にあたる埼玉県に162社、東京都に59社、神奈川県に1社と合計222社を数えましたが、旧武蔵国以外では急に少なくなるようです。菱沼勇氏は、さらにこれらは、大宮の東を流れていた元荒川の古い河流を東の限界とし、西は多摩川を限界とした区域のみに多く分布していると言われます。そして、これらの氷川神社は武蔵野が漸次開拓されて新しい村落ができるに伴って、一般に良く知られたか出身地である大宮の当社を勧請して産土神としたのだろうと考えられていました。ほとんどが江戸時代以前から存続しているようです。

 

流造の本殿。屋根がかろうじて見えます

「蛇の池」側からも本殿がうかがえます

 

また、その中でも特に古い氷川神社のいくつかは、当社、大宮の氷川神社を氏神とする集団が、すでに上代(飛鳥後期から奈良時代)において、武蔵国の各地に分散進出し、武蔵国の開発に力のあった集団だった事を物語るとも、菱沼氏は述べられています。

社名の氷川は、「新編武蔵風土記稿」にある、゛当社は出雲の肥の川上に鎮座する杵築大社をうつしたので氷川神社の神号を賜った゛との記述から、荒川を肥河(斐伊川)になぞらえたことに由来するという説が一般的だと、原島氏は書かれています。

 

本殿西側にある「蛇の池」。この湧水があったから当社がこの地に鎮座したとの伝えがあるそうです

 

【社殿、境内】

1180年に源頼朝が土肥実平を奉行として社殿を再建したのを始め、1596年には徳川家が社頭を残らず造営しました。1667年には出雲大社の造営と合わせて社頭の整備と社殿の建立が行われます。明治時代に入ると、官幣大社として官費によって本殿、拝殿、中門、祝詞舎、透垣などが改造されました。現在の社殿は昭和10年代に造営されたものです。

当社の現在の神域は2万3千坪ですが、江戸時代には約9万坪有りました。明治17年に、広大な神域のうち、当社背後の池や森が寄贈され、現在は大宮公園として市民に親しまれています。

 

門客人神社。ご祭神は、足摩乳命、手摩乳命。

御嶽神社。ご祭神は、大己貴命、少彦名命

 

【伝承の武蔵国造】

東出雲王国伝承で斎木雲州氏は、文脈からすると3世紀終わりから4世紀始め頃に、旧出雲王国 王家系の出雲人が南関東に移住し、当時「第二の出雲王国」だと言われたと説明されてます(その経緯を、浅草寺・浅草神社の記事で簡単に触れました)。だから初めは出雲式の前方後方墳が造られたというのです。ただ、出雲王国が終焉した後だったので、九州東征後の大和政権に配慮して、王家とは別である出雲国造家の子孫らしい名前に変えたと書かれます。さらに、房総地域の国造の一部は天穂日命の後裔でなく、旧出雲王家の子孫だと正されますが、武蔵国造には言及されていません。その後、「仁徳と若タケル大君」で富士林雅樹氏は、兄多毛比命が「播磨国風土記」や「伊勢風土記」にみえる伊勢津彦の子孫で、西出雲王国王家・神門氏の出身者だと考えられている、と書かれていますが、これは一般の認識でなく出雲伝承での話でしょう。有名な当社の創建に係る話は無かったように記憶しています。

 

宗像神社。ご祭神は、多起理比売命、市寸島比売命、田寸津比売命

氷川稲荷神社。ご祭神は倉稲魂命

 

富士林氏は上記の書で、稲荷山古墳が前方後円墳の形式になっており、そこで発掘された有名な鉄剣の金象嵌銘文に、杖刀人オワケの先祖として大彦命の名前が有る事から、古墳時代に武蔵国造は神門氏系から大彦命後裔の阿倍氏系に変わっただろうと推定されています。阿倍氏はアラハバキと呼ばれる信仰を持ったらしく、当社の摂社門客人神社が元荒脛巾(あらはばき)社と呼ばれていた事をその名残の一つとして挙げられています。関連する情報としては、「日本古代氏族事典」の「丈部」の項にも、「杖刀人」が「丈部」の前身で、軍事的性格の強い部民であったという説明があります。となると、上記した「続日本紀」に見える丈部直不破麻呂は、阿倍氏系の人だと思えます。出雲伝承の説明によると、大彦は大阪の高槻市や滋賀県の大岩山付近を経由して、ルーツの出雲猿田彦信仰を伝えながら、長野県あたりまで移動したらしく、その子孫が武蔵国に入ったことが想像されます。

 

宗像神社から望む神池

 

【出雲国造と角井家】

上記でも触れた、当社社家出身である、元國學院大學教授だった西角井正慶氏が、゛武蔵は出雲民族系統の首長が奉じる神の力で鎮めた国で、氷川の神は出雲族が祀った神゛゛出雲の一族のごとく自任してきた゛と書かれていた事を、「出雲を原郷とする人たち」で岡本雅亨氏が紹介されています。角井家の始祖は出雲国造と同じ系統で、その当主の多くが出雲守を称し、出雲国造家とおなじ紋所を用いていたそうです。この説明については、上記した東出雲王国伝承の話とどう関るのかが気になります。つまり、゛出雲族゛としているのは、旧出雲王国系の人達なのか、或いは出雲国造系の人達なのか、です。出雲伝承は、これらは別の集団だと主張しているのです。なお、「出雲を原郷とする人たち」の巻頭には、第八十四代出雲国造千家尊祐氏が一筆寄せられていることが留意されます。この本は、古代から近世の長い歴史の中で出雲人が移り住んで行ったという各地の一般の方々(実名、写真入り)が語る等身大の信仰や伝説が語られており、面白いです。つまり、第三者が追確認したいと思えば、可能ということです。学問であれば文系理系を問わず絶対求められる事であり、東出雲王国伝承に欠けている事です。

 

氷川稲荷神社の脇にひっそりと鎮まる「猿田彦大神」石碑

 

(参考文献:氷川神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 関東」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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