摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

白國神社(しらくにじんじゃ:姫路市白国)~新羅国の名前のつく地に木花咲耶姫命が祀られる不思議

2022年06月25日 | 兵庫・西摂津・播磨

 

現在ではご祭神の木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)にあやかり、「女性の守護神」として、その姫神をモチーフにした゛さくやちゃん゛を月替わりの御朱印や絵馬で展開され、親しみやすく安産の御利益を与えてくださる神社です。最近では新しいスポットとして、「安産くぐり大絵馬」を新たに拝殿前に置かれて、新鮮な神威を保つことに積極的なことが感じられます。白国神社名からの印象とこのご祭神との関係が興味深く、参拝をさせていただきました。牛頭天王信仰で有名な廣峯神社からは車で山を下りてすぐの距離です。

 

・入口の随神門

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、神吾田津日売命(木花咲耶姫命)、稲背入彦命(景行天皇の皇子)、阿曽武命(稲背入彦命の孫)。「日本の神々 山陽」では糸田恒夫氏が、神吾田津日売命が主祭神で相殿に稲背入彦命を祀ると書かれていて、80年代ごろは二柱だったようです。さらに糸田氏は、「播磨鑑」記載の「白国大明神社記」の記述から、ご祭神の異説を以下のように書かれています。

  1. 一座の場合:白国明神、或いは白国国主明神、或いは神吾田津日売命。

  2. 二座の場合:天津彦火彦瓊瓊杵尊と神阿田鹿葦津姫命、或いは瓊瓊杵尊と鹿葦津姫命(神吾田津日売命、もしくは木花咲耶姫命)

  3. 四座の場合:木花咲耶姫命、火闌降命、彦火々出見命、火明命、或いは豊吾田津姫命、火明命、火進命、火折彦火々出見命。

 

・随神門の後に鳥居が有ります

 

神社創祇の御由緒としては、この地を統治されていた稲背入彦命の、その孫・阿曽武命の妃高富姫命が臨産に苦しまれていた時、阿曽武命が倉谷山の峰で祈りました。すると女神が現われ、「妾が神吾田津日売である。汝の祈りは天に通じている。妾がこの地に長く留まり婦人を守護し安産させましょう」とのお告げを授かり、それにより阿良津命を無事安産されたので、この神吾田津日売を祀ったのが「お産の神様」としての当社の始まりとされます。

さらに、応神天皇が当地を巡幸したとき、三韓征討の際の阿曽武命の軍功を賞してこれを合祀し、「新羅国国主大明神」の神号を賜り、当社を「日の宮」と称しましたが、孝謙天皇の勅命で゛新羅国゛を゛白国゛と改められました。

 

・途中の絵馬掛けにおびただしい数の絵馬が奉納されてます。安産絵馬やくり抜き絵馬は宮司発案との事

 

【祭祀氏族・神階・幣帛等】

播磨国造の子孫・佐伯氏から続く白国氏が代々「国主即神主」として奉仕してきました。佐伯氏は軍事的伴造氏族で、天武天皇の時代に宿禰姓となりました。記紀には見えませんが、大伴氏の同族とされます。その佐伯宿禰の下で、播磨・安芸・讃岐・阿波などの国造の後裔が佐伯直で、当社の白国氏はこの後と思われます。

877年、正五位下に叙され、「延喜式」神名帳では飾磨郷の小社に列し、「播磨国第四座白国明神」とも呼ばれました。

 

・拝殿前境内。「安産くぐり大絵馬」も

 

【鎮座地、発掘遺跡】

当社の所在地は、旧飾東郡国衛庄白国村で、後に飾磨郡水上村になり、昭和八年に姫路市白国となりました。当社南方の弁天池附近には奈良時代の寺院の跡があり、古瓦が出土していて、白国廃寺跡と呼ばれています。当社北にそびえる広峯山の東に続く、増位山の東の尾根には横穴式石室を持つ古墳が点在しています。当社西方の山麓にも古墳があり、御輿塚古墳は県の指定史跡になっています。

 

・拝殿

 

これらの史跡の状況から、白国神社を中心とする一帯は、奈良時代までにかなり開発の進んだ地域だったとみられると、先の糸田氏は述べられています。「播磨国風土記」の、゛新良訓と名付けた理由は、昔、新羅国人が来朝したとき、この村に住んだ。故に新羅訓と名付けた。山の名もまた同じ゛と言う記述も有ります。つまり、白国は新羅系渡来人を中心に開拓された土地であり、白国神社はもともとそうした人々の祖神を祀ったものと考えられる、と糸田氏はまとめておられました。

 

・本殿。三間社流造

 

【社殿、境内】

境内は数段に整地された独特なもので、随神門のなかに享保二年(1717年)銘の鳥居が立ち、最上段に東向きの社殿が立ちます。社記によると、末社の一つ八幡社は1729年の建築で、元々当社の本殿だったものを、昭和10年に本殿を新しく改築した際に移したものだそうです。

 

・本殿背面にも拝所があります

 

【伝承】

「播磨国風土記」の上記した文面で、この地に新羅人が住んだとあるのは、元々出雲王国の領土だったこの地域を2世紀に天日矛命の子孫が攻略して住んだ為だと、東出雲王国伝承(「出雲と大和のあけぼの」「出雲王国とヤマト政権」など)は云います。ただ前段では、その始祖の天日矛命は新羅の前の辰韓の王子だとも言っています。その天日矛命の後裔勢力はこの地に住んだものの、間もなく初期大和勢力のイサセリ彦、ワカタケ彦の吉備津彦兄弟の攻撃を受けてこの地を去ったらしいですが、白国の地名だけがそのまま残り、そこに新しく丹後を本貫とし但馬も抑えていた海部氏の勢力が入ってきて、廣峯神社を祀ったとの流れで説明されています。やはり2世紀に白国(新羅訓)の地名があったという話です。

しかし、新羅国の正式な命名は、定説では503年だとされる事(前身の小国・斯蘆国があったが、年代は後世に造作されたもので不明)からすると、この時゛新羅゛の表記はまだ存在しないはずです。どうも、この白国命名の説明の流れは錯綜しているように見えてしまいます。

 

・八幡社

 

「出雲王国とヤマト政権」で富士林雅樹氏は、オシロワケ大王自身が大和を出て加古川の右岸に住まれたという話をされます。つまり、播磨の地はそもそもオシロワケ王の家族に強い縁のある地であったらしいのです。さらに出雲伝承を前提にすると、白国神社のご祭神の木花咲耶姫命は、オシロワケ王の家系系譜において、九州にいた祖母(阿多の豪族・竹屋ノ守の娘の阿多津姫)をお祀りしてる事になります。

更に時代は進んで、廣峯神社の記事で記載しましたように、今度は神功皇后が新羅遠征の後にこの地に来られ、廣峯神社に牛頭天王を祀ったらしいです(この話は斉木雲州氏だけがされます)。これらを眺めると、神功皇后の凱旋以降に天日矛命と新羅が関連付けられて、新羅の名前だけが付くようになった、という方が理解しやすいのでしょうか。

 

・境内から姫路城が見えます。近いです

 

(参考文献:白國神社公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、谷川健一編「日本の神々 山陽」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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