摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

河俣神社(かわまたじんじゃ:橿原市雲梯町)~高市御県神社と共に高い格式を誇った「出雲国造神賀詞」の古社

2022年10月22日 | 奈良・大和

 

現在はたいへん小ぶりな境内になって鎮座していますが、すぐ横を曽我川が流れ、反対側には畝傍山の絶景をバックに田圃がひろがるという、絶好の立地に有ります。参拝した時は、丁度にわか雨が降ったかと思うとすぐに猛暑に見舞われる移り変わりの激しい時間帯でしたが、鬱蒼とした木々で雨宿りが出来たり、日差しをしっかり遮ってくれたりで、こんもりとした社叢には守っていただきました。

 

・この状況のため、見出し写真の構図になりました。すぐ横は曽我川が流れます

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神は、鴨八重事代主神です。当社のご由緒は、牟佐坐神社と共に「日本書紀」の有名な場面によります。つまり、あの壬申の乱の戦況の中で、大海側の高市軍が金綱井に集結した時、大領の高市県主許梅が神がかりのようになって言うのに、「吾は高市社にいる事代主である。また牟佐社にいる生霊神である」といい、神の言葉として、「神武天皇の山稜に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言った。さらに「吾は皇御孫命(大海人皇子)の前後に立って、不破までお送り申して帰った。今もまた官軍の中に立って護っている」と言った云々、の件です。ここでの「高市社」の方が「延喜式」神名帳の「高市御県坐事代主神社」であると比定されています。

 

・一の鳥居と参道。境内が薄暗いです

 

【鎮座地、比定】

近くの四条町には、こちらも御県社として地位が高かった高市御県神社がありますが、「日本書紀」の「高市社」が当社に確定されるのは、「出雲国造神賀詞」の内容からです。この出雲国造神賀詞は、国造が新任の際に大和の地までやって来て、出雲の神々の祝いの言葉を朝廷に出て奏上するとともに臣従を誓う祝詞で、奈良時代の716年に始まり平安初期まで15回行われたようです。その内容が「延喜式」に有り、その中に大和の出雲関係とされる神社について説明が有ります。「日本の神々 大和」で木村芳一氏が転載されたものを記載します。

゛大穴持の命の申したまはく、「皇御孫の命の静まりまさむ大倭の国」と申して、己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主櫛甕玉の命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主の命の御魂を宇奈堤(うなて)に坐せ、賀夜奈流美の命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇孫の命の近き守神と貢り置きて、八百丹杵築の宮に静まりましき゛

 

・境内

 

ここでの「宇奈堤」が、「和名類聚抄」の高市郡雲梯郷であり、現在の雲梯町がその郷名を伝えていると思われる事と、「事代主の命」というご祭神を考え合わせると、このように説明される重要な神社となると式内社「高市御県坐事代主神社」の事だと考えられます。そして、高市御県の推定範囲内(高市郡七郷のうちの遊部郷と雲梯郷)には、この式内社に比定すべき有力な古社は見当たらない事が当社比定の考え方だと、木村氏は説明されています。なお、大御和が大神神社、葛木の鴨が高鴨神社、そして飛鳥が飛鳥坐神社の事とされています。

当社から300メートルの所の雲梯町初穂寺に「木葉神社」がありますが、これが「大和志」に゛川股八王子゛と記される式内社「川俣神社三座」に比定されています。ややこしいですね。

 

・拝殿

 

【神階・神封等】

「三代実録」の859年に「高市御県鴨八重事代主神社」が、従二位から従一位に昇叙されています。これは葛木御歳神高鴨阿治須岐宅比古尼神と同時で、共に上から数えて二番目まで昇りつめました。その一方で、神封や神戸の記録が「大倭国正税帳」や「新抄格勅符抄」に全く見えないことを、木村氏は不思議に思われていました。

大阪の住吉大社の「埴使の神事」で畝傍山の埴土を取りに来る際は、当社で装束を整えた事から、「装束の庭」と呼ばれました。「延喜式」神名帳の高市郡五十四座の筆頭に「高市御県坐鴨事代主神社」との名前で載っています。

 

・本殿

・流造に、唐破風の長めの庇が付きます

 

【高市御県神社(四条町)】

「延喜式」の名前では紛らわしいですが、河俣神社(高市御県坐鴨事代主神社)とは別の神社であり、ヤマト王権の料地・直轄地として大和に六ケ所設置されていた「県」にそれぞれあった神社の一つと考えられています。その六社は以下の通りです。

 

高市郡 高市御県神社(名神大、月次新嘗) ←当社

・葛下郡 葛木御県神社(大、月次新嘗)

十市郡 十市御県坐神社(大、月次新嘗)

城上郡 志貴御県坐神社(大、月次新嘗)

・山辺郡 山辺御県坐神社(大、月次新嘗)

添下郡 添御県坐神社(大、月次新嘗)

 

・高市御県神社

 

この高市御県神社のご祭神は高津日子根命。「古事記」に゛天津日子根命は高市県主等の祖゛と書かれる事から、木村氏は天津日子根命の事だと想定されています。いうまでもなく、上記の「日本書紀」の壬申の乱の件に登場する高市県主許梅らの始祖という事です。御県社の中でも当社は祈年祭祝詞の筆頭に置かれ、当社だけが名神大社だったので、由緒が古く格式が高かったと木村氏は書かれています。「新抄格勅符抄」に神戸二戸が寄せられたと書かれており、「三代実録」では859年に従五位上に昇叙された事が見えます。

 

・高市御県神社の本殿

 

【伝承の語る出雲国造神賀詞】

いわゆる大国主命が支配したと思われるクニと出雲国造の関係については、出雲大社の記事で触れた石塚尊俊氏のお考えがあり、出雲東部を拠点にしていた出雲国造家がヤマト王権に協力する形で大国主命のクニを支配するようになり、その大国主命の服属の証として出雲国造神賀詞が位置づけらる事で、概ね理解されていると思います。一方、東出雲王国伝承によれば、出雲全体を旧東/西出雲王国が支配してたのであり、石塚氏のお考えとは対立構図が異なるものの、おおむね両者で権力移行が有ったという流れは一致していると言えるでしょう。

出雲国造神賀詞については、特に斉木雲州氏が書かれており(「出雲と蘇我王国」「古事記の編集室(古事記と柿本人麿)」)、記紀製作に関して出雲国造が協力したことや中臣 vs 忌部の主導権争いに絡んで始まったイベントだったという興味深い話が有りました。神賀詞の文面については、斉木氏は旧王家の立場で不満を述べられており、大神神社と飛鳥坐神社については一般の理解とは異なるご祭神の主張をされています。ただ、当社のご祭神については特にコメントがなく、出雲伝承全体でも当社が語られていた記憶はありません。

 

・河俣神社の社叢を東側から

 

【高市県主の祖】

天津彦根命の後裔氏族としては、凡河内氏がいますが、「新撰姓氏録」摂津国神別に゛凡河内忌寸。額田部湯坐連同祖゛と書かれます。その同祖の額田部湯坐連は、同書左京神別下によると゛天津彦根命子明立天御影命之後゛であり、さらに額田部本系の方の額田部宿禰氏については、同書右京神別上に゛明日名門命三世孫天村雲命の後゛とあります。天村雲命や天御影命は、「海部氏勘注系図」では海部氏の始まりにあたる方々であることからして、「海部氏勘注系図」に肩入れする側から見れば、凡河内氏や高市県主は海部氏系では・・・という思いになります。となると、これまで奈良県の御県社で見て来た、磯城(志貴)、十市、添、そして当社は、九州東征勢力に圧迫された氏族なのではという風に見えます。

 

・河俣神社横からの畝傍山

 

(参考文献:中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 大和」、矢澤高太郎「天皇陵の謎」、今尾文昭「天皇陵古墳を歩く」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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