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2021年04月06日

ブルガリアの赤いバラC 最終回【旅にインスピレーションを得た短編小説】



 明け方、アルシアはトルコ兵に脇を固められ、涙で頬を濡らしたまま村の教会へ戻ってきた。無事に戻ったアルシアを両親が涙で迎えたのも束の間、すぐに彼女だけがセリクの屋敷へと移された。兄とヴァシルの消息は、夜が明けても伝わってこなかった。
 
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部屋の片隅で、アルシアは一心に神に祈りを捧げていた。彼女が軟禁されているのは広場とは反対側、三階の最も北側の小さな部屋で、窓の下は川になっている。容易に逃げ出すことのできない位置だ。

 辺りが夕闇に包まれる頃、セリクが部屋へと入ってきた。窓辺にしつらえらえたトルコ風の長椅子に腰かけていたアルシアは、無意識にショールを胸の前で合わせ、身を守るように自分の体を抱きしめた。
 セリクは後ろ手にドアを閉めると、被っていたトルコ帽を取った。
「今、君の兄さんが戻ってきたよ」
「兄さんが…無事なの?ヴァシルは!」
 立ち上がったアルシアの顔を包み込むように、ヴァシルが木苺色と呼んで愛した赤い艷やかな髪がゆらりと広がった。
 セリクは伏し目がちに、アルシアの足元を見つめている。薄暗い室内では、浅黒い肌の彼の表情を読み取るのは難しい。
「ヴァシルは…助けることができなかった。すまない…」
「どうなったの、ヴァシルはどうなったの!?」
 首を後ろに傾け、天井を睨むようにしたセリクに、ヴァシルの命がすでにこの世にないことを悟る。震える足をもつれるように前に出したアルシアは、バランスを崩して倒れそうになった。すかさずセリクが前に踏み出してアルシアを抱き止める。
 白いカフタン姿のセリクに支えられたまま、大きな目を更に大きく見開き、とめどなく溢れる涙で目の前が見えなくなりながらも、アルシアは拳でセリクの胸を叩いて叫んだ。
「嘘つき!彼を助けると約束したくせに!ヴァシルを返して!」
 アルシアの拳をまともに浴びながらも、セリクは苦しげに答えた。
「すまない。父に彼の助命を頼んだが、使徒である彼を見逃すことはできないと…」
「そんな…、神は、神はいないの?あぁーっ」
 獣じみた慟哭とともに、アルシアはセリクの足元に崩れ落ちた。

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 半時後、アルシアの泣き腫らしたまぶたの下の目はどんよりと曇り、美しい青色だった瞳はすでに何も見ていないかのように青灰色の鈍い光を留めているに過ぎなかった。
 音もなく背後に降り立った私の気配に気づいた彼女が、絨毯に座り込んだまま顔を上げる。
「迎えに来たよ、アルシア」
 私は彼女の前に跪くと、今にも流れ落ちようとしている彼女の涙を親指で拭った。
「セリクは嘘をついている。最初からヴァシルを助ける気などなかった。シプカのモスクで君を保護した後はヴァシルを殺すように命じてあったんだ。モスクを出た後、森に逃げ込んだヴァシルは撃たれて死んだ。もちろん最初に密告したのもセリクだ」
 私の目をじっと見つめたまま無言で話を聞いていたアルシアの目に、怒りとも憎しみとも、悲しみともつかない光が宿った。しいていえば、諦めの光だったのかもしれない。
「全ては、私を手に入れるために…セリクが仕組んだことなの?」
 声を震わせながら、アルシアはうなだれて床に目を落とした。
「己の欲のために、人間はいとも簡単に嘘をつく。本当に愚かな生きものだ…」
 私はアルシアの小さな顔をそっと手のひらで包みこむと上を向かせ、呪文でも囁くように静かに言った。
「醜い人間の世界に、もう君はいるべきじゃない。ヴァシルのいないこの世にもう未練がないのなら、私と一緒に行こう」
「どこへ?ロマと旅に出るの?」

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「そうじゃないよ。バラの谷の北にある山奥には、人間の目には見えないが、時が止まった場所が存在するんだ。君のこの燃えるような赤い髪と透き通る青い瞳…。君はあちらの世界に属すべき人だ。誰も君を傷つけることのない、静かで満たされた世界へ、私が連れていってあげよう」
 私の金緑の瞳が赤味を帯びて光ったのを、アルシアは見ただろう。
「ローランの手、会うたびに冷たいと思っていたわ。いつも音をさせずに近くに現れて。ローラン、あなたは…あなたは、吸血鬼だったのね…」
 すべてを悟ったアルシアの表情に、恐怖の色はなかった。
「あなたは…人を襲うの?」
「いや、人間の血は極力飲まない。私たちは伝説のような恐ろしい生きものではない。ただ少量の血を必要とし、身軽で遠くの音や匂いを拾ったりと、少しだけ秀でた特殊な能力を持っているだけだ。人間の目にふれない場所で、静かに暮らしているんだよ。血よりもバラ水を好むんだ」
 幼い子供に昔話を聞かせるように、私は秘密の場所の話をした。
「小さい頃からこの赤毛と碧眼は悪魔の証拠だっていじめられたわ。大人にも、あの子は魔女だと後ろ指をさされた。私は、私の属すべき場所に帰るだけなのね、きっと」
「ああ、一年中バラが咲き乱れて甘い香りが空気を満たす、常春のように暖かい場所だ。一緒に行くかい、私たちのバラの里に」
 私は彼女のほっそりした手を取った。
「ええ、行くわローラン。連れて行って、吸血鬼の世界へ…」
 あたたかいアルシアの手が、私のひんやりした手を握り返した。
 そっと頷いて、私はアルシアの白い首筋に、優しく牙を立てた。

〜終わり〜


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