教養は産業主義を破壊するか?教育家の夢と、産業のジレンマ。

 

現代の普通教育の目的は何か?

 

良き生産者と、良き消費者を作ること。

 

つまり、大量生産大量消費社会を発展させること。

 

これが主目的である。

 

しかしながら、

現在の普通教育と、

教育家の夢の間には、極めて大きな乖離が存在する。

 

そこに、巨大なディレンマが生じる。

 

オルダス・ハックスリーはその著書、

『目的と手段』の巻末にてこのようなことを語っている。

 

引用する。

 

もし、何らかの奇跡によって

教育家の夢が実現され、

そして人間の大多数がもっぱら

精神の事柄に興味を持ち始めたらなら、

 

産業の全組織は直ちに崩れ去るであろう。

 

近代の機械が与えられた場合、

マス・プロダクションなくしてはいかなる

産業の繁栄もあり得ない。

 

マス・プロダクションは大量生産がなくては

かなわぬことである。

 

他の事情は変わらぬとしても、消費は精神的な生活の強度と

共に逆に変わるのである。

 

もっぱら精神の事柄に興味を持つ人は(パスカルの言葉によれば)

 

静かに一室に坐って全く幸福な気持ちあろう。

 

精神の事柄に全然興味を抱かない人は、もし一室に静かに

坐っていなければならぬとしたら、死ぬほど退屈するであろう。

 

気を紛らわす思索に欠けているので、彼はそれに変わるもの

を身に着けなければならない。

 

すなわち、精神的な旅行は不可能であるから、肉体を持って

動き回らなければならない。

 

一言で言うと、彼は理想的な消費者、

即ち物と輸送の大量消費者なのである。

 

さて、良い消費者を奨励し、

悪い消費者を抑えるということは、産業における製造者の

ためになることである。

 

彼らは広告および、いつでも感謝の気持ちをもって

広告につづいてくるあの巨大な新聞の宣伝という手段に

よってこれを為すのである。

 

思索とそしておそらく愉しみとなる、

一冊の書物のみを相手に

静かに室に坐る人々はみじめで、ばかげていて、

そして、どちらかというと不道徳である、とすら言われる。

 

幸福は騒音と付き合いと動きとそして物の所有である。

 

多くの騒音に耳を傾けるほど、多くの人が周囲にいるほど、

早く動くほど、そして物を多く所有するほど、

 

幸福になるであろうー幸福にそしてまた更にノーマルに、

有徳になるであろう。

 

近代の産業国家においては、ハイ・ブラウは情けない消費者

なので悪しき市民なのである。愚鈍と無知万歳!

 

製造業者の宣伝によって育てられた普通教育の実は、

北極の夏の沈まぬ太陽を浴びるキャベツのように発芽し

膨れ上がってきた。

 

愚鈍と無知の新しい俗物根性は、今や旧い教養俗物根性と

少なくとも対等の戦いをする力を得ている。

 

というのは、依然として馬鹿げた時代錯誤の、

あの懐かしい教養俗物根性は生き延びているからである。

 

それは敵の前に屈服するだろうか?

 

しないことを私は望むし、

あえてそう考えてもみたいとすら思っている。

 

自分たちにとって精神の事柄が極めて重要であるので、

それらが圧倒されてしまうことを許さないであろうし、

 

またどうしても許すわけにはいかないような少数の人

たちがいつでもいるであろう。

 

「しかしそんな人はいつでもいるのだろうか?」

 

と皮肉な悪魔は質問する、

 

「それから年々低能の数が増していくのはどうですか?

 それから、成功を経済的条件で測る社会が、

 如何に普通以上のすべての遺伝する能力を致命的に、

 そして必然的に削らなければ

 ならないかということについて

 R・A・フィッシャーの論証は如何ですか?」

 

引用ここまで。

 

精神的な能力に優れた人間、即ち、

一休禅師や、あるいは、釈迦や、孔子、

パスカルやショウペンハウエルというような人は、

 

原理的に過剰に物を欲しがらない。

 

・・・つまり、彼らは良き消費者でもなければ、

良き生産者でもあり得ない😁。

 

大量生産大量消費社会における、彼らの存在は、

猿の惑星における、人間のそれのように、

「不愉快且つ不道徳である」😁。

 

馬鹿の群れの中では、利口であるということは、

それだけで犯罪的であり、且つまた場合によっては、

「危険」ですらある。

 

オーウェルの『1984』の世界では、

読書は禁止されており、TVの視聴が義務付けられている😁。

 

・・・そういえば、

最近、全国的に図書館が閉鎖されているそうな😁。

(所謂、コロナ対策と称して)

 

映画館も、パチンコ屋も、ボーリング場も、

カラオケボックスも、遊園地も、ゲームセンターも、

雀荘も、バッテングセンターや、ジムも、

 

全部営業しているけど・・・。

 

図書館だけは閉鎖されている😁。

 

・・・さもありなん。

なまじっか本など読むような人種が増えてしまったら

一大事である😁。

 

馬鹿を騙す政治は不可能になる恐れがあるし、

(小室直樹先生の本は、非常に不道徳かつ危険である

 禁書になっていないのが不思議である)

 

図書館で時を過ごす人、即ち、

本すら買わない人など、まさに、産業主義の敵だ!

というわけだな。

 

アハハ。

 

私は、とても天邪鬼な性分であり、精神的テロリストなので、

奴らが嫌がることを徹底的にやってやろう😁。

 

私は(最低限しか)物を買わん、(最低限しか)生産もせん!

 

私は俗流教養主義者であり、

怠け者、フリーライダーとのそしりも、

甘んじて受けよう。

 

言いたいやつには言わせておけ。

 

最大効用(リッカード)主義者ではなく、

最小効用(マルサス)主義者とならん。

 

言うなればこれは、

俗流物欲主義者と、俗流教養主義者の

静かな戦争である。

(どちらも俗物であることには変わらんが、

 私は後者を取ろう)

 

そういえば、最近、

もう一個、面白い記事を見つけた。

 

 

如何に生活に必要度の低い、くだらないものを発明するか!?

 

というコンテストが開かれているそうな😁。

 

『SDGs』とかいうカルト宗教を装った金儲けを企む、

(持続可能な社会とは、即ち、物を作らない社会、

 物を作らない社会

 人が増えない社会のことであって、

 そのために新しいものを作る!というのは、

 明らかな定義矛盾である)

 

のと同時に、

如何にいらないものを生産するかを競う😁。

 

産業主義の馬鹿さ加減がスパークしているぜ!!

 

アハハ。本当に笑える。

 

教養は産業主義を破壊するか?教育家の夢と、産業のジレンマ。

 

PS

ギリシャ・ローマ時代から比較して人口は、

ものすごく増えたが、

果たして本当に「人間」の絶対数が増えたか?

 

ということについては、疑問である😁。

 

・・・それは「人間」をどう定義するかによって異なるだろう。

 

私は、

おそらく、「人間」の絶対数は増えていないように思う。

(幸いなことに減ってはいない。と信じたい)

 

あの時代にいた「人間」の数と、

今も、同じくらいの「人間」がいるわけだが、

 

では何が増えただろうか?

 

『猿の惑星』の処世訓。

 

人から趣味を聞かれても、

「読書」などと答えてはいけない。

 

何事も目立つことは危険なことだ。

いつも佯狂を心がけるべし。