猫の静。

人間の幸福追求の主点が、「快楽の追求」に
あると仮定するならば、

人間に必要な物は、唯一つ。

ポリ袋一杯のヘロインということになるだろう。

ヘロインのもたらす快楽量は、
一般的に女性がSEXで得られる快楽量の、
10倍から30倍と言われている。
(幸いなことにというか、残念なことにというか
 私はやったことがないが)

つまり、生涯に必要なヘロインを確保すること。

これがあるいは、幸福追求の極北と
言えるかもしれない。

しかし、幸福とはそもそもなんなのか?

ショーペンハウエルの
幸福論に依ると、
その結論は、反対のものになる。

ショーペンハウエルは、幸福は
無理に追求する性質のものではない、
という。

ショウペンハウエルは、
幸福をこのように定義した。

耐え難いほどの苦痛のない状態こそが、
幸福である。

と。

如何に自分の状態をその範囲に
収めるように努めるか?

当然ながら、欠乏を避けること。
更には、過剰も避けること。

例えば、過食すれば、食べているときは、
気分が良いだろうが、

食後30分もせぬ先に、耐え難いほどの
胃もたれに苛まれることだろう。

過剰に酒を飲めば、
素晴らしい酩酊が得られるが、
その結果、翌日は悲惨である。

足りないことも又、苦しいが、
過剰又、苦しい思いがつきまとうことは
明らかである。

人はこれを理性によって統御し、
一定の状態を保つこと。

これこそがショウペンハウエルの幸福の
鍵である。

一般に人は、金や権勢、あるいは才能のような
ものを羨ましがったり、妬んだりする傾向に
あるが、

実際に人にとって最も重要な物は、
幸福だけである。

起きて半畳、寝て一畳、飯は喰っても2合半。

ショウペンハウエル的幸福に物質的に必要な物は、
実はこれだけであり、そのハードルは、
現代の日本においては極めて低い。
(刑務所にも
この程度の環境は用意されるという意味で)

しかし、広告は人の心を惑わせる。
だから、
対照的に精神的には

そのハードルは高くなるわけだ。

物をもっと欲しがれ、というわけで。

 

要するに、そのことに

「気がつくかどうか」だけが問題に

なるのである。


先日、散歩の途中に、田んぼの中心に佇む
猫を見た。

彼は足元に、
藁で拵えた心地の良さそうな場所で、
ずっと動かずに、こちらを見ている。

手を舐めたり、髭をいじったり、
ぼんやりと。

とても静かである。
必要なものは全て揃った状態。

満ち足りた静。

さて、人間はどうだろう。

人も同じかもしれない。

食事の節制は肉体の健康を授け、
友好の節制は精神の平静をさずける。
(ベルナルダン・ド・サン=ピエール)


喰う寝るの必要を満たす。
それ以外の物質追求をやめて、

静かに暮らす。

 

過剰な金や、ましてや名誉などという

汚物には触れようともしない暮らし。


それができれば、
人間も又、他の生き物同様に、
静寂の幸福の中に暮らせるか。

ここに、遊び心のスパイスでも
振れば、
(探究心的興味)
それで結構良く生きていていける
のではないか?

静と動。