「不必要な労働」の必要性について。

 

一体、人間にとって「労働」とは何か?

 

この間、

TVでシャトレーゼの白州工場の映像を見た。

 

そこでは、本当に広大な面積で、

信じられないほどの量のアイスクリームや、

焼き菓子などが生産されていた。

 

特に印象的だったのは、そこで働く人の数だ。

 

優に数万人分はあろうかという菓子を生産する

この工場群だが、

 

そこで働いているのは、工場長と数人のオペレータが

いるきりなのだ。

 

一体、我々にとっての必要を満たすだけの生産は、

わずか数人いれば事足りる・・・。

 

これは現代の製造現場の「普通」である。

 

特に、日本は80年台以降の人手不足の解消のために、

徹底的な省人化を推し進めて来た結果、

 

圧倒的に高い機械化率を誇っている。

 

かつて、生産力は、

労働力によって規定されていたわけだが、

 

現代においては、人口は生産力のボトルネックには

なりえない。

 

昨今話題の、全国旅行支援なる制度に依って、

全国の観光地、宿泊施設などにおいて、

 

所謂、「人手不足」のようなものが発生しているという

報道があるが、

 

そもそも論として、「旅館」や「ホテル」、あるいは、

「レストラン」のようなものは、果たして生活必需か?

 

と問われれば、正直言って微妙である。

 

まあ、なければないで、何の支障もないからだ。

 

特に昨今は、SDGsなるなどの呪文も大流行りである。

 

旅行など、環境負荷的に言って、マイナスに決まっているのに

それを奨励するのは、ちぐはぐというほかない。

(西洋からの旅客をもてはやすなど、烏滸の沙汰ではないか?)

 

紀元前2世紀のローマの政治家、

マルクス・カトーの言葉に、

「奴隷は眠っていない限り働かせておけ」

というのがある。

 

その仕事が必要だろうと、なかろうと、

それは問題ではなく働くこと自体が少なくとも奴隷に

とっては良いことなのだから、働かせておけ。

 

というわけだ。

 

論語にも同じような言葉に、

「小人、閑居して不善をなす」とある。

 

一体、余暇というものも、ひどく残酷なもので、

知的素養に満ちた人間にとって、余暇は

ソレ自体が、知的好奇心を満たすための

重要な財産となるが、

 

逆にソレのない人にとっては、単なる退屈の種、

潰さなければいけない時間という負債になる。

 

環境負荷ということを真正面から捉えれば、

 

つまるところ、作らないこと、使わないことが

至善に決まっているのだが、

(電気自動車や燃料電池車に乗ることよりも、

 車に乗らないほうが遥かにエコである😁)

 

又、全ての人が物事の本質を見抜き、

華美や虚飾、豪奢、奢侈を慎むと、

 

いわゆる、過剰消費のたぐいも絶滅するだろう。

 

実質そのような「効率」を徹底的に追求すると、

ほとんどの仕事はなくなってしまう結果になる

はずである😁。

 

ある種の人たちは、この状況に対して、

「ベーシック・インカム」

(なんにもしなくても金をくれる制度)

みたいなことを想起して、それで問題を解決しようと

試みるだろうが・・・。

 

それはあまり良い結果をもたらさないだろう。

 

知的に貧弱な人に、

 

過不足ない金と時間を与えても、

彼らはそれを上手に使えず、飲んだくれになるか、

賭けぐるいになるか、あるは、淫蕩者になるかして、

 

むしろ従前の状態よりもひどくなってしまうだろう。

 

人間が働く必要ない社会が現出しても、

結局、仕事のための仕事をつくらなければならない。

 

「不必要な労働」の必要性は有り続けるというわけだ。

(穴を掘らせて、その穴を埋めさせるようなものでも

 意味はないが、意味があるわけだ)

 

全く馬鹿げたことに、多くの人々は、

労働が嫌で嫌で堪らない。という風に述べはする。

 

例えば、FIRE(経済的な自立と早期リタイア)を

目指そう!!みたいな言説が流行っているが、

 

果たして、

労働の必要がなくなってしまった人が

本当に幸せなのか?

 

という命題については、非常に疑問が残る。

 

もし、彼に健康に健やかに時間を潰せるだけの、

知的素養があれば問題ない。

 

彼にとってそれは福音だが、

 

もしそれがない場合、

困窮から開放される代わりに倦怠と怠惰とに

とらわれるだけであり、最悪、身体を害する。

 

それは決して本人のためにはならない。

 

それは福音と言うよりも、むしろ悪夢ですら

あるだろう。

 

PS

これまで「無為徒食」というのは、

ネガティブな意味で捉えられる言葉であったが、

 

それは、生活に必要な原資をつくらなければ

ならない。

 

という必要性があったからであるが、

 

現代の社会においては、むしろ、

「無為徒食な者」こそが、最も効率的で、

最もエコという非常に皮肉な様相を呈している。

(生産も最小・消費も最小)

 

社会が、

もし本当のエコロジーについて考えるなら、

(現代のエコロジーは、単にエコノミー(金儲け)か

 しばしば、エゴロジー(自己満足)である😁)

 

生産を減らさなければならず、

それには必ず、「不必要な労働」の除去が必要だろう。

 

資本主義の本質は、生産、分配、消費の三面等価性にある

わけで、余計な生産は、余計な消費を招くからだ。

 

そこで本質的な答えは、

2つしか存在しない。

 

一つは、多くの人間を、「無為徒食」で過ごせる

ようにすること。(顔回や荘子のような)

 

そうすれば、「不必要な仕事」

(観光や奢侈品の生産)を抑制し、生産と消費を

縮小することができるようになるだろう。

 

もう一つは、単純に人の数を減らすこと。

 

現代ではまだ難しいが、

機械の設計自体を、機械が行うようになれば、

 

現在の人口の1割程度でも現在の生産規模を

維持することはおそらく可能だろう。

 

そもそも、「不必要な労働」とは、「労働のための労働」

であって、アラブの石油王が芭蕉を扇ぐだけの人を

雇うのと同じ原理である。

 

その水準の仕事しかできない人が増えれば

増えるほど、「労働のための労働」を増やさねば

ならなくなる。

 

彼らに、

自由な余暇を与えることは、恩典というよりもむしろ、

罰になってしまうからだ。

 

生産を減らすためには、そもそもそういう人が

生まれてこないように予め、

パージ(排除)しなければならないわけである。