娘。視覚支援高校卒業 | ねこのねるまに★難病も障碍もあるけれど

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※回顧録、長文です。どうぞスルーしてくださいお願い

今後、以下の学校への進学・転校を考えてる方への参考になれば、と思い学校名を出しました。

 

娘が3/15に、高校を卒業しました。

 

※制服はありません。ウチは通販で中古制服を上下別々に購入。

 

≪小学≫
小学5年生でTEN(中毒性表皮壊死症)になり、多臓器不全と弱視になりました(現在は弱視&閉塞性呼吸器疾患)。
入院してから毎日ポストに届く同級生達からのメッセージ。そして千羽鶴。
長期入院が決定になり、院内の小学校に転校する事になった無念。
ICU、個室に先生が授業に来てくださり、大部屋から他の病室の子達と一緒に通学。
親からすると、元の小学校への未練が無くなりましたが、子供には友達関係があるので、そういうわけにはいかず…。

卒業式は、元の小学校。
点滴中心の生活の果て、頭部が禿げてしまったので、部分カツラをいくつか通販で買ったけど結局ベレー帽で落ち着きました。
行く予定だった近くの中学校に進学も出来ましたが、視覚障碍者特別支援学校に決めました。
「弱視で障害物の衝突や転倒が怖い…」というのは娘への口実で、1番怖かったのは虐めです。
薬は週1で自宅に戻れるようになっても、目薬を含めてボストンバッグが必要な量でした。

≪中学≫
中学・高校共にPapaが自宅勤務に変更させてもらって娘の送迎をしました。
今で言うリモートワークです。

中学校は最初、院内の学校。
小学校の担任の先生が引き続き受け持ってくれたのは安心感がありました。
転校した先の視覚支援学校では同性の友達が無く、同性の後輩がいる部活動が楽しかったようです。
間質性肺炎と閉塞性呼吸器疾患が重くなってゆきます。
毎月、小児医療センターに緊急電話をして入院していたような気がします。
車椅子を使用する事になり、先生方に押していただいてました。

≪高校≫
入学試験に合格し、高校でも先生方に車椅子を押していただきました。
学校は遠くなり、Papaは会社の近くなので出勤する事になりました(コロナ禍になる迄)。
「予備の酸素ボンベを学校に置きたい」という希望を数か月がかりで検討していただき、工夫して可能にしてくださいました(娘が学校にいる間)。
車椅子を先生が押してくださるものの、同級生との時間が無い弱点が…。
しかもほとんど寮生だった為に友達がなかなか出来ませんでしたが、ようやく気軽に話せ電話する友達が出来たようです。
母子共に明るい印象が強いKさんでした。
娘は電話でもKさんと話した後は元気をもらうようで、声に勢いが出ました。
 

Kさんが突然亡くなったのは2020年4月。高校二年の春。
私は、入学式で名前を呼ばれて元気に立ち上がる子供達を眺めながら「3年間、娘は無事過ごせるのかな。卒業式には私も来られないかも知れない…」と考えてました。
まさか……!
先生からの連絡を受けて大声があがり受話器を持つ両手が震えました。
娘との別離の可能性が高かった私でも、お母様の悲しみは想像を絶します。
卒業のメッセージを送ろうか悩みました。
他人の私が言っても苦痛が甦るかも知れないのでブログ上だけに書く事にしました。
私が入学式に「言われるかも知れない」と思った事で申し訳無いのですが…やはり他に言葉が出ません。

一緒に卒業式したかったです。
短い間でしたが、娘にとって高校生活の光でした。
ありがとうございました。
ご両親は素晴らしいお子様を育てられました。

 

その年の晩秋10月、ドナー様の御陰で片肺移植手術が出来ました。

まだ体力が無くて、たまに車椅子を使いますが自分の足で歩き、酸素ボンベも要らなくなりました。


旧・岩槻特別支援学校の先生方
塙保己一視覚支援学校の先生方
筑波大学附属視覚支援学校の先生方

ドナー様。

心から感謝致します。
細やかなご配慮をありがとうございました。
今後お逢いする都度、お互いが健やかでありますように。

腰痛持ちで車椅子の積み下ろしと誘導&2.8Lの酸素ボンベをリュックに入れての通勤。
変更の多い送迎と、お仕事の両立に明け暮れたPapaも、一区切りの、お疲れ様でした。

娘の周囲にいて温もりを与えてくださる方々、そして世界の平和と安心を願って。