私の話しに興味を持ってもらえないのは、なぜ? | 新しい自分の始め方

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以前から、「夫に話しかけても話に乗ってこないというか、興味がなさそうにされる」ということに、うっすらと寂しさを感じていました。

 

 

夫婦でもお互い別人格なので、夫婦だからと言って同じテンションで会話し合うことを要求するのは自分勝手というものだし、話の内容に興味がないこと=愛がないということではないので、本来はそこで悲しくなる必要などないのですが、感情が揺れる(=寂しさを感じる)という事は「ここにブロックが眠ってるよ。見てね。」のサイン。

 

 

なので、今まで何度か内観や掘り下げをしてきました。

 

 

内観を通して、様々な偏った思い込みに気付きました。

「どうせ私の話は聞いてもらえない」というようなセルフイメージとか、「会話が多いほど仲がいい」「夫婦は分かり合うことが大事」「共感されること=肯定されている、愛されている」というような価値観など。

 

 

本来、会話の多さや分かり合う事と、愛されていることや夫婦円満かどうかなどは、全く関係ないことですが、「こういう価値観を持ってたから寂しかったんだな」と気付けてから、少しずつ寂しさも薄らいできていました。

 

 

ところで、これを鏡として見ると、「私も人の言うことに興味を示していない」とか、または逆に、「本当は興味もないのに必要以上に無理して相手の話に乗っかって、興味があるふりをしている」ということが言えます。

 

 

確かに、私は興味がなくても主人の機嫌が良くなるようにと必要以上に無理して熱心に聞いたり共感する感じを出していた部分がありました。

なので、「本来は、自然体で相手の話を聞いたり会話をするだけでよかったんだな」ということに気付けました。

 

 

で、もう一つの見方の「私も人の言うことに興味を示していない」という点についてですが、最近「ハッ!」と気付いたことがありました。

我ながら「これはヒドイな」という感じのものなのですが、正直にシェアしてみようと思います。

 

 

ネットに、芸能人の日常的な報告みたいな記事とかありますよね?あとは、ヤフコメ欄などの解説者気分の上から目線の長文コメントとか。

そういうのを見かけた時などに、私、

 

 

「どうでもいいわー。」
 

 

と、心の中で呟いていたのです。

(反省。。。)

 

 

「どうでもいい」を放っていたから「どうでもいい」が戻って来て、それを回収してただけだったのだ、ということに気付きました笑い泣き

 

 

宇宙の法則は寸分の狂いもなく働いています。

だからこそ、私たちは自分が受け取っている現実から自分の在り方に気付けるのです。

 

 

ただ、自分を直視するのは時に痛かったりするゆえ、目を逸らしたくなったり、いやいや、私はそんなもの放っていませんと抵抗もしたくなります。

 

 

でも、目を逸らさずちゃんと直視して、そこから気づきを得ると、結果的に心に安心感が広がっていきます。抗うことを手放して見えない鎧を脱ぐことで、もう葛藤と闘わなくていいのだな、とほっとするのだと思います。

 

 

前回載せた「アミ」の言葉。

とても大切な視点なので、もう一度リピートドキドキ

 

「つまり、多くのひとが自分自身のことを素晴らしい人だと思い込んでいるんだよ。自分のもっているいくつかの欠点を、まったく直視することができないでいる。その欠点は、時にはとても重症だ。でも自分では気がつかないその欠点を、まさに他人の中に見出すと、その人をひと一倍はげしく非難するということがいつも起こるんだよ。そして突然人からその欠点を指摘されようものなら、死ぬほどひどいショックを受けるんだ。」

 

 

ちゃんと直視して自分の真実を受け取ろうとする素直さと勇気と謙虚さが、自分を救ってくれますドキドキ虹

 

 

沢山の方にメッセージを届けたいと思っています。よろしければポチドキドキお願いします。

 


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