先週は、旧統一教会のスポークスマンの方が「月収の十分の三以上の献金については記録する」と記者会見で語っておられました。
下記ニュースのリンクです。
十分の一献金は普通プロテスタントのキリスト教会で行われています。
ワタクシの通う教会で土地・建物の献金が不足した時、「十分の二を捧げましょう」と呼びかけがあり、しかしながらそれに応じた信徒はほとんどいなかったことを前回書きました。
月収の十分の二を捧げる、とは私なんかからすれば(「十分の二を捧げましょう」は結果黙殺した)尊敬に値する行為です。
ただ、それを「強要」となるとすごい「あこぎ」やなってなりますね。
それが統一教会と他の教会との違いなのかなと思います。
ただ「月収の十分の一の献金」も適正なのかどうかは疑問を呈してもよいと思います。
この数字は旧約聖書に出てくるもので、収入の多い少ないによる不公平が生じにくいので、いいやり方だとは個人的に思います。
しかし旧約聖書の時代と現代日本では社会・経済状況を比較することが難しい。
今日本の税制でサラリーマンの給与明細を見ると、税金、保険料いろいろ込みで1ー2割引かれてるはずです。「十分の一」とはそういうことじゃないか?と考えたりします。
だけども教会には教会を維持するだけの献金も必要です。
だから、月収の十分の一を献金するのは容易ではないかもしれないけど、感謝して捧げることができるなら、それもいいことだと思います。
十分の一を捧げるのが苦痛だったり、辛いとかなら献金しないで心安らかに教会に通い続けるほうがむしろ神様は喜んでくれるんじゃないでしょうかね?
ただ、「公共費」という概念がここで出てくることは重要です。
つまり、意識しても意識しなくても「社会公共に十分の一程度は納める」という社会システムに現代日本はなってます。
日本女性のジャーナリストの草分けで、教会には所属せず信仰を持ち続けた羽仁もと子、という方がいます。
その方が「家計簿」を初めて作ったそうなんですが(日本で)、その中にも「公共費」という費目があって、そこでは収入の1%は社会公共のために使いましょう、と呼び掛けています。
今でいう「寄付」というものです。
戦前の日本は貧しく、まして女性の地位も低かった時代の話です。
それでも「社会公共のため」を忘れずに生きることは重要で、家庭の主婦たちに月々1%を寄付するように勧めていた、ということは特筆すべきことだと考えます。
別にキリスト教の信徒じゃない人でも、収入のうちいくらかは「公共のため」寄付する習慣は大切。
そして、信徒なら感謝して捧げられるものは感謝して捧げたらいい、ということなのじゃないでしょうか?
ともかく、収入は計画的にかつ適正にそれぞれが管理するのが望ましい、ということだと思います。
仔羊おばさん