今週のお題「2024こんな年だった・2025こんな年にしたい」
ワタクシの2024年は
自分があかんたれである
ことを嫌と言うほど思わされた1年だった。
まず、2024の幕開けは、2023年の終わりごろに統合失調症の次男の病状が悪化し、入院していたのが退院したところから始まる。
彼は年末に退院してきたんですよね。
ワタクシの兄弟がうちにやってくる日(1月2日)、彼はその症状をそう出すでもなく過ごしたけれど、その後は無理で、精神科のデイケアに行くのも嫌がり、連れて行くとその道すがらワタクシをなじり(なんで自由を与えないんだとか、どうせ拘束するんやろとか)、うちでは「暗闇の中で不気味に一人お辞儀をする」「食事も脳内の誰かと対話してるのか、うなずいたり料理を指さしたりしながら食べている」など奇行が目立ちました。
結果的に言うと3月に薬の種類が変わる頃に、この症状は改善しその後夏にかけて良くなっていったわけですが、ワタクシの1月から4月にかけての気持ち&信仰は完全に
神様は私を見離した
でした。
この時期に、ワタクシはワタクシが
あかんたれ
であることを自覚し、もうどうしようもなく自分はダメ人間だと思いました。
この「ダメ人間」というのは、能力的なものではありません。
一人の人間として、神様の前に全くダメな人間だ、と心から思ったのです。クリスチャンとして出来損ないで、どうにもこうにも信仰深くはなれない人間だという自覚のみが心を支配していました。
世の中には自分が病気になっても家族が病気になっても、いや、極端に言えば家族が亡くなっても、「神様に感謝」できる人というのがいますね。
あるいは、心では絶望してるのに口ではそのように表現できるだけだということなのかもしれません。
だけども、ワタクシにしたら口でそう言えるだけでもすごいこと!
すごいと思いません?
信仰が本物であろうがなかろうが、たったそれだけでもワタクシなんかよりずっと信仰深いように思う。
それに、教会に行ってるとそういう困難にあっても神様に感謝してる人は少なくない!
本当にガンにかかろうが家族を亡くそうが神様に感謝できる方って、教会に通っていると、本当にそんな人がいるのです。
でもワタクシは、そんなこんなで2024年前半は、教会でどんな説教を聞こうが、ずっとすねていました。
神様は愛だ
と聞くと「でも私のことは愛してるとは思えない」が本音でした。
「伝道」とか聞いても、こんな不信仰な自分、「クリスチャンになったら平安だ」なーーんて言えない自分、真っ暗な気持ちから脱却できない自分に、そんな伝道なんてできるわけない、と正直思いました。
そう。
ワタクシの信仰は、自分の人生がうまく回っていた時は、特に子供たちが順調にそれぞれの人生を歩んでくれている時は「神様ありがとう」と感謝できるけど、自分どころか次男の病状が良くないと感謝もできないし、あらゆる力が奪われ、また、もうそんな次男なんか捨てたいくらいの愛のない自分に
いやもうすっかり失望
してしまいました。
ヨブという人の物語が旧約聖書にありますね。
最後の最後にヨブは神様の前にあらゆる言葉を失ってだんまりになる(んですよね?ワタクシの理解が間違っていたらすみません)けど、ヨブが元気だなと思うのは、ヨブは友人に向かってあらゆる言葉を尽くしてあれやこれや話すことです。
そんだけ吐き出すから、神様の前に最後は鎮まることができたんじゃないかとまで思いました。
ワタクシは、会う人会う人、昔の友人や同僚に
あかーん。もうどうしたらええかわからへーーーん。
(ノД`)・゜・。
と、嘆くばっかり!
神様の愛を伝えるとか、そんなことは無理。
無理無理無理ーーーーー!!!
嘆きの塊。
礼拝に行くは行くけど、心は拗ねてるから、牧師先生の話もまー入ってこない!
聖書の言葉を読んでも「どうせ私はダメなやつだよ。信仰のしの字もないやつだから」って感じで。
そんな状態だと、教会の行事も何をやっても喜びなんかはなく、ただなんとなく教会のメンバーだから参加するだけで、大抵は心の中で
もーこんな教会の組織なんか嫌。
今さら牧師の後継者不足とか何言うてるねん。そんなん、もっと早くに年取った牧師さんがどんどん辞めてたら、こうはなってなかったかも。
感謝できる人らで教会の運営したらええねん。私は1秒でも早く家に帰りたい。
「病が癒される」なんて嘘やん。うちの子は癒されへんし、私には希望も湧いてはこない。
信じたら救われるなんて嘘やん。私は救われてへんし。
なんだか、そういうあらゆる「後ろ向き」がワタクシを支配していました。
正直、そういう気分で10か月くらい過ぎていきました。
夏に次男は持ち直していたけど、秋になったらまた悪化して、冬になったらますます悪化していてこの冬を過ごしています。
でも、昨年の経験が活きたのか、入院まではいってないです。
就労移行支援に通っていましたが、秋には自力で行きつけなくなり(どっかよそに行ってしまう。そして町をさまよう。徘徊老人のよう)、その後はついに家にも帰りつけなくなり(これまたどっかよそに行き、こんなに寒くてもいつまでたっても外をほっつき歩く)から、結局、行きも帰りも送ることになり、今は夫と私で手分けして送り迎えをしています。
そんなこんなですけど、クリスマス前くらいからワタクシの心はちょっと軽くなり、神様への恨み節もなくなっています。
ふっと軽くなりました。
きっかけも何もなく、ただ何となくちょっとほっとした状態になっています。
やはり平安などというものは、自分でじたばたしてもどうにもなるものではなく、神様が与えてくれるのを待つしかないんだなというのが、今のワタクシの正直な思いです。
2025はまたどんな未来が待っているかはわかりません。
だけども、好転するにせよ悪化するにせよ、ワタクシは受け入れるしかないし、自分の「がっくりくる」状態も自分ではどうしようもありません。
そういうのが昨今のワタクシです。
うじうじしてますね。
申し訳ありません。
そんな不信仰なワタクシですけど、今年もよろしくお願いします。
2025はやっぱり、次男の回復を祈らずにはいられないな。
「受け入れる」とか難しい。
<(_ _)>
よろしくお願い申し上げます。
仔羊おばさん