それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

「読むこと(読書)」とは「創ること」

2021-04-25 00:12:57 | 教育

 文章や作品を書くことは「創造的行為」であり、文章・作品を読むことは「受動的行為」であると、常識的には考えられている。しかし、果たして、そう断言していいのかどうか。
 
 引退以来、一日の大半の時間を読むこと(読書)に宛てている身としては、読書=受動的行為という常識的な考えには違和感がある。以下、違和感が生じる所以を説明していきたい。

 私は、毎日、眠りに就くまでの時間、ベッドで横になって読書を楽しみ、うとうとしながら、いつの間にか眠り込んでしまうのが習慣になっている。枕元には常に、ジャンルを問わず、読みかけの数冊の本が置いてある。

 時に、眠りに落ち込みそうになりつつ、ふと覚醒することがある。この夢うつつの出来事が奇妙である。例えば、ある小説を読んでいて眠りに落ちる寸前に覚醒し、さてどこまで読んだのかと確認しようとしてみると、読んだはずの叙述が見つからない。どうやらテキストとは別の世界を勝手に創り上げていたようなのである。時には数ページにも及ぶ規模になる。このような現象は、まれなことではない。むしろ自覚しない場合も、常に生じていることなのではないかと考えている。この現象は、ジャンルを問わず生起するが、文学作品の場合が分かりやすいようである。

  無論、他人である書き手による書物を読んでいるのであるから、自分自身の執筆活動とは性格の異なる創造活動である。いわば、他者による情報やイメージ、意味づけ等を手がかり、素材にしつつ、読み手自身の既有知識や経験、認識、価値観等を駆使しつつ、自分の作品を紡いでいるのではないかと思い至ったのである。似たようなことは、既に、本ブログの「ステイホームと読書」でも書いており、そこでは、穏やかに、読みとは、書き手と読み手の「双方向的行為」であるとしている。今回は、さらに読み手の内部に入り込んでみよう。

 物の見方・感じ方、生活経験、知識、読みのスキルといった読書という創造活動を実現する要件の点で、同じ人間は存在しない。つまり読者の数ほど個性的、特徴的な活動が存在するのであり、それらが創造的活動であり、自分自身の世界を構築する創造活動という観点からすれば、読み手の数ほど多様、多レベルな活動が存在するのである。このことを検討する手がかりとして、一つのエピソードを取り上げておこう。

 もう50年も前のことになるが、私が大学院生のとき、アメリカの現職教員の団体が、夏期研修のために大阪に来ることがあり、大阪の大学に勤める先輩のお世話で、私もその研修会に参加することができた。10日間ばかりの交流によって、日米間の国語科教育に関する考え方や実践の違いを学ぶことができたが、そのうちの一つが、次のことであった。  

 ある小学校で文学教材の授業を観察していた。わが国の典型的な授業で、教師による発問について全児童が取り組んでいた。教師も児童も真剣にと入り組み、いわゆるよい授業のひとつであった。授業の最中に、隣席の女性教師が小さな声で囁いた。
 「どうして、すべての児童が、同じ発問について取り組んでいるの?」
 意表を突かれた私は、とっさに質問を返した。
 「アメリカでは、どういう授業をしているんですか?」
  帰ってきた答えは、以下の通り。
 「アメリカで,私はこういう授業はしない。教室内を動き回って、個々の児童や小グル ープの指導をします。」

  いろいろな児童が混在する教室の中で、個々の児童や小グループの児童に対応するのはほとんど不可能に近い、大変なことである。一斉授業は問題克服のためのひとつのちえではあろうが、読書という個別的、個人的創造活動に照らして考えれば、外国人教師が抱く疑問は無理からぬものであったろう。

 「叙述に即して正確に読む」(読解)活動を、教師の提示する「発問」を手がかりに進めていくためには、児童の個性や主体的、個人的反応はひとまず措いて、読みの対象たる文章・作品の客観的価値の尊重に傾かざるを得ない。学習者全員が、一斉に、同じものを目指して彼岸に渡り、彼岸に置かれた輝ける「主題や要旨」にたどり着くという、不自然な読みが普及することになった。これは、読み手の個性を尊重するという難題を回避して、指導の画一化、合理化を目指すという、いわば、教師の都合による読みの性格付けである。公教育の目標と内容を示す『学習指導要領』には、さすがに「読解」に対する「読書」の尊重、生きる力の尊重など、実の場における言語活動を視野に入れる気配を見せることはあっても、教育の根幹を揺さぶるような構造になってはいない。
                                 
  読書をするとは、思考力、想像力、知識、経験、読みのスキル等、読み手、学習者という人間を形成しているすべてをかけて、読みの対象たる文章や作品に触発され、同意したり、反発したり、作品を超えて想像したり、自ら意味づけしたり……、要するに自分自身の作品世界を構築することなのである.目の前に提示された物を一方的に受容する行為などではない。少なくとも教材として選定された物を読むということは,受容のみの行為であってよいはずはない。このことを再確認しておこう。

 読み手にとっての創造的で意味のある行為は,学習指導という観点からは,なんとやっかいな存在であろう。一人一人異なる特性、個性を有する学習者という人間を、それぞれの事情に即して認め、鼓舞し、叱咤しつつ,創造活動を開始させ、彼ら自身の作品構築に至る道筋をつけなくてはならないのである。ややもすると,指導の合理化のために、楽しく,創造的かつ多様であるはずの行為を制限したりすることになる。読書好きの人間が学校の国語の時間によって,読書嫌いになる、教室での読みの授業に違和感を覚えて読むことに消極的になるということは珍しいことではない。こうなると、これまでのような一斉指導の方法で、創造的、個性的行為である読書の指導は可能であるのかという根本的な疑問に行き当たる。

  読むこと(読書)の多様性と個性について国語教育の実践者による理解の努力がなかったわけではない。読みの過程における反応の把握に取り組み、児童が読みの過程でどのような反応をするかを克明に書き込ませる授業の記録もある。しかし、これらの反応は、共通の学習課題に集酌され,反応の個別性や全体性は失われていく。意欲的で有能な教師にとっても,読書指導とは至難の仕事なのである。しかし、至難ではあっても「読書の指導」を目指すのなら,読者の個々の内面に踏み込み,個々の読み手が読みの対象の提供する手がかりに触発されたり,時に反発さえしたりしつつ独自の作品を創りあげる姿を見守り、造り上げた結果を鑑賞,評価することに取り組まなくてはならない。これは「読解指導」という正確な読みのためのスキルの指導とは別種の仕事である。『学習指導要領』からいつのまにか読書の気配が希薄になったのは,読書なる行為の特性が取り扱い困難なものであることを認めざるを得なかったためであろう。このような状況下にあっては,学習者は個性的な「感想文」など書けはしない。原稿用紙の最低枚数を指定され,悩んだあげくに、感想でもなんでもない「読んだ本の粗筋、概要」を書いてしまうのであり、なんとか感想らしいものを書いた文章は,指導者が,教室で教えてもいない感想文に仕立て上げて,本来の書き手である子どもをびっくりさせることになるのである。

  このように考えてくると、読書の指導の難しさなどに悩まされることなく,自由自在に自分の世界構築できる読書を楽しんでいる今の自分がいかに幸せであるのかに思い至ることになる。


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