【長野県】城下町を歩く「松本」(松本市)202105・前編 ※日本塗りつぶし旅・長野県③ | 日本あちこちめぐり”ささっぷる”

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【長野県】城下町を歩く「松本」(松本市)202105

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(長野県松本市中央「中町通り」)

 

信州の商都であり、城下町でもある「松本」。

前回は2回にわたって遊里の町並みを触れたが、やはり松本城と周辺の城下町の町並みを歩かずには帰れない。

 

松本の遊里についてはこちらを参照

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北アルプスを背景に松本城

松本市役所展望室からの眺望

 

現存十二天守の一つである松本城。

国宝に指定されていることもあり、松本観光の中心で、まずはそちらへ脚を運ぶおのぼりさんが多い筈だ。

しかし、私はその前に近くの松本市役所へ。

そこには展望室があり、北アルプスをバックにした松本城と周辺の町並みを俯瞰することができる。

 

 

松本城

現存十二天守の一つ「松本城」 別名「烏城」

 

漆黒の天守閣を持つ松本城は、「烏城」という別名を持つが、現在の姿になったのは戦国時代末期。

信濃国守護の小笠原氏が深志城を築いたのが起源で、一時は武田信玄に侵攻されるも、武田氏滅亡後の天正10年[1582]に小笠原貞慶が旧領を回復、深志城を「松本城」と改名する。

豊臣秀吉の天下統一を機に家臣の石川数正が入城すると、天守を始め、城郭・城下町の整備が行われるのだが、現存する天守閣はそんな中で完成したとされる。

江戸時代以降は徳川譜代が代々城主として入り、明治維新の廃藩置県までその統治が続く。

 

 

松本城

 

昼と夜の二度、松本城を見た。

天守閣の中に入ることも出来るのだが、個人的に城というのは外から外観を眺めるのがいいのであって、中に入るのはあまり好まないタイプ。

そもそも天守閣って中に住むために建てたものでなく、元々は城内や遠くまで見渡せるようにするための見張り台としての軍事施設。

やがて戦国の世が終わると、城主の権威を誇示するためにのシンボルとして建てたものに過ぎない。

かつて犬山城や松山城などは行ったことがあるが、中は大味でどこも一緒という感じ。

まあ、城下町を高い所から眺める分には悪くないが。

 

 

維新前之松本町図(『松本市史』(昭和8年版)付図)

 

閑話休題。

近世の城下は、女音羽川が町の中心部を流れ、その北側が武家地、南側が町人街と大まかに分けることができる。

上の古地図を見ると、松本城は女音羽川の北岸まで掘割を廻らせた総構えで、掘割内の武家地は上級武家の屋敷を集中させている。

郭外周辺の東部や北東部にも武家街が広がっているが、そちらには中下級武家の屋敷を配している。

一方、南岸の本町と中町、川を渡って北側の東町を通る善光寺街道がメインストリートで、それを中心に枝分かれする形で町人街が広がっているのが分かる。

松本には上田に向かう北国街道や糸魚川に向かう千国道など多くの街道が集まり、交通の要衝でもあった。

中でも重要だったのが、中山道仙馬宿から北上し、松本を通って善光寺へ向かう北国西脇往還、通称「善光寺街道」であった。

 

 

中町通り

 

中でも往時の名残を色濃くとどめているのが中町通りだろう。

といっても、この町並みが近世のものかというと、さに非ず。

実は松本では幕末から明治初期にかけて幾度も大火に見舞われ、城下町の大半が焼失の憂き目に逢っている。

 

 

中町通り

 

そんな経緯もあって、防火を意識した海鼠壁の蔵造りが建ち並ぶ街並みに変貌、戦災に見舞われなかったこともあって、現在まで残っているという塩梅だ。

こうした経緯は、川越や佐原、喜多方など蔵造りの街として有名な場所でも共通しているので、珍しいものではない。

 

 

中町通り

 

町家は切妻平入の出桁造りが多く、一階が海鼠壁、二階が漆喰で固められ大きな開口部というものが多い。

こうして歴史的な街並みを残しているのだが、同時に有名な観光地でもある。

電柱や電線が一本も見当たらず、道路も歩行しやすいように整備されていて、小奇麗な印象が強い。

 

 

ミドリ薬品

 

そんな中にあって、ひときわ目立つのがこちらのミドリ薬品。

昭和2年築で一世紀を迎えようとしている看板建築。

松本は近代建築の宝庫でもある。

 

 

中町通り

 

観光の拠点にもなっている「中町・蔵シック館」(正式には「松本市中町蔵の会館」)。

元々は明治21年の大火後に建てられた造り酒屋で、町のシンボルとして隣町から移築してきたものだ。

 

 

松本縄手通り

 

女音羽川の対岸に並行して伸びる縄手通りも、中町通りと並ぶ観光スポットだろう。

 

 

松本縄手通り

 

縄手というのは城下町時代の町名。

城下町の整備の一環として外堀が開削された際、その外側に張る水縄(測量用具)の線を"水縄手"と呼ばれ、女鳥羽川との間にできた細い路地を「水縄手道」と呼ばれていた。

 

 

松本縄手通り

 

戦前まで盛り場として繁昌し、戦後は闇市として露店が軒を連ねていたという。

今の町並みを見ると、とてもそう見えず、寧ろ小奇麗な印象だ。

実際、今の町並みができたのも平成13年[2001]、やはり観光客向けの整備の一貫だろう。

 

 

松本縄手横丁

 

縄手通りから外れたところに、「ナワテ横丁」と書かれた古びたゲート。

寧ろ、こっちの方が闇市の雰囲気強い。

 

 

松本縄手横丁

 

ゲートをくぐると、如何にもな盛り場の雰囲気。

これは一度夜に訪れたかった。

 

そんな感じで前編はここまで。

後編では、松本市内のレトロ建築めぐり、松本城と並ぶアノ建物にも触れますよ!?

 

 

 

(次回に続く)