2022-12-30T20:44:58Z #040 秩父鉱山 ②

#040 秩父鉱山 ②

前回から引き続きニッチツのレポート。戦国時代から続く歴史ある秩父鉱山、一般には知られていない坑口や自然埋没した鉱床経路。また人道外の吊橋や架空索道の存在など調査は多岐に、公開できる範囲で多くの魅力と国内の鉱山史に名を刻む物語をお伝えしたいと思います。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

埼玉県│秩父鉱山

調査:2010年05月
再訪:2010年07月 / 2011年05月 / 2011年09月 / 2012年07月 / 2016年05月
公開:2011年10月07日
名称:正式名称→株式会社ニッチツ資源開発本部秩父事業所 / 通称→ニッチツ
状態:長期放置区画が複数あるが全て管理物件

2022年03月

追記更新秩父鉱山に関する重大なプレスリリースがありました、この鉱山を擁し管理運営する株式会社ニッチツより結晶質石灰石事業の終了が取締役会(2022年03月17日)において決定したとの事。

正式なリリース内容は下記より
https://bit.ly/3K3Xa8Z

事業は同年09月30日をもって終了し、営業所は12月31日に閉鎖。同区画内の関連業務も年内で撤退との事です、復活が望まれていた秩父鉱山簡易郵便局もこの間々閉鎖に。

跡地についての再利用計画はまだ発表がなく、追記すべきニュースがあれば今後も更新する予定です。

レポートの内容は初来訪時とその後の再訪現地調査、そして現在の状況を総括して再構築されています。写真に対するキャプションは所々当時の内容が反映されていますが現在の情報に更新した上で整合性を保持しています、また記録的な豪雪だった2014年の影響で各施設が崩落しその後解体されている箇所に関してその都度注釈を挿入しております。

平成26年豪雪 - ウィキペディア

前回に引き続き、秩父鉱山の残存施設をご紹介します。2008年の大規模解体で難を逃れた幾ばくかの廃墟やそれらについてご存じの方々のヒアリングを基にレポートを構成しています。



注意点
取材当時も出版の為に許可を得、更に関係者である元鉱山職員を伴っての撮影とヒアリングとなりました。その為、取材範囲が制限されており、有名ではあるものの撮影ができなかった施設も複数あります。



秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

鉱山で生活する人を支えた小さな診療所

秩父鉱山は標高830メートルの深い山中にあり、事故や病気などで急を要する治療が必要な場合はどうしていたのだろうか。火傷や裂傷は然り、突然の病は市街地から離れた人々にとってさぞ恐ろしいことであったとうと推測できます。

秩父鉱山では早い段階からこの地での生活者の怪我や病気に対応する為、規模こそ小さくはありますが多様な症例に対処できる設備と人員を配置していました。それが「日窒秩父鉱業所診療所」です。

俗に日窒診療所や日窒鉱山病院などと呼称されますが千島洋秀著「秩父郡市医師会の足跡:覚え書(埼玉新聞社)」の昭和三十三年の会員名簿に「日窒秩父鉱業所診療所」の名が記されています。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

日窒秩父鉱業所診療所では内科、外科、歯科、一般的な総合診療を行っていました。しかし産婦人科だけは用意できず、市街地へ来院させるか定期的な産婦人科医師を招待して診察するという形式をとっていたそうです。

当時の診療所を伝える貴重なエピソードを見つけました、以下より。

産婆さんを訪ねて 第11回 鉱山の町
https://archive.is/KPVfG

注意点
戦後、法整備が整うまでは医師免許を持たない産婆さんや取り上げ婆さんと呼ばれる古くから産婦人科とは全く異なる出産補助を行う方がいらっしゃいました。山奥の鉱山産業が土地に産業として定着すると市街地からこの様な明文化できない職業の方が雇用されたという話が全国に存在ます、足尾銅山や松尾鉱山などの取材時にも類似するエピソードが発掘されます。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

旺盛時の病院関係者は10人ほど、出産の他に伝染病や大人数の怪我人などが出た場合は応援要請を行い、20人ほどの医師や医師関係者が詰めたそうです。

注意点
児童の健康診断などは校舎で行われました、元住民の方に見せて頂いた写真を確認するに保健室などの小さな部屋ではなく、理科棟の二階(多目的ホール)で行われていたのではないかと予想されます。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

内部の崩落は2010年の時点でかなり進んでいました、同行された元鉱山職員の方にも出来れば余り内部に入らずに外から撮影してほしいとお願いされてしまい、一往復だけ許可を頂いて撮影しました。

その方はこの診療所で受診した経験はないそうです、いつ頃閉院したのか内部資料を確認すれば解りそうでもありますが提供は叶わず。一部、こちら側で確保した資料に基づいて記載内容を精査していますが実際と歴史検証の違いについては何卒ご容赦願います。

写真奥のドアは裏口です。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

この日窒秩父鉱業所診療所には入院という制度はなかったようです、手術室や療養室はありますが長期入院は基本的に市街の大型病院へ転院という形式で術後数日間の要安静期間用のベッドのみあったのでしょう。

待合室の証言は得ていませんが写真の部屋は診療所内中央の位置、談話室なのか休憩室なのかさえ判明しませんでした。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

診察室。

資料棚や症例写真、レントゲン写真なども保存されていました。触診に準ずる簡単な治療も行われていたとの証言も。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

建造物中ほどの崩落具合は酷く、柱も数本折れている状態でした。床は完全に抜け落ち、所々に釘などの鋭利な物を確認できます。

どうやら以前は注射器なども散乱していたそうです。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

こちらの部屋の用途は判明せず、市街でのヒアリングで関係者にも写真をみせましたが明確な回答は得られませんでした。

床にはレントゲン写真、カルテ(個人情報記載)、それから何故か小学校の名簿の様なものも。学生の診断用資料だったのかもしれません。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

歯科と思われる診察室、比較的新しい機材が幾つか見て取れます。

注意点
隣接する赤岩文化会館とこの日窒秩父鉱業所診療所には業務用電源(200W)が常設されていました、売店や共同浴場にはなかった点からもこの二つの「娯楽」と「医療」の存在がどれだけ大きかったかが解ります。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

廊下はまとも歩くことができません。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

手術室。

以前は無影灯が残されていましたが(2010年から)数年前に消失したそうです、調べてみると廃墟を扱ったウェブサイトで無影灯が設置された手術台の写真が残されていました。

その頃は悪戯描きなどもなく、古い診療所の雰囲気が確かに感じ取れる場所だったようです。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

薬品保管・調合室。

この部屋に関しては現職(当時)の方からもお話を聞けました、取材当時の2010年の前年。企業としてこの場所に幾つもの薬品が残されている事は把握していたそうです、行き届いた管理ではありませんが定期的に見回りなどは行っていたようで薬品が盗難にあった事は直ぐに判ったそう。

危険な薬品も幾つかあったそうですが企業側に報告は行ったと、その後盗難事件として警察に届けたのかは明るみになっていませんが年々薬品が減っていき、現在(2010年当時)は写真の通り殆どなくなっていました。

薬品の接写もお断りされてしまったので廊下側からの一枚となります。

注意点
その後の机上調査で廃墟から持ち出したと思わる薬品瓶の写真がウェブサイトやSNSに投稿された、他にもオークションサイトに出品されたなどの情報を頂きました。同じ頃、関西圏で有名な病院の廃墟からも同様に薬品が持ち出されており、ネット上では一時期関連性などの検証がされていました。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

この部屋も用途がハッキリしませんが医療器具やカルテなどが散乱していました、スゴログではヒアリング時にこの診療所の現役当時の写真を探しました。

少なくともウェブ上には存在せず(2010年当時)、関連書籍からも見つけられません。もしお持ちの方がいましたら是非ご一報頂きく思います。

用途不明な部屋を含め、この診療所について書籍、当時の医師や関係者からのヒアリング以外に詳細を知る手立てがありません。隔離された山中の医療機関の稼働サンプルとして非常に貴重な歴史を有するこの日窒秩父鉱業所診療所、当時の写真やエピソードをご存じの方がいらっしゃいましたら是非ご連絡願います。



秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

”街”を形成した鉱山職員寮と住宅群

山深い森林区画を整備して居住するスペースを確保する、それはこの地域の地形においてはとても大変で大規模な工事でした。事業拡大と共に従事する鉱山職員も増えていくことになります、故に一度に整備したわけではなくて増員と共にその平地確保(居住区)には四苦八苦すると共により快適で通勤に労を費やさない良物件とそうでない物件の格差も生まれるのでした。

1964年まで、この秩父鉱山では本社採用の社員と現地採用の鉱山職員では労働面・賃金などの雇用面・そして当地での社宅に大きな差別がありました。

住宅事情を例に挙げると通勤までの距離や高低差が少ない上座が間取りや建築技法で良質であったのですが下座に位置する鉱山職員の住宅は通勤距離が長く、また高低差があり歩く事にも不便を要しました。

またその造りは明かりからに上座の劣化版であり、江戸長屋を思わせる簡素なものでした。この住宅事情の差は現在残されている廃墟群でも確認できます。

注意点
ヒアリングにより上記のような位置関係を記載しましたが実際には下座方面にも本社採用社員を対象とした寮が建設されています。有名な丹岫寮などがそうですがそのような場合、敷地前面に駐車場スペースが確保されています。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

秩父鉱山北東に位置する社宅群、場所はここです。


写真はヒエラルキーでは言えば中流階層の社員寮です、家族持ちの比較的新参に属する本社採用の社員用住宅で全面畳張りの上三部屋を確保、別途土間(玄関・炊事場兼用)がありますが住宅群の中には共同炊事場もあります。

実はこの住宅群には主要道路の共同浴場とは別に住宅群用にも共同浴場が設置されています、なので一緒に生活している家族にとって原島商店・共同浴場・共同炊事場と生活が完結できる県境が完備されており、しかも徒歩5分圏内に娯楽集会場と診療所もあるのですから当時の生活水準を考慮しても山間部で十二分な環境があったといえます。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

1964年、組合によって身分制度撤廃が発表されると便宜上の上下関係(社員と鉱山職員)は無くなりました。しかしそれはあくまで書面や建前のものであったと聞きます、その後も閉山に至るまでこの身分制度は暗黙の了解とばかりに継続したようです。

撤廃通達後の住宅事情も大きな変化はなかったそう、これは社会通念を世情に合致させただけのイミテーションだったのです。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

下座下級階層は元社員の旧社宅や明らかに作りの古い(建築費が安い)ものでした、現地採用組においては女子寮だけが少しだけ憂慮されていたそうですがまだまだ男尊女卑が根強い時代。しかも山岳地帯の鉱山とあってはその差は歴然だったことでしょう。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

上座中流階層の家族向け社宅、こちらは寮形態ではなくて平屋建築です。1970年代の残留物が多いですが中には1980年代のものも。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

こちらは共同浴場の裏手に位置する六軒長屋、現場労働の鉱山職員用長屋住宅です。更に後方にはフタバ荘がありましたがこちらは解体されています。

中は荒れ果てており、尚且つ生活環も残されているのでなかなか不思議な雰囲気を醸し出しています。残留物の多くは1970年代の物でした。

想像絶する残存状態だった鉱山職員アパート


新しい社員寮を除けば最大規模の鉱山職員アパート、長屋二階建てで一見すると温泉旅館の様にも見える佇まい。

古い木造で2010年の取材時点で崩落寸前でしたが2014年頃に崩落~解体の知らせを頂きました、やはり降雪に耐えきれなかったのか歴史的大雪による自然の力が大きかったのか。

少しだけ当時の崩落前の内部をご紹介します。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

入口からして既にこの状態です、山側は大きく崩落しており道路側も部分的に欠落している非常に危険な状態でした。

一歩足を踏み入れるとギシっと大きな音と共に揺れを感じます。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

同行して頂いた元職員さんからも危険なので内部の撮影は控えてほしいと懇願され撤退、手前を数枚撮影して出版・行政・NPOとそれぞれに資料写真として提供させて頂きました。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

裏手も酷い物でこちらは既に崩落済、全体が潰れるのが企業による解体が先かというギリギリの状態でした。

このアパートは鉱山職員用の集合住宅でしたが眼前には商店(彦久保商店)・共同浴場・床屋・食堂と鉱山にとって重要なインフラが集中しており、南に小中学校まで徒歩5分、北に集会場と診療所まで徒歩5分という素晴らしいロケーション。

さぞ人気があったのだろうとヒアリングを試みるとどうやら北側の住宅群の方が人気が高かったそう。その理由を聞くと

このアパートは独身向けで小中学校とは特に深く関係なく、また娯楽の中心は集会場(赤岩文化会館)であり、集会場の周囲には二つの女子寮(山吹荘と長屋女子寮)があったのでとても人気だった

そうです、狙っているかは解りませんが大きな長屋女子寮の隣には社員寮が、福利厚生とは別の忖度がこんなところまでに影響していたとは思いたくありませんがなかなか興味深い位置関係です。



秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

解体済の関連施設

2010年の取材時から遡る事2年、2008年頃に大規模な解体工事が行われた秩父鉱山の廃墟群。中心地から離れた関連施設もて手付かずの数十年で危険な状態なものばかりでした、その関連施設で辛うじて残っていた建造物を幾つかご紹介しましょう。


秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

ここは日窒鉱業道伸窪線(鉱山軌道)の関連施設群があった場所、内部写真の建造物に関してはこれだけ記載がない。

周囲には解体されたであろう

・道伸窪線停車場
・1024M坑休憩場
・1024M坑事務所
・軌道修理場

が並ぶように併設されていました、しかしこの写真の建造物だけ名称の記載がありません。因みにこの施設群の南北には畑がありました。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

この日窒鉱業道伸窪線に関して有力な情報だろうウェブページを発見したので記載しておきます、歩鉄の達人という有名なウェブサイトです。

鉱山軌道 日窒鉱業道伸窪通洞 - 歩鉄の達人
https://archive.is/VZxBJ



秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

日本の鉱山史に名を遺した秩父鉱山

先のレポート「#039 秩父鉱山 ①」でも記載しましたがこの鉱山の歴史は非常に古く、最盛期の1960年代から1978年の閉山に至るまで多くの物語を残しています。それは鉱山そのものの産業史であったり山間部を開拓して街を形成した都市開発の一例であったり、また僻地医療の在り方を示した貴重な地域でもありました。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

スゴログでは現代にこの貴重な資料を可能な限り多くの聞き取り調査と共に公開したいと考え、旧サイトの公開から10年を経過しまいたが再取材を行いました。2010年の本取材をベースに2011年~2016年までの継続的撮影、2020年に企業側に取材申し入れ(これは残念ながらお断りされてしまいました)。

当時の資料と書籍に残された多くの記録、そして元職員や関係者へのヒアリング。どれだけ正しい記録となったかは分かりませんが興味深いお話と共に、少しだけ当時を垣間見れたかと思います。

スゴログにおけるアウトドアのホームグラウンドは実は奥秩父です、偶然にもこの秩父鉱山から程近く、これから来訪する事もあると思いますので追記できる情報が入りましたらこのレポートページ「#040 秩父鉱山 ②」へ付け加えていく予定です。

またこの鉱山に関する多くの情報提供をお待ちしております、小さなことでも結構ですので当時を慮る何かが御座いましたら是非ご連絡願います。


ニッチツではこんな動画も制作しています、閉山後のそれもこのご時世ですから山岳産業を生業にして居住するとなると人員募集も通常のものでは集まらないのでしょうか。若い方達に訴求する労働環境と娯楽コンテンツ、そして給与が保証されないとかなり難しいと思われます。



旧サイト(前運営)より引き継いだ特殊な吊橋情報

スゴログの旧体制は現在とメンバーも異なります、私達が改めて各物件の許可申請を行ったり、その結果旧サイトでは掲載できていたコンテンツが現在では公開できないなどの問題も発生しました。

秩父鉱山のレポートでは旧サイトで人気だった関連施設「C大黒吊橋」のエントリー、スゴログでは正式にこの吊橋の取材を企画していたのですが回答は不可。調査動機や私達の安全対策などを資料にまとめて送付しましたがやはり企業責任が大きく問われる昨今、行政などの公的調査以外は受け入れしないようです。

今回秩父鉱山のレポートを作成するにあたってこの吊橋の扱いをどうするべきか、長い検討期間がありました。この吊橋を含む周囲一帯は数ある秩父鉱山のレポートでも中々触れられていない場所であり、書籍などでも殆ど取り上げられていません。

古い資料と聞き取り調査により、その姿が薄っすらと判明したので机上調査のみの掲載となりますが幾ばくかの情報を残したいと思います。

注意点
この場所に関しては現在、完全に立入禁止区域です。吊橋へのルートは基より、進入口の素掘り隧道から手前は関係者以外の侵入を全て禁止されています。また、過去にこの吊橋へのルートで怪我をされた方もいらっしゃるとの事、非常に危険な脆い石灰岩の岩場を登る場所のようです。

秩父鉱山 ニッチツ 無能吊橋

この吊橋は大黒坑とニッチツ資源開発本部裏手の複数の坑口を繋ぐ為の用水管管理橋だったとききます、運用時のこの一帯の地図を見る事ができたので確認してみましょう。

秩父鉱山 ニッチツ 無能吊橋

残念ながら吊橋は描かれていません、太く直線で描かれているのは恐らく鉱石運搬用の空中索道です。用水管の為の吊橋だとして設置場所に幾つか疑問が残ります、電力用配線ならば態々空中索道を利用せずとも良いですしこの高さと距離を確保して利用する「用水」とは何だったのか、それが解りません。

秩父鉱山 ニッチツ 無能吊橋

1976年の航空写真には僅かながらの線でこの吊橋が写されていました、よく見ると山頂間で設置されておらず、大黒抗側に至ってはもう一つ山を越えなければなりません。


確かにスゴログで調査した際にも用水管の設置に関する資料を発見しました、走り書きのような名称も複数散見しましたが正式に公表された吊橋の名称は私達では発見できませんでした。

しかし当時の航空写真と書籍資料からどのような運用が為されたのか、僅かばかりですが見えてきます。

秩父鉱山 ニッチツ 無能吊橋

同時代社から発刊されていた黒沢和義著、秩父鉱山の巻末に掲載されている秩父鉱山の詳細地図。著書の黒沢和義さんが当時の資料などを頼りに作られた資料性の高い地図です、その中に沈殿池の記載がありました。

秩父鉱山 ニッチツ 廃墟

該当部分を拡大すると大黒抗への山道が整備されていた事がわかります、つまり更に標高を上げて大黒側と用水路を確保する必要性(吊橋にするメリット)がありません。


これは大黒坑側の山道入口(だった場所)。

位置関係から推測するに、この吊橋に設置されていた用水管は第一沈殿池へ送られる鉱山廃水用のものだったのではないかということです。秩父鉱山には大きな坑廃水処理用の沈殿池が今でも残っています、この第一沈殿池は非常に小さく処理能力は低かったと思われますが開発本部裏手の坑口から直接排水が可能だった場所。

そして山頂間でない理由も坑口の場所(こちらは非公開とさせて下さい)と照らし合わせると納得がいきます、これらは推測であり結果ではありません。鉱山における沈殿池の扱いはシビアでこの手の質問には基本的に企業側は回答して頂けない事が多いのです(足尾銅山の取材時はこの問題点を訴求するのに難儀しました)。

と、なると旧サイトで調査した名称や役割は大きく違っていたことになります。

秩父鉱山 ニッチツ 無能吊橋

吊橋はこのように人が歩くための作りではありません、風にも弱そうなので用水管が設置されていたのか、もしくは軟性のホースの様なものがあったのか。

これらに関しても今後調査を継続する予定です、今後秩父鉱山の大きな沈殿池のレポートも予定しているのでその時新しい情報がありましたら追記したいと思います。

最後に「#039 秩父鉱山 ①」と同様の末尾説明を記載致します、今回は以上です。




秩父鉱山

戦国時代に甲斐武田氏が金や砂金を採掘したところから始まるこの鉱山、その潤沢な金の鉱床の魅力に誘われて平賀源内も入山した記録が残る。近代史では柳瀬貞三が柳瀬商工株式会社(柳瀬鉱業所)として採掘権を得て正式に日窒鉱業株式会社(現ニッチツ)としたのが1937年。

大規模な展開を見越し、既に工場設備や私設学園なども創設していたが本格的な運用は1940年。年々減る金の採掘量ではあったが銅や鉛、亜鉛など豊富な鉄類が採掘可能だった事で事業は拡大。1960年代に最盛期を迎え、その関係者も含めると2000人以上とも3000人以上とも言われる陸の孤島の大鉱山と呼ばれるように。

注意点
産出鉱物は主に自然金・閃亜鉛鉱・黄鉄鉱・磁硫鉄鉱・灰バン柘榴石・硫砒鉄鉱・水晶・方鉛鉱・赤鉄鉱・車骨鉱などであるが希少鉱物やイレギュラー鉄類が見つかることも。産出鉱物の種類でいえば約140種類が記録されています。

1973年に業務としての凡そ鉱山採掘を中止し、運営方針の転換を試みる事に。1978年に細々と継続していた金の採掘を断念、段階的に多くの抗口を閉鎖。その後現在の石灰・珪砂を採掘する形態に、故に近年では所狭しと石灰の山が見て取れる。

株式会社ニッチツは複数の部署からなる大企業だが数ある操業系の一つ「資源開発本部」がこの秩父鉱山、実は企業敷地を含む広大な範囲が秩父多摩国立公園に指定されている。

ウィキペディアによる簡易沿革は以下の通り。

1600年頃 秩父鉱山発見。甲斐武田氏が金・砂金を採掘。
1765年 - 金採掘のため平賀源内が入山。
1910年 - 東京の柳瀬商工株式会社が買収。鉄鉱開発を行う。
1916年 - 鉱山 - 皆野間に架空索道を建設。
1937年 - 日窒鉱業開発株式会社が買収。3年後本格操業開始。
1950年 - 日窒鉱業株式会社(現在のニッチツ)設立。
1960年代 亜鉛、磁鉄鉱など採掘、最盛期には年50万トンを出鉱する。
1969年 - 珪砂の採掘を開始。
1978年 - 金属採掘を中止。

秩父鉱山を含む秩父の土地分類調査報告書が行政からPDFで公開されています、参考までにどうぞ。

土地分類調査報告書(秩父)
https://archive.is/jAPir

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参考・協力

秩父市役所
秩父市役所 秩父勤労者福祉センター
埼玉県立図書館
秩父市立図書館
株式会社ニッチツ
彦久保清(彦久保商店/店主)さん
元居住区の住民(数名からヒアリング)
元鉱山夫(数名からヒアリング/内、取材時現役職員)
小倉沢小学校同窓会
秩父鉱山/黒沢和義(同時代社)
続・秩父鉱山/黒沢和義(同時代社)
小倉沢(合同小倉沢会/秩父市立図書館所蔵)
埼玉県の地下資源に関する文献収集整備報告書(昭和45年度)
新編埼玉県史(資料編16)
埼玉県の近代化遺産/埼玉県立博物館(埼玉県教育委員会)

注意点
埼玉県立博物館においては館内閲覧のみの資料を郵送して頂いたり別途貸出禁止の書籍をお貸し頂くなど大変お世話になりました、有難うございました。



レポートの場所



注意点

該当区域は管理されており、無断での進入する事は法律で禁止されています。また登山物件においては事前にルートの選定、充分な予備知識と装備で挑んでおります。熟練者が同行しない突発的な計画に基づく行動は控えて頂く様、宜しくお願い致します。

スゴログの装備とその使用方法など
https://www.sugolog.jp/p/blog-page.html