2021年10月11日
戦後憲法学の凋落と「立憲主義」の歪曲⑥ 美濃部「国家主権」論とヘーゲル「法の哲学」
「或いは曰く、我が憲法は大日本帝国は天皇之を統治すと定む、天皇が統治権を保有することは憲法の明に定むる所なり、国家が統治権の主体なりと言うは憲法を無視するものなりと。然れども憲法は唯統治の権能が天皇に出づることを定むるのみ、其の権能が法律上の観念に於て御一人に属する権利として認められるべきや否やは憲法の関する所に非ず。憲法の文字に依りて国家の本質に関する学問上の観念を求めんとするが如きは憲法の本義を解せざるものなり。」(『憲法撮要』p22)「若し国家が法人なることを否定すとせば、法律上より観たる国家は法の客体なりとするか又は法律関係なりとするかの何れかの見解に帰せざるべからず。」「前の見解は君主国に在りては君主が統治権の主体として国家を統治し、国家は其の統治の客体なりとする見解是れなり。」「後の見解は君主が統治権の主体として人民を統治し、国家は両者の間の統治関係なりとする見解是れなり。」「何れの見解を取るも、国家に於ける治者と被治者とが互いに対立の関係に在りと為すものにして、治者も被治者も協力一致其の共同の目的を達し其の全体を以て統一的の団体を為すものなりとする思想と相容れず。」「国家が統一的の団体なることを認むる限りは、法律上より観て、国家が一の法人たり法の主体たることを認むるは、其の論理上の必然の結果なり。」(p23)
上記のような美濃部の論述は、「国家が統治権の主体である」(即ち主権は天皇にではなく国家にあるという主張)は、首尾一貫した論理に貫かれている。美濃部に従えば、以下のような論理展開となる。
①国家は統一の団体である。→②国家は法人である。→③憲法は統治の権能を天皇から出ていると規定しているに過ぎない。→④憲法には、統治権能が天皇唯一人の権利として定める規定はない。→
⑤「君主が統治権の主体として(国家の上に立ち)国家を統治する」(穗積憲法学を想定)「君主が統治権の主体として(治者として)被治者を統治するという統治関係が国家であるとする」ーこのいずれも「治者(君主)と被治者とが対立関係にあるとするものである。
⑥「君主が統治権の主体」であるとする見解は、国家が治者も被治者も一致協力して共同の目的を実現するための統一的団体であるという思想と相容れない。
以上のような論述から、次のような諸点を読み取ることができる。
⑴国家は、共同の目的を実現するための統一的団体である。即ち「共同体」である。
⑵国家は、共同体(統一的団体)であるからして、君と民は、共に協力して共同の目的の実現に当たらなければならない。~これは、一種の「君民共治」の思想である。
⑶「主権は、君主でもなく国民でもなく国家にある。」という主張は、しかし、美濃部の独創ではない。というのは、ヘーゲルの『法の哲学』の中に同様の記述が見られるのである。
「・・・国家にこそ主権は属すべきであるということが明らかにされていさえすれば、主権は国民に存すると言ってもいい。しかし国民主権を、君主のうちに顕現している主権に対立するものとするのが、近ごろ国民主権について語られはじめた普通の意味である。」(中央公論社刊、世界の名著、p533)「ーだがこのように君主主権に対立させられた国民主権は、国民についてのめちゃな表象に基づく混乱した思想の一つである。国民というものは、君主を抜きにして解されたり、まさに君主とこそ必然的かつ直接的に関連している全体の分節的組織を抜きにして解されたりする場合は、定形のない塊りであって、これはもはや国家ではない。」「こうした塊りはまた、内部形式の出来上がった全体のうちにのみ存在している諸規定のどれ一つをもーすなわち、主権であれ、政府であれ、裁判所であれ、地方政府であれ、ーそのどれ一つをも、もはや手に入れる権利をもっていないのである。」
更に、美濃部の国家「主権」概念には、ヘーゲルの「主権」概念の大きな影響を看取することができる。美濃部は、国家主権に「対内主権」と「対外主権」の二種の主権の区別を主張する。
「普通に国家が『主権』を有すと言うは、即ち国家が最高の意思力を有する意味なり。若し国家の意思力を称して国権と言うとせば、所謂『主権』とは其の本来の意義に於いては国権の最高性を意味す、即ち主権とは国家の権利としての統治権を意味するに非ざるは勿論、国家の意思力其のものを意味するにも非ず、国家の意思力に属する特性を表現する語たるなり。」(p23)
第一「国家の意思力は国内に向かひて最高なり。普通に之を国家の『対内主権』と言ふ。」(p24)
第二「国家の意思力は外に対して独立なり。普通に之を国家の『対外主権』と言ふ。」
ヘーゲルは『法の哲学』において、美濃部同様、二つの主権の区別を次のように記述している。
「・・・すなわち、国家のもろもろの特殊な職務と権力が、それ自身としても、諸個人の特殊な意志のうちにあるものとしても、自立的固定的なものではなく、それらの単一の自己としての国家の一体性のうちに究極の根柢をもっているということ、このことが国家の主権をなす。
これは対内主権である。主権にはまだもう一つの面、すなわち対外主権がある」(p528)
最後に、戦後日本の憲法学者に痛撃を与えるものとして、先に引用した美濃部の『憲法撮要』の中の一文を紹介し、今回のブログを終えたい。
憲法の文字に依りて国家の本質に関する学問上の観念を求めんとするが如きは憲法の本義を解せざるものなり。
akirakapibara at 13:08│Comments(0)│憲法学批判