[ お話は 前回 から引き続いて ]

 

ひとつ迂回をしてみましょう、齋藤智恵子『浅草ロック座の母 伝説の女傑』(竹書房 2017.11)です。題名通り浅草ロック座を頂点に全国のストリップ劇場を掌中にした斯界随一の女性経営者ですが、若くして旅役者と恋に落ちてまぁドサ回りの色男ともなれば懐も胸の内も苦労の限りを尽くします。やがて浮草稼業から足を洗い(ついでに女出入りに芸を肥やしてばかりの夫とも手を切って)気質の暮らしに戻ってしばらく、どこをどう見抜いたものか劇場主からストリッパーになることを熱心に口説かれます。三十代も半ばにして男たちの視線の荒波に漕ぎ出すわけですから、いっかな女傑とは言え煮えたぎる男たちの前で初めて帯を解くときはさすがにわなないて長く垂れた帯に足を滑らせてすってんに転んだ弾みにカツラを客席にふっ飛ばしたとか。しかし一度飛び込んだ以上泣くも笑うも自分と思えば客がはねた劇場の床をシケモク拾いに這ってでも成功しようとやはりひと並外れた気概を発揮していきます。しかし女の身でのし上がっていけば立ちのぼる金の匂いに引き寄せられるのがやくざ者で甘い言葉に脅し、力づくも頑として撥ね付けますといよいよ寝込みを襲われてドスで袈裟懸けに斬られます。刃物傷は痛いんじゃない、熱いとは斬られた者にしかわからぬ気骨ですが巡業に出た先々でも地元のやくざがショバ代を鷲掴みにしていこうとするのに一歩も引きません、<斬る度胸はないが、斬られる度胸はある>とやくざを前に立ちはだかります。そうやって一軒、一軒と自分の劇場を増やしていくのも女性が生きていくのに何くれと転落があり転げ落ちる人生には穴も用意されていて体を売る売らせるがとどのつまり、しかしストリップは女性が持って生まれたものを惜しげもなく披露することで客の喝采を浴び生活をしていけます。ですから関西ストリップの(とりわけストリップというものが下り坂になってからは背に腹は変えられぬ)生板ショーは断固拒否して飽くまで踊りを見せる姿勢を貫きます。齋藤に頭が下がるのはとは言え裸にも引き際があり踊り子たちのその後を思って受け皿を作っていることで食堂を開き或いは衣装やカツラなどの係につけて彼女たちの余生を支えるわけです。そうそう神代辰巳監督『濡れた欲情 特出し21人』(1974年)の撮影のとき予算の少なさを見かねてスタッフの寝泊まりに劇場を提供してくれひとがあったとはスクリプターの白鳥あかねの語るところです、挙句に朝早い撮影隊のために踊り子たちが総出で朝食を用意してくれたんですから白鳥でなくとも泣かされます。最後はその恩情に答えようと踊り子たちを客席にして慰労会を催すと撮影隊が次々ストリップを披露します。陽気な姫田真佐久などはまさしく熱演で沸かせて白鳥自身もステージに上がってのちに物議を醸しますが彼女が悔しがるのはカッコつけの神代が黒田節でお茶を濁したことで...  さてこの助け舟を出した劇場主こそ齋藤で本の口絵にそのときの写真があります。

 

 

 

いまや順風満帆、全国の劇場をまるで太陽を追いかけるように飛行機を乗り継いで束ねる姿にテレビの取材が入ります。その番組(確か『3時のあなた』)が放映されるのを気恥ずかしさ半分に皆と見終えたそのとき電話が鳴ります。相手が名乗るには若山富三郎であると、齋藤にすれば一面識もない映画スターの突然の電話に面喰らいますが若山の要件とは単刀直入金を貸してほしいと言うのです。それにしても尋常でない(まあ呆れるばかりの)胆力でしていま自分がテレビで見たばかりの人物にそのひとが羽振りのいいのを当てにして突然電話をして金の無心です、しかも求める額は5000万。それを貸してやる齋藤の心意気にも驚かされますが、恩に着ます、このことは命に替えましてもと殊勝に感激しながら結局踏み倒す若山にはまあ心底驚きます。さてしばらくして電話がもう一度鳴ります。掛けてきた主は勝新太郎、要件など聞かなくてもわかります、齋藤にすれば兄の次は弟かいと差し詰め兄弟でちょろい金主が見つかったと渡りをつけての無心です。これが齋藤と勝との長い付き合いの始まりですが、齋藤が言うには自分は勝新太郎という人間に惚れて融通をつけてやったんだから何の悔いもない、その額ざっと20億円。火の車の勝プロに貸せども貸せども好転の兆しなくいよいよ息子を経営陣に送ってみますが彼の奮闘を以てしても沈む泥舟を引き上げる術はなくて勝プロは敢えなく倒産です。勝が亡くなったあと堆い借金の山積みにテレビにドラマにと馬車馬の出演を続ける中村玉緒は齋藤への返済だけは毎月自ら届けに来たと言いますから身に染みる恩義の深さだったのでしょう。


増村保造 やくざ絶唱 平泉征 勝新太郎
 

 

映画からテレビに進出していく勝プロの騒動記は春日太一『天才勝新太郎』(文藝春秋 2010.1)が描くところです。思うにならない大映末期の映画製作に自らプロダクションを設立して思うさま映画を作ろうというわけで大手が生き残りを模索する日本映画凋落の渦潮に自分の人気を当てに乗り出した勝新太郎です。そんな勝を日の出のテレビがほっとくはずもなく破格の製作費を呑んでテレビ時代劇に引き込みますが、関わる人間が増えるほど思惑は錯綜ししかるに作品を作り続けなければ利益が入らないのはいつの時代も変わらない製作会社の綱渡りです。おのれの主義主張と両手に余る仕事、それをせせ笑うかのように時間も現実も時代さえも過ぎ去っていくことの早さ、そして才能とはいつだってそれらよりもはるかに小さいものです。(まあこの辺りのことを勝が<一切の妥協を排して>製作しようとしたと判で押したように繰り返す春日太一も言葉に上ずったひとで、『日本の戦争映画』(文藝春秋 2020.7)でも片渕須直をよいしょして<凡百の演出家ならあそこで...  してしまう>などと口走ってひととしての軽率さを晒します)。何にせよ天才などと安易に褒めそやすと本人のためにならないということでして、とりわけ惨たらしいのは毎週毎週のテレビ時代劇に引きも切らないアイディアを盛り込もうと勝が夜中に役の追加を言い出し勝プロの側近が旧友の戸浦六宏に頼み込んで取り乱した出演を承知して貰います。翌朝勝の許に出向くやあの役はもういらないとにべもなく言われ返す言葉もないまま一番の新幹線で京都に向かっている戸浦を出迎えるそのひとの胸中も憐れですが、まったく馬鹿にした仕打ちに無言で東京に引き返した戸浦とは以降言葉を交わすこともできません。これなど演出をまとめ上げられず構想力の欠落を散発的な思いつきで穴埋めしようとして更にまとめられなくなっているだけのことで端的に手に余ることをしているということでしょう。同じことを溝口健二のスタッフははるかに的確に言い当てています、その日現場に入るなり溝口が打ち合わせ通りのセットに駄目を出し作り変えを頑強に言い立てます、その間撮影は止まりしぶしぶセットを組み直すスタッフは監督の野郎、今日の演出が出来てないもんだから時間稼ぎしやがって... 。終わりがあって始まりがあり、枠に収めて作品であるわけでぐるぐると思いつきを並べ立てる気儘に周りは勝に応えてやりたいと思い金を湯水のように使って勝新太郎という夢物語を一緒になって見ていた、蓋しそういうことなんでしょう。

 

増村保造 やくざ絶唱 勝新太郎 大谷直子
 

 

1960年に大映のもうひとりのスターとなるその道に立って勝新太郎が自分に見極めたもの、白塗りの二枚目を捨てるということは要するに見せ場はすべて自分に握るというスターの生き方を求めないということです。実際勝の映画を見ていて思うのはその風通しのよさで、例えば『悪名一番勝負』(マキノ雅弘監督 1969年)では主演でシリーズを牽引する勝からぐっと役に乗り出して安田道代にも田村高広にも場面に身を投げ出す見せ場がありそれは『酔いどれ博士』(三隅研次監督 1966年)のような作品でも同様、『やくざ絶唱』(増村保造監督 1970年)や『顔役』(勝新太郎監督 1971年)で太地喜和子が勝を呑む芝居に何らためらいがないのも自分の見栄えのなかに共演者を押し込める気がそもそも勝にないからです。それは同作の大谷直子にしても田村正和にしてもいやチンピラ役に過ぎない平泉征にしても大きく小さく見せ場をやって彼らを前に立て勝はまるで自分の主演映画に客演しているような(まあ勿論主役として一等画面に映りながら何か共演者と横並びに物語に控えているそんな)佇まいです。そうやって共演者が見せ場に輝く芝居を縫いながら最後にぐっと自分の見せ場へと高めて(『やくざ絶唱』ならば大谷や田村に生き様を弾かれるようにして宵闇の向こうに死に場所を見つめる勝はぬらりと立ちはだかった撃ち合いに銃弾を喰らって無様な血みどろに身を捩って息絶えて... 勝か増村保造か『愚かなる妻』(1922年)で下水溝に顔を埋めて絶命するシュトロハイムを引き写して)映画を終えます。同じく雷蔵と共演しながら1958年の『弁天小僧』と1962年の『女と三悪人』では勝の風格がまったく別物であるのもまさしくこの流れにあって、前者は場面の見せ場を引き寄せようと芝居で雷蔵と競って(雷蔵を向こうに廻して太刀打ちできるわけもなく)気負った自分に立ち尽くしていますが、後者は雷蔵にも大木実にも思うさま芝居をさせて〆を自分が取るという一頭抜けた貫禄に翻っています。おそらく1960年自分の役者の本分を見つめたときに勝新太郎が見極めたのはそこだろうと思うわけです、共演者それぞれに思うさま花を持たせてそれを束ね最後に自分が〆ればそれは自分の映画なのだと、そして自分はそういうスターなのだと。

 

増村保造 やくざ絶唱 勝新太郎

 

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