残酷おんな情死
監督 : 西村昭五郎

製作 : 日活
作年 : 1970年
出演 : 真理アンヌ / 大堀早苗 / 岡崎二朗 / 杉江広太郎 / 木島一郎 / 田中春男

 

 

西村昭五郎 『残酷おんな情死』 田中春男 大堀早苗


大阪万博彩る総天然色の1970年に(まさに万博破壊を掲げて大学の神殿めいた石柱のテラスでかろうじて履いていたパンツをずり下げると片手を空に突き立てるゼロ次元の沈黙した下腹部と同じく)本作には黒いモノクロームの東京の夜が浮かんでいます。ご機嫌なフーテンでいまにも腰から踊り出しそうな大堀早苗は東京に着いたら面白いことが向こうから転がってくると朗らかに笑っていますが、面白いことなんてもうとっくに終わってしまっていることを彼女はまだ知らないのです。バーの隅でピンボールに齧りついる如何にも都会の若者たちが玉が弾かれるたびに(それこそ玉以上に弾き合っては)はしゃでいるのに入れて貰おうと間近で覗き込んだその暗い目は<本当に面白いんなら、面白そうな顔なんてする必要ねぇじゃねぇか>と吐き捨てます。結局夜の長さを持て余す若い女に声を掛けてくるのは背広を着た中年男たちで女と調子を合わせながら(あとのお愉しみに膨らんだ胸算用からすれば若い娘の飲み食いの分ぐらい何てことない気前よさで)やたらと酒をすすめては首尾よくホテルに連れ込みます。すっかり酔い潰れてあとはどうとでもなる甘酸っぱい果実を前に舌舐めずりに眼鏡をずり落としそうな中年男は田中春男ですが、この場面はさりげないながら脚本に手腕を見せて田中が用心にドアの鍵を閉めようとすると廊下にただならぬ物音が響いて細めに開けた田中の目には自分と変わらぬ中年男がズボンを履くのも取り乱して素足に転びまろびつ逃げていくのが見えます。事情を訝しみつつ(そんなことに構っちゃいられない、手を伸ばせば若い女がすやすや眠っているんですから)気を取り直して鍵を閉めようとするとまたもや廊下にただならぬ音がして細めに開けるや田中を押しのけて女の重い影が部屋へと倒れ込みます。床に投げ出された女を見下ろす田中は彼女に意識がないことに怖気づいて(膨らませた夜の夢を一瞬に縮こまらせると先程の男性同様)取るものも取らず部屋を逃げ出します。部屋に残されたのは昏酔するふたりの女性、大堀早苗と真理アンヌ、これが本作のヒロインたちの出会いです。翌朝になると見違える高級アパートに目覚める大堀は真理の恋人らしい岡崎二朗に言われるままふたりが住むこの部屋に厄介になりますが、やがてこの暮らしが裸ひとつの女性というものを男たちの幻想へと高めるための艶やかな幻でありそうやって纏った豪華さでただの売春を何倍にも釣り上げてはホテルの行き詰まる夜に身を売るコールガールであることがわかります。気づけば岡崎に売られるまま男の手に掻き抱かれるのを振り払ってふたりの許を逃げ出しますが、フーテン娘が遊んでご飯にありつけるほど東京はご機嫌な場所ではなく結局行き倒れ同然に拾われた男の許で暮らすことになります。コールガール、もっと安手に上京娘をおもちゃにしようという中年男の萎びた夜遊び、男性の隆々たる筋肉にしか欲望しない自分を自室一杯に閉じ込めている男、静謐な館の一室で謹直なまでに変態的な規則を遂行しようとする秘密パーティー、女を裸にしてただただ夜通し目の前を行ったり来たりさせることに恍惚とする客...  本作は性の規範から溢れる形のない欲望を滴らせながら、やがて名もなき二体の裸として再会する大堀と真理は純粋な(そして遊戯的な、転写的な)交わり合う欲望の果てに他人の欲望に塗れて生きるしかない自分たちの真実を掴もうとします。その意味でドキュメンタリーの手法で同時代の性の在り処を探った武智鉄二監督『日本の夜 女・女・女物語』(1963年)や中島貞夫監督『にっぽん'69 セックス猟奇地帯』(1969年 若き唐十郎も然ることながら奇しくも万博破壊行動の真っ只中だったゼロ次元も姿を留めて)本作もそれらに連なるわけですが、結末に朽ち果てた船を据えたことを見ても案外西村昭五郎を強く意識させていたのは吉田喜重監督『樹氷のよろめき』(1968年)なのかもしれません。両作を対に置いて広がっていくのは追いつめられた現実を(可能性の場所まで退くのではなく)不可能へと飛び越えることに愛を見る、黒くそして白い虚無。

 

 

 

西村昭五郎 『残酷おんな情死』 真理アンヌ

 

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西村昭五郎 『残酷おんな情死』 木島一郎 大堀早苗

 
 
 
 

 

 

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