そこのお前の外資系勤務と与太話ブログ

凡人が行く外資系企業勤務やキャリアの与太話や裏話。緩いのと辛いのまぜまぜ。人見知りやビビりだって人生案外イケるじゃんって思ってもらうための与太話。毎週月曜・水曜・土曜日更新予定

新人は「会社に居場所がない。」と感じやすい話

「居場所がある感」は案外人を支配する。 

居場所。

 

案外定義が難しいし、人によっても感じ方が違う。

 

自分が自分らしくいられるところ

と表現する場合もあれば

自分がいることで成立するところ

と表現する場合もある。

または

危険がない安心・安全なところ

であることもあれば

自分自身が生きていることを確認できるところ

と考える人もいる。

 

とにかく居場所があると感じることができるかできないかで自己肯定感にも大きな影響が出てくる。sokono-omae.hatenablog.com

 

が、その居場所感はあいまいで可変的、千差万別の感覚的領域である。

 

それでも、この感覚が非常に重要なのだ。

 

上記に表現した居場所と認識されうる感覚のうち、どれも持たない部類に属するグループがいる。

新人だ。

 

小学生が中学生になる時でも、新しい部活に入る時でも、中学生が高校生になる時でも、とにかく新人は安定した居場所を持たない。

 

今日は社会人新人の居場所について見てみる。

 

sokono-omae.hatenablog.com

 

そもそも新社会人はいろいろな場面で様々な新しいことを経験するわけだが、なんだかんだ誰もが通る道である。

 

だから、新卒採用をする企業は大なり小なり新人教育を行う。

 

新人教育は同時に会社目線で見ればある種の特別扱いだ。

 

中途採用であっても、新卒であっても、それに合わせたトレーニングプログラムはどこにでもある。

ただ、一般的に構築されたこれらのトレーニングプログラムが苦手とするのが人の居場所の用意である。

 

居場所感の欠如は能力がある人にもない人にも訪れうる話

 

むしろ居場所づくりの能力というものを定量化したほうがいいかもと思われるぐらい一般的で普遍的に求められるスキルである。

 

実際、居場所づくりが上手い人はいるし、同じ人でも居場所が作りやすいか作りにくいかは場所によって大きく異なる。

マルっと言ってしまえば運次第であって、自分でコントロールしきれるものではない部分がある。

 

居場所があるという魔力

 

一朝一夕にはできない居場所だが、居場所ができてくるとそれが自分に利益として跳ね返ってくるようになりうる。

困った時に頼れる人や自分を守ってくれる人など様々な技を体得できる。

 

単純な論理的思考能力とか頭の回転の速さ、正確さといった個人の資質に依存する能力とは違う技術を身に着けるようになる。

 

これは組織・集団への最適化であり、そこにハマりすぎると他での生存能力を失うリスクを持つが、それと引き換えに今目の前の現実的利益の取り分を最大化してくれる。

 

逆に今いる場所への最適化を逃したり、居場所の保持や維持に失敗するとその人の資質や能力とは異なる結果を生み出す。

 

そういう人たちは少し運が悪いと

窓際族

老害

ぼっち

村八分

などと呼称され、集団の中でつまはじきにされるわけだ。

 

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ここからの逆転は非常に大変である。

まずこびりついた悪い認識や評判をとるのに時間がかかるし、さっさと環境を変えたほうが結果的にはラクだったりする。

 

が、終身雇用時代は一つの会社を強制的に居場所にしなければならなかった。

居場所を作ることが何よりも重視される環境だった。

 

だから無理しても飲み会で徹夜するし、めちゃくちゃなお世辞で媚びを売らざるを得ない場面も出てくる。

要は居場所を維持拡大することに比重が置かれるようになるのだ。

 

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なぜなら、それがなければ生きている時間の大半を見知らぬ国や土地で過ごすようなものになるからだ。

 

だから、そのための礼儀作法が生まれ、そのためのビジネス慣行が生まれ、居場所の大きさと質に主軸をおいた仕事の仕方をする。

 

 

このモデルだと、成熟した組織や文化であればあるほど新参者や異なる立場を内包することができなくなってくる。

 

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社会人新人はその最たる例である。

自分のこれまでの常識も感覚も通用するかわからない。

むしろ、周りを見て必死に合わせることを要求される場面がふえる。

 

今まではそれが普通だった。

 

みんな通ってきたからこれからもみんなが通る。

 

そう思っている。

だが、その前提には社会がこれ以上多様化しないという条件が付いている。

 

この変化の早くて多様化がもてはやされる時代にそんな常識は通用しない。

それでもその前提条件が頭にこびりついた人たちは未だに今までに培った発想から抜けきれないでいる。

 

が、若い世代は違う。

 

その“居場所”は自分をずっとは守ってくれない。

終身雇用は終わりかけているし、転職市場が活性化した今、上司も部下も永遠ではない。

年功序列は緩やかに解体され、自由化が進んでいる。

かつての部下は上司になるかもしれないし、その逆だってありうるのだ。

 

だが、居場所があった人はその魔力から抜け出すことが難しかったりする。

抜け出さなければならないことはわかっていても、抜け出すタイミングを失う。

それは居場所に依存した年月と依存度合いが高ければ高い人ほど苦労する。

 

が、新人は真逆の立場にある。

そもそも居場所がないのだから。

 

居場所がないから簡単に離れていくし、離れたって困ることが少ない。

 

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同時に、今の居場所に依存しないことが重要であることを感覚的に理解している。

 

だから飲み会もそこそこにするし、会社外に自分の軸も持ち、主軸への依存を避ける。

 

そういった感覚を持つ個人からすれば、会社に多くを期待せず、自分の利益と両立する範囲でしか貢献しないというスタイルをとる方が合理的になるのだ。

 

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実は若い世代に限った話ではない。

そういう考え方をする人はどの世代にもいる。

が、一般的な感覚になってきたのは日本では最近だと言える。

 

全世代に分布しているが、特に若い世代を中心にそういう考え方が一般的になってきている傾向は否めない。

 

さて、それはなぜか。

結局、この居場所感の多寡が影響しているんだと思う。

 

むしろ、居場所感が重要だったのは過去の話かもしれない。

今は居場所ほどではない緩くつながり、とても流動的でフラットでシンプルな場所が重宝される。

 

一蓮托生とかそんなことはなく、必要な時に必要な範囲で必要な距離感でつながるというようにお互いに無理しないつながり方を理想とする人が増えている。

そして、そういったことが簡単にできる世の中になった。

 

それに慣れると旧来の居場所を作り、保持するための面倒な手続きや慣行を避けることが合理的になる。

こうして居場所づくりに失敗した組織は徐々に競争力を失うわけだ。

 

だから、逆説的ではあるが自分たちが期待する新人に対して居場所を作れるかどうかは企業にとって非常に大きな意味を持つのである。

 

副業をOKにしてみたり、働き方を自由にしてみたり、公私のバランスをアピールしてみたり、LGBTへの配慮をしてみたり、今もてはやされているものもあるが、本当はそうではない。

 

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古い慣習と心中する組織なのか、居場所を作る各人のIdentity managementが上手い組織となるべく既得権益としての居場所に手を付ける勇気を持つことができるかどうかである。

 

企業の人手不足の解消の課題はそこに潜んでいるとそこのお前は思う。

人を巻き込む力とかいう人騒がせ処世術の話。

結局、声がでかいやつが人を巻き込むって話。

 

人を巻き込む。

 

近年いろんなところで連呼されるあたかも普遍的に必須とされてきたかのような幅を利かせているスキルだ。

 

社会人用の自己啓発書にもこのテーマで書かれた書籍はたくさんあるし、就活中でも人事が連呼するのを何度も聞いた。

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が、現実は面倒である。

 

そこのお前の会社の人を巻き込む話

 

ある辣腕プロジェクトマネージャーがいた。

そのマネージャーはかなりビジョナリーなマネージャーだった。

 

実務よりの話ももちろんいざとなればできるのだが、常にゴールや将来の話などを重視する未来志向なタイプの人間だった。

それゆえ、リソースの調達や部下のマネジメント・ステークホルダーへの説明においては夢を語ることが抜群にうまい人だった。

その力だけでもプロジェクトマネジメントには向いている。

 

同時に計画性・戦略性に優れた人だったので実際にチームを動かしていく中でも非常に効果的にチームをコントロールし、動かすことができる人だった。

実はそのマネージャーの本当の強さはそこだった。

 

とても目立つ未来志向をもとにした対人折衝能力ではなく、実際に今ある現実からゴールまでの明確な道筋とそこまでの到達の仕方を描くことができる点だった。

 

この部分を信頼する経営層は苦しいプロジェクトは全部彼のものにしたものだ。

 

そんな人だったから彼と共に働きたいと願う人はとても多かった。

自然と彼に力を貸す人は多かったし、いやいやでも強引にやらされたわけでもなく、全員が進んで協力していた。

 

そんな中、そのマネージャーに憧れる一人の人がいた。

 

だが、彼は見間違えていた。

その人の本当の強さではなく、目立つ人を巻き込む未来志向な部分だけをマネしてしまった。

 

それからというもの、人を巻き込むことに傾注していくわけなのだが、そう単純にはいかないし、そもそも万能なスキルでもない。

 

このスキルの練度の高さは、重要なタイミングで重要な人に重要なことを伝え、重要な力を必要なだけ借りる為に自分の持てる人脈やネットワークを活かすことを指す。

 

断じて「何でもかんでも大騒ぎして、人騒がせに立ち振る舞い、結果的に自分に都合よく丸く収めてめでたしめでたし」をすることではない。

わざわざ毎回得点圏までランナーを出しても無失点に抑えるピッチャーと三者凡退で抑えるのピッチャーを比較してしたら後者を評価すべきに決まってる。

 

人騒がせと人を巻き込むというのは紙一重

 

人を巻き込むつもりが人騒がせになってしまうことはよくある。

 

人騒がせなピッチャーで登板したはいいが、挙句、ピンチを招いて降板し、その後登板したピッチャーに抑えさせるようなもんだ。そのピッチャーが抑えたとしても本当に使いたかった場面で使えたかというと疑問符が残る。

 

予定では次のイニングに投げるピッチャーをムダに早く投げさせるわけだ。

場合によっては回跨ぎさせて後で打たれることだってある。

が、この時記録、評価が悪くなるのは本人ではなく、後続のピッチャーだ。

 

実は見えないところで他の人に余波を与えているケースがあり得る。

 

だから人を巻き込むことばっかり考えても、現実はそううまくはいかない。

 

実際、その人も散々騒いだ挙句に人の手間だけとって、自分のところだけ何とかして、他を疎かにさせるような実態が出てきた。

 

自分のプロジェクト専任ではない人に他の仕事をおろそかにさせて影響を出したり、プロジェクト進捗の粗さや完成度が低い部分のカバーをプロジェクトメンバー外の人も含めて奔走させたりなどした。

 

ややお騒がせモードに入りつつも、プロジェクトがいったん完結してしまえば残るのはプロジェクトリーダー・マネージャーとしての功績になりがちな環境も相まって、あまり光の当たらないたくさんの人の苦労があった。

 

だが、その人は昇進した。

 

結果、憧れたプロジェクトマネージャーと肩を並べるポジションになった。

 

そのクオリティには圧倒的な差があるが、それでも昇進を勝ち取り、部下を持つ存在となった。

 

そして、彼は人を巻き込む力について勘違いしたまま今日も他人から労働力と時間をいかに獲得するかを考えている。。。

 

これが得体の知れない人を巻き込むスキルがもたらす闇の部分だ。 

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きちんと全体を見た上での巻き込み方であればいいが、限られた人的リソースの綱引きに強いだけだと質が悪い。

 

自分のやっている仕事の重要さがそれほどでなくても大げさに見せて他人の力を借りる。

 

自分自身で何とかすべき仕事のはずなのに、他の人の時間と手間を使って自分は楽をする。

 

人との心理的な駆け引きだけで人に自分の仕事をさせる。

 

こういうケースは普段身の回りに山ほど溢れている。

 

 

自らの仕事や行動に価値を感じさせ、説得力を持った形で人々から協力を得るという

 

この人を巻き込む力だけに傾注し始めると本質を見失う。

ただただ人に自分を特別扱いさせようと必死になることになる。

 

一つの仕事を達成するためにいろいろなことをみんなにやってもらいました。

だから人を巻き込む力があります!

 

こうなっては意味がない。

 

順序が逆である。

そして、こういったクレクレ人種に力を貸していると知らぬ間に人生の時間やパワーを吸い取られてしまう。

もちろん、それが幸せな場合はそれでもいいのだが、それが美徳ではないことも認識しておいた方がいいかもしれない。

 

酷い場合には正直者が馬鹿を見る搾取的状況に陥りかねない。

 

こういう人種は他人の善意に意識的にも無意識的にも依存する。

 

そして、それでいい物だと思っている。

 

いつしか当然だと思うようになる。

 

そして、例のように人の力をいかに効率よく借りるかばかりを考える人になる事だってある。

 

だがそれは長続きしない。

とっかえひっかえ依存先を変えるだけだ。

 

自分にはこんな目標やゴールがありました。

 

自分一人ではできないものでした。

 

だけど、目標とゴールに共鳴した人たちと一緒に努力を重ねました。

 

結果的にたくさんの人とかかわりを持てました。

 

この流れでなければならない。

 

このスキルが独り歩きしすぎて、何人の人の助けを借りたか、どれだけの人の助けを借りたか?という指標だけで判断するマインドを持つと非常に困る。

 

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結局、重要なのは巻き込んだ先に何があるかだ。

 

人を巻き込む力

 

 

この言葉が独り歩きすることで本当の意味とは違う誤解を生んでいる可能性がある。

 

この点には気をつけなければならない。

就活生も頭に入れておく必要がある。 

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人を巻き込む力を連呼する人が本当に意味を理解して発しているのかを。

 

本当は自分の目指す価値やゴールに共鳴し、力を貸してくれる人を増やす力であるべきなのだ。

 

 

「管理職が自分の10分の為に部下の1時間をとる」時の話

管理職の10分はどこまで重要か?

 

朝令暮改・右往左往。。。

いろいろな言い方がありますが、まぁ要は上流で1ミリずれると下流ではもっと大きなずれが生じます。

 

上流から下流までが長ければ長いほど末端の動く距離は大きくなります。

 

その中でガンガン振り回された挙句、何もいいことがなかったなんていう徒労感は働く人の気持ちを大きく削ぎます。 

 

結果につながっているかがわからない管理職の10分

 

まぁそれは企業たるもの至る所で起こる訳です。

そこのお前のいる外資系企業だってそうです。

 

グローバルのトップが来るからと言って日本では日本のトップをはじめとしてあらゆる管理職が資料作りや体裁の整えに奔走します。

 

それが大体3週間から1か月程度の期間で準備がなされるわけですが、ミーティングにミーティングを重ねて備える訳です。

 

まるで敵が侵略してきたかのような扱いです。

いわゆる非常事態宣言のようにどこもかしこも大慌てになります。

 

本業のビジネス活動に加えてこれらのたくさんの見せるためだけの仕事がOnされるわけで、時間は無駄になっていくわけです。

 

ぶっちゃく、来たからと言っていいことは基本的にはありません。

重要なビジネス判断を即断即決してくれる場合はいいですが、それは他で行われますし、もっと複雑なプロセスがこの即断即決を阻みます。

 

ちょっと粗が目立つと指摘を食らい、業績が順調だと満足して帰っていく。

なので、いかに良く見せるか?ということに奔走するわけです。

 

ただそれだけです。

何かが圧倒的に加速するとかよくなるということは滅多にありません。

言ってみれば無価値です。

 

圧倒的なスーパーマンであれば意味があるのかもしれませんがいかにグローバルエリートと言っても万物において全知全能というわけにはいきません。

 

ちょっとだけ寄った国のちょっとだけ見た資料の中ですべてを適切に判断することはできませんし、事実そのようなことが起こる確率は圧倒的に低いです。

 

なので、問題があることは国だってわかっている中で訪問し、それを殊更に指摘して帰っていくだけってことだってある訳です。

まぁ、そういう流れに陥ると絶望的なわけです。

 

というか、だいたいはそういう流れになってしまうことが多く、得られるものに対して失うものが多すぎることから、ネガティブな効果を生み出さないために万全を期す守りを固めるといったスタンスになります。

 

社内に対して守りを固めるというのは全く以って意味不明ですが、まぁ大企業になればなるほど必要とされる確率が高まります。

 

普段仕事をしているかどうか不明な上席の人間がいきなり接待用のお店の確保に時間を使ったりとか、ここぞとばかりに色めき立っていろいろ無茶な資料作成を実行させる上司も現れます。

 

まぁ普段上の立場にいる経営層や上司陣にとっては比較的珍しい彼らが一生懸命アピールをしなければならない機会です。

それだけに必死になるのでしょう。

 

わざわざのオンパレード

 

わざわざまとめたテンプレートを変えなきゃいけない。

 

わざわざ見たいように見れるように追加のエクセルワークを加えなきゃいけない。

 

わざわざ疑問の解消のために他の人に念のために確認をしなければならない。

 

わざわざ一度言われた内容の資料を変えなければならない。

  

時には必要なんですが、これが毎日の仕事となるとなかなか重たい。

もちろん上の職位になればなるほど時間に対して任される責任も多くなるし、判断がもたらす影響が大きくなり、対処すべき事柄も多くなるわけです。

 

が、どこまで許されるでしょうか。

 

もちろん長い付き合いになればだんだん必要なこともわかって来るので、シンクロ率が上がることである程度省略することができます。

 

が、これがない場合はどんどん地獄に近づくわけです。

同じデータに基づいていくつもいくつも書き直しや作り直しが発生します。

 

正直、社内での無駄な資料作りになることも少なくないわけです。

 

 

 

仕事に意味を見出したい欲求は部下にだってある

 

もちろん、これが重大な投資承認への資料であるならば万全を期すことにも効果がないわけではないです。

が、これが上司のアピールや個人的なこだわりだったらどうでしょうか。

 

一気にやる気がなくなるとは思いませんか?

むしろ自分でやれよとすら思ってしまうわけです。

 

まぁ生意気だとかなんだとか言われようとも人間の感情はそういうもんなのです。

 

これが重なっていくと人は仕事に対して大きくやる気をそがれます。

 

管理職の10分が会社のための10分になっていれば貢献することに対する肯定感も上がるものですが、これが管理職のためだけの10分で会社のためでも自分のためでもない10分に自分の1時間が取られることは金をどぶに捨てているようなものだなぁと思うわけです。

 

逆に外資系企業ではそのあたりを割り切ってエクセルとパワーポイントマスターになる社員を養成しているところもあります。

 

なんと、仕事のすべてがパワーポイントの作成とエクセル資料の作成です。

基本的に社内から情報を可能な限り集めて、それを纏めて経営層にレポートするだけの仕事というものがあります。

 

それでそのまま管理職にもなれる場合もあります。

ですから、いかに大企業の中には実際のビジネスとかけ離れた分野が存在するかというのがわかっていただけると思います。

 

社内での資料作成の為だけの仕事です。

なんならその作成を外部の専門企業に委託している場合だってあるのです。

それぐらい会社における資料作りというのはありふれたものになっているわけですが、一部の経営層すらも非常にキレイで洗練されたスライドを作らせていたりします。

 

しかし、自分が何かを成し遂げる訳でもなければ何かを変える訳でもありません。

ただただ自分ではない誰かやどこかの話をそのまままとめるだけです。

 

実はそれによって離職率は非常に高かったりします。

グローバル中央組織での職務に移ってから短期間経験したのち、そのまま本国に戻るということも数多くあります。

 

もともと実際の現場におけるビジネスで成果を出す事が好きな人にとっては物足りなさを感じてしまうわけです。

 

これには心理学的にも確かに理由がある訳ですが、要はやっている仕事の目的や価値に自信を持てないことが問題なわけです。

 

たまに資料作りをするのであればいいですが、それがあまりにも重なり、それが自分にとってさして意味のないものとなると問題なわけです。

 

自分の時間が使われている対象に対して誇りを持てなくなるわけです。

 

これも仕事さ

 

まぁこれで給料がもらえているんだからいいか

 

なんて騙し騙し進むこともありますが、これで変な上司あたってひたすらに資料作成の内容をめぐってギャーギャー文句を言われてはかないません。

 

だから、管理職として「部下は上司のためにどんなことでも時間を使ってくれる」と考えることは非常に危険なわけです。

 

特に優秀でやる気がある部下程、こういったことに対して嫌悪感を持たれると困ってしまいます。

だってすぐにやめていかれてしまうから。。。

 

これからの管理職は部下の時間の使い方にすら気を配らなければならないわけです。

もちろん、何が何でも周りの時間を自分の為に使わせることも一つの能力ですが、それは嫌悪感や反感を買わない範囲においてという条件付きです。

 

全く管理職は大変ですねぇ

 

なんてね。。。

自己否定学習ができないことが恐ろしい話

忘れられる自己否定の重要性

自己肯定感という言葉が踊るようになって久しいと思います。

 

自信を持ちなさい

 

自分が自分であることを貫きなさい。

 

ゆとり教育や褒めることが正義とする教育のトレンドも一貫してこの点を強化する傾向にあります。

 

ありのままでいい。

 

自分が好きなことをやろう。

 

君が君であることが君の人生だ

 

他者を尊重し、自分自身も尊重されるべき。

 

人から否定されることなんて気にしなくてもいい。

 

なんて。

 

さまざまな目を引くキャッチコピーや優しい言葉が踊っています。

実際、数多くの成功談もこの側面が強調されるようになりました。

 

「好きなことで生きていく」

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「ありのままを~」

―Let it go

 

「働かずに所得を得る」

―某情報商材

 

それだけではありません。

昔と比べてスポーツのインタビューや感動エピソードの作り方も大きく変わりました。

 

なるべく自己否定する部分を削る傾向 

 

好きなことをひたすら続けることが成功の秘訣です。

とか

自分はできるはずだといつでも信じていました。

とか

 

自分自身の絶対的な聖域を持ちたいように持っていいかのような作風が目立つようになりました。

 

皆さんだってできる!

とか

これを見て自信を持とう!

 

そういった作風に変わってきました。

 

これ自体は非常にいいメッセージだとは思いますが、ただそれを優先するあまり、努力や挫折を乗り越える側面を少し軽くしすぎているシーンが増えた気がします。

 

 

臥薪嘗胆、艱難辛苦などのストイックな部分は古臭いと敬遠されるようになりました。

 

 

確かに苦労や努力に比例して成功をつかめると保証されているわけではないのでストイックさや泥臭さは一つの戦い方ではありますが、絶対的正義ではありません。

 

が、なにか積極的にストイックな生き方をすることにネガティブなイメージすら植え付けている瞬間もあるのです。

 

もちろん、いたずらに人を追い込むような作風を奨励すべきとは言えませんが、求道者の苦労や苦痛については極力触れない作風が目立つようになった気がします。

 

昔(20年前程度)のNHKのドキュメンタリー等と今の民放のドキュメンタリーを見ているとその差をすごく感じられるので見てみると違いがはっきりしていて面白いです。

 

NHKのProject Xとかも今は終わってしまいましたが、重た~い展開で本当にリアルな苦労が伝わるものでしたね。

 

陰に隠された努力にはいつの日も激しい自己否定がある。

 

今のままではだめだ。

 

変わらねばダメだ。

 

現状維持に胡坐をかいた故の窮地

 

こういう状況は人生の中で1度も経験しないという可能性は低いわけです。

 

逆に、そういった逆境や厳しい状況を跳ね除けた事は価値のある財産になる訳です。

 

イチローも引退間際にあれだけ髪が真っ白になるまで悩みぬいて、それでも野球を愛したことが誇りだと引退会見で語る訳です。

 

羽生善治も常に戦い方を変える進化を追求する勇気が勝利をもたらすというわけです。

 

それらの裏には途方もない自己否定と再構築があるはずです。

 

今までの成功モデルはこれからの成功を保証しない。だから常に自分自身を超える自分でいなければならない

とか

自分自身の成功したモデルを手放し、試行錯誤する苦痛を常に味わう。

 

そういった陰に隠れた大っぴらに誇張するとダサく受け取られる膨大な努力の存在を知らずして、自分はありのままでも自分の歩みたい現実を歩めると漠然と認識することは非常に問題なわけです。

 

あんまり努力はしない代わりに、どんな結果になっても文句は言わない。

とか

自分のやりたいようにする代わりに、成功しなくてもいい。

そういう考え方はありだと思います。

 

それはそれで誰か無関係の他人の評価は無関係です

やりたいことをやって、それが満足ならそれで幸福は完結するのです。

 

食事は食べること自体が幸せであってそれ以上のものはないということです。

 

が、ありのままでいたいけど、成功も自分が欲しい分だけ欲しい。

となると話は違います。

 

成功の定義はそれぞれですが、何らかの評価や金銭を得たいという場合はどうしても他者や外部環境による影響を受けます。

商売であれば人の欲しいものを売るのが鉄則ですし、競争ならば他の人より優れていなければなりません。

 

つまり、生まれながらにして人のニーズをとらえていたり、無双状態でない限りは自分がありのままでいる状況で結果を両立することは難しいわけです。

 

この違いを正しく理解できないことは非常に問題だと思うんです。

ありのままでいたいのか結果が欲しいのか。

 

どこかでありのままの自分でいることと希望する成功を得ることが対立する部分が出てくるわけです。

 

ありのままでそのまま成功を継続するケースは超絶稀であり、多くは一時的なものか、創作物の世界です。

 

この自分自身と自分が掴みたい結果との乖離に対処する力は自己肯定一辺倒では養えません。

 

結果が欲しい場合は自己否定のプロセスを体得する必要性が高まる。

 

子供と大人の違いや精神的成熟度合いを分ける決定的な違いはそこにあると言えます。

 

自己否定学習ができるかどうか。

子供のころは社会や周囲に否定されることで自分自身と社会との距離を掴みます。

完璧に守られた幼少期を抜けると、親に怒られ、先生に怒られ、友達とケンカし、様々な思い通りにならない現実を味わいながら人格を形成します。

要はリアクション人生というべき他者否定学習です。(もちろん、他人から褒められる事でも学習します。)

 

しかし、年を経るごとに自己否定と自己肯定の比重は大きく変わる。

 

大人では自分自身で自分を否定し、世界との関係を継続することが生存戦略として求められるようになります。

一々細かいことを指摘したり、教えてくれる人は年を経るごとに少なくなりますし、より多くのことが経験済みの知識で対応できるようになります。

 

が、他人からあまり細かく言われない期間が長くなるにつれて、気が付かないうちに陳腐化している可能性を孕んでいます。

その陳腐化が社会的に様々な不都合な現実をもたらしうるため、常に先手先手を打ち、現在位置に無条件に安住しないことを意識する必要があるということです。

 

人生にめどがつくまで絶えまない変化に対応できなければなりません。

 

その間、他人や環境から否定されることもある

 

その否定がとるに足らないものであれば大したダメージではありません。

 

例えば、そこのお前は単なるサラリーマンですが、草野球が好きです。

草野球は好きでも草野球が下手くそ!って言われてもちっとも困らないわけです。

その程度の否定は取るに足りません。

「ごめんちゃい!でも、野球好きだわー!」で済む話です。

 

逆に、本業では外資系企業に勤める管理職として「仕事の出来が悪い」と言われては致命的なわけです。

この部分において失敗を重ねることは生存に関わります。

 

その前に自分自身を変えるなり、至らぬ部分を補強したり、長所を磨いたりするなどの戦略的変化をもたらさなければなりません。

 

大人は他人に否定されるより先に自分で自分を否定し、対策を打つべき。

 

満足は進歩の敵という格言にはそういった意味合いが含まれています。

 

耳が痛い話ではありますが、現実は思っているよりもずっと残酷でえげつない世界です。

 

その前段階で自己否定プロセスを自律的に機能させられない場合、一生懸命頑張っているつもりでも、冷酷な現実があることを受け入れることができなくなります。

 

そして、自分と現実の狭間で大きな精神的負担を強いられるのです。

 

自己否定をしない生物は進化が止まる。

 

残された道は自分自身のわずかな最適化による調整だけ。

 

ガラパゴス島の生き物が他の環境では生きられないように。

 

自浄作用がない歴史ある組織が内紛で内部崩壊するように。

 

慢心したチャンピオンが新世代の台頭に飲み込まれるように。

 

もちろんだからと言って常に変わり続けても勝てるかというとそういうわけではありませんが無条件の自己肯定も勝利の永続性は保証してくれません。

 

それに、自分自身は常に変わり続けます。

嫌でも老いていきますし、できたこともできなくなります。

 

変化に対応できないことはそういった恐ろしい事実すら自覚できずに緩やかに弱くなっていくのです。

 

自分自身を否定する技術を身に着けるよう意識してみてはいかがでしょうか。

 

最初は大変ですが、慣れと共に自分自身をよりコントロールするためのツールとしては非常に有効だと思いますよ。

 

それに、自己肯定と自己否定をどちらもできることはかえって自信につながりますよ。

自分が自信を持つべき部分、謙虚であるべき部分がおのずと見えてきます。

 

ではでは