小日向白朗学会 HP準備室BLOG

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8月葬送

2020-08-26 | 白朗と私 会員思うままに・・・
 残暑の季節。
この時期は、心の澱(おり)が沈殿するのを実感する季節でもある。それは、いやおうなしに年中行事として繰り返されている此岸と彼岸を往来する死者との交流の季節とも重なっている。わかりやすく言えば「死者との会話」の季節なのだ。もちろん死者は声を発生してしゃべることはない。ただ、生者としての私は(私たちは)、反響のように響いてくる死者の声をあたかも虫の音を聴き取るかのように実感する、そんな季節である。この虫の音は果たしていつまで聴き取ることができるのであろうか。
 310万人という数字がある。今から75年前、一つの締めくくりの時期を迎えた日本は死者の数を数えた。数多の死者の上に迎えたその時の風景は、その後の時の流れの中で多少は変容してきたのであろうか。東京裁判で絞首刑になった人たちもいた。それで禊は済んだのだろうか。6月23日沖縄の惨劇、8月6日、9日の原爆以前、3月10日東京大空襲、いや、その前の2月4~11日ヤルタ会談、・・・いやもっと前にいろいろなことがあった。要するに「やめるチャンスは何回もあった」のである。「日本は負ける」との見識はすでに、一部の人というよりもかなり多くの知者たちに共有されていたともいえる。ただ、精神を心底から病んでしまった時のリーダー(そんなリーダーが存在したか?)は、すでに「命の意味」を感受不能なまで重体・危篤に陥っていた。
 遡ることさらに17年、満州奉天で一人の覇者張作霖が爆殺された。犯人は野に放たれたまま、大日本帝国陸軍においては犯人賛美、あるいは、犯行の追認といった順法精神の劣化が始まっていた。さらに3年後の満州事変に至るまでの微妙な時期、つまり、日本が蟻地獄に入り口に立ちながらも足をとらわれずしっかりと起ち上れるかどうかの瀬戸際にいた時、確かに「知」は存在していたらしい。中公新書の大杉一雄著「日中15年戦争史」(なぜ戦争は長期化したか)124ページに「石橋湛山の満蒙放棄論」というタイトルかある。この著の中で「斯くしてわが国は最も気永く親切に、支那人の国民意識に衝突せざる限りにおいて、同地の世話をし、而して自然に同地が文明に導かれ、かつ親日化するを辛抱して待つ。・・・・結局此外に真に満蒙をわが国民に価値あるものにたらしむる妙策はないであろうと考える。」領有論と真っ向から対立する見識である。これはなにも石橋一人の見識というものではなくて、視点は異なっているものの関西財界一部に日中貿易の健全な発展という観点から「中国のとの純然たる経済関係を樹立すべき」との声もあったという。
 しかし、日清、日露の既得権益拡大意識は単に軍部のみならずかなり一般の人々までも含んで広範囲な精神を蝕んでいたといえよう。資本主義は植民地なしには発展持続することはできないとの幻想があったのかもしれない。世界大恐慌からの脱却幻想も拍車をかけたのかもしれない。五族協和などの耳障りの良い言葉をふんだんに駆使して煽ったのは時のマスコミでもあった。 これらをまとめて継承発展させたのは優秀な知能と行動力を持っていた石原莞爾であった。この時期にこの場所で天才軍人石原を得たわが国はさらにおおきな悲劇へと導かれていったのであろう。(文責:吉田)

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